第2話 無能の烙印
体育館の床は、朝の寒気をまだ抱えていて、踏むと足裏に冷たさが吸い上がってきた。
薄い青の魔術灯が列の先にある計測台を白く照らし、そこへ続く行列の空気は、期待と不安の湿りで重くなっている。
今日の数値が、明日の扱いを決める。
分かりやすくて、残酷な日だ。
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「次――天道 颯斗くん」
白衣の試験官が声を張ると、行列のあちこちで小さくざわめきが起きた。
「来た来た」「やっぱ天道だろ」
「もう“合格確定”じゃん」
囁きが広がり、少しずつ拍手のようなリズムに変わる。
颯斗は肩をすくめ、場慣れした笑みを浮かべて計測台に上る。
重心は土踏まずの真ん中。
踏み出す前から戻り先を確保している立ち方――強者の癖だ。
魔術灯が一段、明るくなった。
掲示板に数字が浮かぶ。
【筋力:31】【体力:30】【魔力:28】【敏捷:33】
【スキル:《剛力》《見切り》】
歓声。
羨望。
舌打ち。
どれも、十年前と同じ音だ。
「やっぱ化け物だな」
「いいよな、全部平均以上とか」
「これでまだ伸びるんだろ?」
声が勝手に群れて、熱を帯びる。
颯斗は過剰でも卑屈でもない、ちょうどいい笑みで一礼し、台を降りる。
人混みの端に立つ俺を見つけると、わずかに顎で合図した。
――任せろ。
その目が、そう言う。
未来でも彼は、何度もそう言って前に出た。
だからこそ、ここから先は俺がやる番だ。
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「続いて――神無月 静さん」
黒髪をひとつに結んだ静が、緊張を押し殺した面持ちで台に立つ。
指先はかすかに震え、足取りは落ち着いている。
光。
数値。
【筋力:14】【体力:18】【魔力:37】【敏捷:20】
【スキル:《詠唱短縮》《魔操》】
どよめき。
「やっぱ魔力特化だよな」「詠唱短縮持ち、羨ましい」
「これで組めば最強じゃん」
「やっぱり」の空気が広がる。
静は深く礼をして降り、胸の前でそっと手を組んだ。
眼差しは真っ直ぐ前へ。
あの視線は、十年後の災厄の前でも折れなかった。
折れなかったからこそ、守れなかったものがあった。
――今度は守らせない。
そのために、俺はここにいる。
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「次、篠宮 悠真くん」
自分の名前が体育館に響いた瞬間、いくつかの視線が刺になって飛んできた。
好奇、退屈、憐憫、嘲り。
どれでも構わない。
台に上る。
ステータスプレートに掌を置く。
ひやりとした板の感触が皮膚から骨へ伝わっていく。
背後で、誰かが小さく笑った。
光が脈を打ち、掲示板に数字が浮かぶ。
【筋力:5】【体力:6】【魔力:4】【敏捷:5】
【スキル:――なし】
静かな瞬きの間を置いて、ざらついたざわめきが戻ってくる。
笑い声。
ため息。
「うわ」「マジで?」「最下位更新だろ」
「上限じゃなくて下限叩いてんの草」
「これで冒険者とか死にたいのか?」
一部はスマホを構え、画面越しに小声で騒いでいる。
記録して笑いの種にするのだ。
十年前の俺は、この音に殴られた。
膝が抜け、視界が狭くなり、呼吸が乱れた。
今日は違う。
俺は数字から目を離し、試験官へ向き直る。
彼は眉尻を下げ、同情の色を隠せていない。
「篠宮くん……適職の指導を――」
「不要です。冒険者を続けます」
自分の声が静かに体育館の空気へ沈む。
刺も怒りも、見せない。
宣言だけ置いていく。
「おいおい、無理だって」
「ハンター科は数字がすべてだぞ?」
「命はひとつしかないんだからさ」
あちこちから善意の顔をした石が飛ぶ。
善意は重い。
躱すべき石だ。
列の脇から天道 颯斗が一歩出た。
肩に触れる掌は温かい。
「悠真。……無茶は、するなよ」
「するよ」
素っ気なく答えると、颯斗は苦笑して少しだけ眉を上げた。
「……でも、無駄はしない」
「それなら、いい」
短い会話に、十年分の呼吸合わせが戻ってきた気がした。
静がこちらへ歩いてくる。
目だけで問う――大丈夫?
「大丈夫だ」
声に出さず、口の形だけで返す。
静は小さく頷き、胸の前で握った手をぎゅっと強めた。
試験官が咳払いをして進行を続ける。
体育館の熱は、すぐに次の数字へ移る。
人は、他人の失敗より自分の未来が好きだ。
それでいい。
⸻
俺は台を降り、壁際まで下がった。
掲示板の脇に、市内ダンジョンの危険度表が貼られている。
低難度の「はじまりの洞」。
中難度の「鉄蛇坑道」。
そして、一般には関係ない小さな注記欄。
――森丘地帯。
夜間、短時間の空間歪曲。
公式マップにない座標。
《薄明の獣路》。
視線が自然にそこへ吸い寄せられ、呼吸が一拍、深くなる。
十年前、俺はその扉を知らずに通り過ぎた。
回帰後、ようやく一度だけ辿り着けた。
その奥に、“最初の一手”がある。
「おい、見たか?」
「筋5・敏5で冒険者続けるって、勇気じゃなくて無謀だろ」
「まあ、どこかの採集班で書類持たされて終わりだよ」
壁越しに漏れる言葉は、今も変わらず良く通る。
だが、心拍は乱れない。
数字が全てじゃないことを、俺は知っている。
数字の“外側”にある勝ち筋を、俺は十年かけて身体に刻んだ。
⸻
チャイムが鳴る。
午前の測定は一旦休憩だ。
体育館の扉が開き、生徒たちが群れになって流れ出す。
空気が入れ替わり、床の冷たさに少しだけ陽の温度が混じった。
渡り廊下を歩いていると、背後から足音が近づく。
軽やかで、間合いを測る音。
「篠宮」
天道 颯斗だ。
窓の外の薄い雲を一瞥し、俺の横へ並ぶ。
「さっきの、マジで言ったな」
「ああ」
「理由、聞いてもいいか?」
「未来で、失敗した。全部、失敗した。……だからやり直す」
「未来?」
颯斗は眉を上げ、短く笑った。
「――お前が本気で言うなら、俺は本気で信じる」
躊躇がない。
この直線が、何度も俺を救った。
「助けは要るか?」
「今はいい。巻き込むにしても、順番がある」
「了解した。……昼、メシいくぞ。静も誘った」
「任せる」
颯斗は片手を上げ、廊下の向こうへ消えた。
彼がそう言うとき、たいてい本当に集まる。
十年前も、そうだった。
ただ一つ違うのは――今回は俺が主導するということだ。
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教室に戻ると、空気はいつも通りの騒がしさに戻っていた。
誰かが机を鳴らし、誰かが笑い、誰かが名前を呼ぶ。
俺の机の天板には、昨日の傷がそのまま残っている。
乾いた筋。
指でなぞると、ざらりとした感触が爪にひっかかった。
ノートを開き、朝の測定のメモを書き出す。
天道 颯斗――31/30/28/33。
《剛力》《見切り》。
神無月 静――14/18/37/20。
《詠唱短縮》《魔操》。
篠宮 悠真――5/6/4/5。
なし。
数字を並べると、現実の輪郭がさらに冷たくなる。
だが、目的は数字を嘆くことじゃない。
足りない分を、どう積むか。
どの場面で、何を捨て、何を拾うか。
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昼休み。
食堂は騒然としている。
卒業前の浮ついた笑いと、ささくれた焦りが、皿の音に混じって跳ねる。
颯斗が席を取っておいてくれた。
向かいに座る静は、トレイの上のスープを両手で囲んでいる。
顔を上げると、まっすぐ俺を見る。
「さっきのあなた、格好良かった」
「数字は最悪だったけど」
「数字じゃないものも、ちゃんと見てる」
静の言い方は、いつも簡潔で、いつも重い。
颯斗が笑いながらパンをちぎる。
「静のそういうところ、好きだわ」
「颯斗くんは、軽口がうまい」
「褒め言葉として受け取ろう」
いつものやりとり。
いつもの空気。
俺はこの日常が好きだ。
だから守る。
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「午後は自由時間か?」
「うん」
「なら、放課後に話がある」
「分かった」
短い約束を交わし、各自の皿に戻る。
トレイの端で揺れるスープの表面に、天井の蛍光灯が細く映っていた。
指で軽くテーブルを叩くと、映り込みが一瞬だけ崩れる。
この小さな揺れの連続が、やがて世界の流れを変える。
そういう単純さを、俺は信じることにした。
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午後。
教室は少し眠い空気に沈む。
黒板の文字を追いながら、頭の片隅で持ち物リストを更新する。
防刃コート。
古いが軽い合金剣。
簡易魔力遮断布。
ポーション二本。
最低限を、最低限で。
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終礼。
解散の号令が鳴り、椅子のきしみと笑い声が重なる。
廊下に出る。
窓の外の雲はまだ薄く、風は夕方の匂いを運んでくる。
体育館脇の掲示をもう一度見に行く。
《薄明の獣路》。
公式には名前もない。
だが、地図の外側にある確かさを、俺は知っている。
背後から、誰かが俺の名を呼んだ。
振り向くと、颯斗と静。
「放課後、行くところがある」
そう告げる俺に、颯斗は頷き、静は不安と決意の両方を瞳に浮かべた。
ここまでが、今日の“学校”だ。
ここからが、俺の“実地”になる。
俺は時計を見る。
秒針の音が、心拍と重なった。
――数字は最低。
でも、未来は、書き換えられる。
そのために必要なのは、最初の一手。
そして、最初の一声。
「準備してくる。……死なない段取りで、な」
二人は同時に笑った。
笑いの質は違うが、どちらも信頼の形をしている。
俺は踵を返し、寮へ向かった。
夕陽が廊下の床を長く染め、影は先に走る。
その影を踏み越えながら、胸の奥で言葉を繰り返した。
――無能の烙印なんて、どうでもいい。
――俺は、やり直す。
夜の入口は、もうそこまで来ている。
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第2話 了。