本能と自傷の理性 1
雨が降っていた。
灰色の空の下、木々が濡れ、地面はぬかるみ、世界の輪郭がぼやけている。
その中を、エリオンは一人、森を進んでいた。
任務内容は、腐敗した獣の調査と殲滅。
小規模の依頼だ。だが、チームは“分断”されていた。
「⋯⋯気配、3」
黒紫の髪が濡れ、肩に滴が伝う。
巻き付いた尾が泥を滑らせながら動き、蛇の瞳が木々の間を射抜いた。
瞬間、木の陰からぬっと現れた異形の獣――
斧のような前肢と、崩れかけた体躯の《腐咬獣》。
「⋯⋯理性でいろ」
低く呟き、エリオンは地を蹴った。
すれ違い様に短剣が咽喉を裂く。尾が後方の一体を捕らえ、締め上げ、砕く。
だが、最後の一体が突撃し、爪がエリオンの脇腹をかすめた。
赤い血が、雨に溶けて地に落ちる。
「⋯⋯チッ」
痛みは感じていない。いや、感じる余裕がない。
視界が、赤黒く滲む。
呼吸が荒くなる。血の匂いが、獣の本能を刺激する。
(やめろ)
頭の中で声がした。自分の声だ。
だがもう一つ、低く唸る“何か”が、喉の奥で蠢いている。
ぐるり、と尾が意思を持つように動いた。
今、敵はいない。
だが、自分の手が、尾が、喉が――何かを求めている。
巻き付きたかった。誰かを。何かを。
噛みついて、抱き込んで、喉元で息づかせたかった。
「⋯⋯ッ!」
爪で自らの腕を裂いた。
傷が、疼いた。
だが、その痛みが、わずかに“人間”を引き戻した。
膝をつく。地面が冷たい。雨が降っている。
そして――そこに、誰もいなかった。
フィリアも、ジークも、リリィも。
──“独り”だった。
一方、ギルドの地下訓練場。
「エリオン⋯⋯まだ戻ってこないの?」
フィリアが呟くように訊ねた。
目の前ではジークが盾を振るい、リリィが淡々と支援魔法を放っている。
「⋯⋯任務の規模からすれば、そろそろのはずだが」
ジークの声は、いつもより慎重だった。
“分断”されてから数日。
フィリアの様子は、どこかおかしかった。
明るい声は保っている。けれどその目は、どこか上の空だった。
「⋯⋯エリオンに、何かあったら⋯⋯」
「奴がそんなヤワな奴に見えるか?」
ぽつり、とリリィが言った。
「⋯⋯見えないけど、なんか⋯⋯」
「寂しそうだった?」
「⋯⋯うん」
それは“感情察知”の力が言わせたのか、それともただの直感だったのか。
けれどリリィは、冷静な瞳で続けた。
「巻き付きたくなるほど、近づかせたのはあなた。
けれど、巻き付かれることを“拒まなかった”のも、あなたでしょ」
「⋯⋯⋯⋯」
「だから、今のエリオンは揺れてる。
“抑えるために離れる”か、“抑えきれなくても近づく”か。⋯⋯本能と理性の真ん中で」
夜。
エリオンは森の岩場に座っていた。
火も灯さず、ただ雨を避ける木の下で、傷を縫っている。
その手は器用で、だが血に濡れていた。
(俺は──また、繰り返すのか)
遠い昔。
理性が壊れた日。
大切にしようとした誰かを、尾で砕きかけた記憶。
巻き付きたかった。守りたかった。ただ、それだけだった。
それでも、“怖い”と拒まれた日から――自分の心はずっと冷えていた。
だけど、あの少女は。
『⋯⋯でも、怖くなかった』
あの夜の声が、耳に残っていた。
自分を怖がらなかった。
仮面の奥に、優しさと覚悟を見せた。
「⋯⋯フィリア」
名前を呼ぶだけで、心が揺れる。
この渇きは、なんだ。
この疼きは、なんだ。
尾が自分の脚に巻きついていた。
自分で、自分を締め付けている。
「抑えろ⋯⋯俺は、“もう二度と”⋯⋯」
低く呟いたその声が、雨に溶けた。
それでも、誰かの気配が欲しいと思ってしまった自分が――
一番、恐ろしかった。