3話
誰もいない、はずだった。
けれど、背中に突き刺さるような視線だけが、ずっと離れない。
組織を抜ける。それは、命と引き換えの決断だ。
誰にでも許されるものじゃない。
だが、俺はもう覚悟を決めていた。
問題は――誰が、その“異変”に気づくか、だ。
昼間、表向きは武器のメンテナンス依頼。
だが本当の目的は、脱出ルートの下見と、裏口の確認だった。
港沿いの古い倉庫街。
何年も前に組織が一時的に使っていた場所で、今は封鎖されたままになっている。
監視カメラの死角。
海沿いのフェンス、警備の手薄な非常口――どれも記憶の通り。
俺は手帳を取り出し、移動時間や距離を簡単にメモする。
(結と二人で出るには……少なくとも五分以内に車を回せる距離だな)
逃走ルートの最短経路。監視網の穴。非常時のプランB。
抜け道を探すというより、“生き延びる隙間”を探している気分だった。
そのとき、背後の風がわずかに揺れた。
反射的に振り返る。
誰もいない。
けれど――
(尾行か?)
空気の密度が変わっていた。
何かが、“そこ”にいた痕跡だけを残して消えている。
この気配はただの追跡者じゃない。
もっと、研ぎ澄まされた“殺気”。
(……幹部クラスか)
名前まではわからない。
だが、おそらくは――あの女。
氷室静馬。白廊の幹部。
冷酷で無表情、任務外の殺しにも一切のためらいを見せない。
数日前、組織内の報告書の閲覧履歴に、俺の名前があった。
上層部の承認権限で開かれた形跡。
しかも“個別任務の記録”ばかりを、わざわざ調べていた。
(……目をつけられてる)
ここ数ヶ月、俺は正式なルートを通さず、裏ルートで依頼をこなしている。
資金を貯め、身分を隠し、結と逃げるために。
それを嗅ぎつけた奴が、動き出した――そう考えるのが自然だった。
俺はすぐに倉庫街を離れ、人通りの多い通りへ出る。
念のため三度ルートを変えて帰宅したが、それでも気配は消えなかった。
夜、部屋に戻ると結がいつものように出迎えてくれた。
「おかえりなさい……今日、遅かったね?」
「ああ。少し、確認したいことがあって」
「そっか。……あのね、変な話かもしれないけど」
結が言いづらそうに、言葉を選ぶ。
「今日、昼にスーパー行った帰り。後ろから視線を感じた気がして」
「……どんな奴だった?」
「わかんない。振り返ったときにはもう誰もいなかった。でも、なんか嫌な感じだったの」
心臓がひとつ跳ねた。
(結にも……)
既に、動き出している。
俺たち二人とも、監視の対象になっている。
だとすれば、時間はもう残されていない。
「……結」
「うん?」
「もし、明日、全部話すとしたら――」
彼女の手が、そっと俺の袖をつかんだ。
「いいよ。どんな話でも、聞くって決めてるから」
俺は深く息を吐いた。
もう一日。
あと一日だけ、準備を進めてから、全てを話す。
その夜、俺は一睡もできなかった。
氷室がどこまで掴んでいるのか。
他の幹部――神代や、紅蓮のNo.1がどこまで関与してくるか。
そして、組織が“粛清”に踏み切るタイミングは、どこなのか。
答えは、まだ出ていない。
だが、静かにカウントダウンは始まっていた。
それでも――
逃げるしかない。
結と、もう一度生きるために。
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