〈前編〉
冬の夜の静けさが、コルリスの店内に深く満ちていた。
数分前まで賑わっていた店内は、今はただ、時計の秒針の音だけが響いている。
店長はカウンターの奥で、ただ立ち尽くす事しか出来ないでいた。
彼の耳には、息子である瀬凪の言葉が今も鮮明に響いている。
「延朴塔へ行く」
壁越しに聞こえたその言葉の裏には震えと、どうしようもないほどの強い決意が込められていた。
父親として、彼の身を案じないわけにはいかない。
しかし、店長は知っているのだ。
瀬凪がこのカフェで働いていたのは、ただのアルバイトではなかったことを。
一杯のコーヒーを通して、人々を笑顔にし、安心を与える。
それは、彼が静かに、そして真剣に歩んできた「誰かの幸せを守る」というヒーローへの道だったのだ。
その時、ドアが開く音が静寂を破った。
そこに立っていたのは、望命の叔父であり、店長の幼馴染である冬李だった。
冬李は店長の顔を見て、多くを語らずとも、彼の心の葛藤を察する。
「……行ったんだな」
冬李の言葉に、店長は無言で頷く。
冬李は、望命がヒーローを辞め、絶望の淵にいることを語った。
ヒーローである自分を否定し、すべての希望を失った息子の友人の姿に、店長の胸は締め付けられる。
しかし、それは同時に、息子が旅立った理由が、決して無謀なものではなく、友を救うための必然であったことを店長に悟らせた。
店長は、ふと、カウンターに立つ。
そして、冬李のために静かにコーヒーを淹れ始めた。
コーヒー豆を挽く音、カップに注がれる湯気、立ち上る香りが、静かな店内に満ちていく。
その一杯は、息子たちの旅路の成功を祈る、彼の力強い決意を象徴しているようだった。
愛する息子が、自らの意志で選んだ道を、父親として、そしてこの物語の「賢者」として、静かに見守り続ける。
彼の背中には、夜のコルリスの灯りが、強く、優しく差し込んでいた。




