銀月の帳と“危険人物” 5
《銀月の帳》──ザレム最大の冒険者ギルド。
その広大なホールに響くのは、今日も賑やかな喧騒と酒の匂い。
だがその中に、冷えた視線がいくつも交錯していた。
「⋯⋯あいつ、ラミアだろ」
「巻き付きで骨砕くって、本当かよ……」
「フィリアのチームに加わったらしいぜ。女、気をつけた方がいいってな」
誰かが囁き、誰かが笑った。その声は抑えられていたが、確実に届いていた。
ギルドの片隅、エリオンは背を壁に預け、静かに水を啜っていた。
声に反応はしない。だが、黄金の瞳は一瞬だけ、冷たい光を宿す。
尾がわずかに床を滑る音。
それに気づいたのか、近くの椅子に座っていた若い冒険者が怯えて席を立った。
「──ったく、あんなヤツ、ギルドに置いといていいのかよ」
にやにやと笑いながら、そう言ったのはバロス。
その隣にいるのは、無精ひげの兄ギリウと痩身の弟メロウ。
腰巾着の兄弟は、今日もバロスの顔色を伺いながら笑っていた。
「けどよぉ、フィリアちゃんも変わってんな。あんなのと一緒に任務なんてよ⋯⋯」
「どうせチーム組む相手が他にいなかったんだろ。前のチームでも浮いてたしな」
「ははっ、あの“気を使いすぎる女”ってやつだろ? どーせそのうち泣きついてくんじゃね?」
ぎし、と椅子の足が軋んだ。
バロスが振り返ると、そこにはジークがいた。
無言のまま、彼の前に立っていた。
「⋯⋯何だよ、なんか文句あんのか?」
「⋯⋯ある。お前らみたいな連中がギルドを腐らせんだ」
淡々とした口調だった。だが、握り締めた拳に力がこもっているのがわかる。
「言っていいことと、悪いことがある」
「ハッ、マジになんなってジーク先輩よぉ〜? 俺ら、ただの世間話──」
「黙れ。もう一度フィリアの名前を馬鹿にしたら、俺が黙っちゃいない」
ジークが背を向けると、バロスは舌打ちし、ギリウとメロウは慌てて立ち去った。
そのやりとりの少し後、フィリアはリリィと談笑しながら、掲示板を眺めていた。
「今度の依頼、南の森だって。魔物討伐⋯⋯あ、また《アルカ》いるかも?」
「またか。前回のも面倒だったな」
リリィは相変わらずの無表情で呟く。
だがその目線はふと、遠くの席に座るエリオンへと向いた。
「⋯⋯で、そいつとは、うまくやれてるの?」
「うん⋯⋯たぶん」
「仮面が、ちょっとだけ薄くなった気配はあるけど?」
「⋯⋯うん」
そう言って、フィリアは笑った。
仮面の奥、ほんの少しだけ“素”を見せるようになった自分に、自分で驚いていた。
けれど、その時だった。
「──フィリア」
振り向くと、受付のティナが真剣な顔をして近づいてきた。
「カルドさんが、チーム全員呼んでる。ギルドの一室へ来てって」
「⋯⋯何か、あったの?」
「うん。あのね⋯⋯ちょっと、“噂”が広がりすぎてるのよ」
ティナの声は、珍しく静かだった。
「エリオンくんが⋯⋯フィリアを“拘束して離さなかった”って。巻き付いて、殺しかけたって」
「⋯⋯そんなこと、してないよ」
「わかってる。あたしも信じてる。けど、“噂”はそういう理屈で動かないの」
その言葉に、フィリアは奥歯を噛んだ。
ギルドの応接室。
カルドが組んだ腕を解きながら、エリオンを見据えた。
「⋯⋯お前がフィリアを襲ったって噂、もう“外”にも出てる」
「⋯⋯事実ではない」
「それは分かってる。だが、このままじゃ任務にも支障が出る」
カルドの言葉に、チーム全員が沈黙する。
「しばらく、“別任務”という形で、チームを分けることを提案したい」
それは――一時的な分断だった。
「⋯⋯俺は、それでも構わない」
エリオンがすぐに答える。その顔に感情はない。
だがフィリアは、たまらず声を上げた。
「ちょっと待ってよ! あたし、そんなの望んでない」
「だが⋯⋯」
「“危ない”とか、“怖い”とか、勝手に言われて⋯⋯あたしが、“はいそうですね”って従うのが当然なの?」
「フィー⋯⋯」
ジークが低く声をかける。
けれど、彼女は顔を上げた。
「エリオンは⋯⋯あたしに、“何もしてない”。だから、別に離れたくなんかない」
その一言に、エリオンの目がわずかに見開かれた。
けれど彼は、何も言わない。ただ、じっとフィリアを見ていた。
それが、始まりだった。
ギルドに漂いはじめた“不信”の空気と。
その中で、なおも“繋がろう”とする心の、最初の選択だった。