本能と自傷の理性 2
ギルドの入口が軋んだのは、夜が更けた頃だった。
疲労と泥にまみれた影が、静かに姿を現す。
エリオンだった。
雨に濡れたローブ。腕には包帯が巻かれ、尾は土に汚れている。
ギルドの受付は、珍しく静かだった。
ティナが顔を上げると、その瞳が一瞬揺れた。
「⋯⋯エリオンくん、戻ったんだ」
「ああ」
短く返事をして、エリオンは歩き出す。
ギルドの隅の休憩室へと向かう途中、その視線がふと止まった。
ソファの前で丸くなっている少女――フィリアだった。
膝を抱えてうたた寝している。
濡れた髪に雨の名残があり、きっと彼女もついさっき戻ったのだろう。
「⋯⋯」
エリオンは、立ち尽くす。
そして、フィリアが気配に気づいたのか、ゆっくりと目を開けた。
「⋯⋯エリオン」
柔らかな声。
まるで、その名前を何度も心の中で呼んでいたかのような。
けれどエリオンは、言葉を返さなかった。
彼の表情は、あまりにも静かで。
まるで、感情の“温度”がどこかへ消えてしまったかのように。
「⋯⋯ごめんね、あたし、ずっと待ってて」
「⋯⋯どうして謝る」
「え?」
「俺は、お前に何も求めていない。⋯⋯それだけだ」
フィリアは、ぽかんとした顔になった。
「⋯⋯それ、本気で言ってるの?」
「本気だ」
エリオンの声は冷たくはない。
けれど、あたたかくもなかった。
「嘘つくときって、目を逸らすんだよ。⋯⋯エリオンも、そうなんだね」
その言葉に、彼はぎくりとまばたいた。
尾が、ぴくりと動く。
だが、それ以上は寄らない。
「本能で巻き付きたいなら、巻き付けばいいのに」
「⋯⋯それをすれば、お前は怖がる」
「だから、しなかったの?」
「⋯⋯そうだ」
「でも、あたし──」
「⋯⋯やめてくれ」
エリオンの声が、かすかに震えていた。
「俺は、お前を傷つけたくない。⋯⋯これ以上、何かを壊したくない」
「⋯⋯そっか」
フィリアは、わずかに笑った。
その笑みは、寂しさを滲ませながらも、どこか優しい。
「じゃあ⋯⋯待ってるね。エリオンが“噛み付く”のを。⋯⋯本当に、あたしを選んでくれるまで」
その言葉に、エリオンは初めて、わずかに目を見開いた。
彼女は、逃げない。
近づこうとするたび、拒まれることに怯えてきた彼にとって――
それは、どんな言葉よりも鋭く、どんな温もりよりも優しかった。
その夜、エリオンは自室に戻った。
窓の外は、曇り空。
尾を畳み、椅子に座ったまま、ぽつりと呟く。
「⋯⋯巻き付けば、壊れると思っていた」
己の本能が、彼女を傷つけると信じていた。
けれど、あの目は。
怖がってなんか、いなかった。
「⋯⋯どうすれば⋯⋯」
手が震える。
触れたいのに、触れられない。
噛み付きたいのに、噛めない。
“欲しい”と思うことが、怖い。
けれど、心のどこかで――
“噛み付いてしまえば、もう離さずにすむ”という衝動が、確かにあった。
それはきっと、恋という名の本能だ。
その夜、エリオンは眠れなかった。
自分の尾が、自分の蛇体に絡みついているのを感じながら──
遠く離れたあの少女の名を、心の中で何度も呟いていた。