銀月の帳と“危険人物” 2
森が静まり返るとき、危機はすでに始まっている。
巨大なトカゲの魔物が地を這う。毒棘を持つ尻尾を振りかぶり、獲物を威嚇するように唸った。鋭い牙の隙間から、泡立つ唾液が落ちる。
だが――その魔物の頭部は、次の瞬間には地面を転がっていた。
「⋯⋯ここまで、か」
暗がりの森に、男の低い声が響いた。ラミアの青年――エリオンが、黒紫の長髪をひと振りして剣を鞘に納める。
視線は魔物に向けられたまま、感情の起伏は乏しい。
息は乱れていない。傷もほとんど負っていない。けれど、瞳だけが異様に乾いていた。
エリオンは周囲の死角を確認し、動かなくなった魔物を縄で固定した。解体まではギルドの専門部隊が行う。彼の任務は討伐までだ。
尾を地に滑らせながら、森を離れる。
――ひとりで。
誰の声も、足音もない世界に、彼の体だけが沈むように動く。空気が彼を避けるようにすら感じられるのは、たぶん気のせいではない。
銀月の帳。
ギルドに戻ったエリオンが、受付に討伐証明を提出すると、対応に出たティナが少しだけ眉を下げた。
「お疲れさま、エリオンさん。⋯また一人で?」
「いつも通りだ」
淡々とした返事。受け取った書類に問題がないことを確認し、ティナは控えめに笑った。
「森の北側だったでしょ? あそこ、最近水場の魔物が増えてて危なかったんだよ。ちゃんと無事でよかった」
「そうか」
話はそこで終わった。エリオンはそれ以上何も言わず、静かに踵を返そうとする。
だが――
「よっ、お帰り“お蛇様”」
その場の空気が、凍ったように感じた。
バロスの声だった。背後のテーブルに腰かけ、グラスを傾けている。脇にはいつものように、ギリウとメロウの兄弟がついていた。
「今日も一人で森の中? すげぇよな、ほんと。あれだろ? 一緒に組んだ奴が“巻き付き事故”でも起こされたら困るもんな」
「⋯⋯」
エリオンは何も返さない。無視するように歩こうとする。だが、それが逆に気に食わなかったのか、ギリウが声を荒げた。
「オイ、聞いてんのかよ蛇野郎!」
グラスが卓を打つ音が響く。酒場の喧騒の中で、それだけが異質に響いた。
誰もが気づいていながら、見て見ぬふりをする。
それがこのギルドの“空気”だった。
「⋯⋯巻かれたくないなら、近づかなければいい」
エリオンが、静かに言った。
低く、淡々と、けれど確かに“拒絶”の意志を含んだその言葉に、バロスが一瞬、目を細める。
「ふぅん⋯⋯口だけは達者だな」
「やめときなよ、バロス」
別の声が割って入る。ジークだ。重戦士の体格を活かし、二人の間に入るように立つ。
「エリオンが何したって言うんだ。任務はしっかりこなしてんだろ」
「“何をするかわからねぇ”ってのが一番怖ぇんだよ」
バロスが吐き捨てるように言い、ギリウとメロウを引き連れて奥へ引っ込んだ。
空気が、ようやく少しだけ動いた気がした。
その夜。エリオンはギルドの裏手、石壁にもたれて月を見ていた。
人の輪には入れず、どこか遠くに自分を置くように生きてきた。
“巻き付きたい”という本能が、ずっと邪魔をしていた。
誰かに近づけば、自分はきっと、理性の境界線を越えてしまう。
そうなれば、何もかもが壊れてしまう――だから、遠ざけてきた。
ふと、風が揺れる。
視線を下げた先。ひとり、フィリアが通りがかりにこちらを見た。
目が合う。
彼女は少し驚いた顔をした後、笑って手を振ってきた。
――あの笑顔には、仮面の気配があった。
だからこそ、エリオンの瞳がわずかに揺れた。
「⋯⋯仮面をかぶってるのは、お前もか」
呟いた声は夜に溶け、月明かりだけが彼の肩を照らしていた。