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三人の魔女が子育てをすることになった件について

Memoriae trium maleficarum

 その赤ん坊が家の前で泣いていた時、()()ちゃんは流されてきたのねぇ~、と他人ごとのように言い、()()ちゃんは誰かが風に乗せて運んできたのだろう、と反論した。三人で顔を見合わせる。二人に促されるようにして、結局その子供に手を伸ばしたのは私、()()だった。


 置いてあったかごの中から抱き上げると、火が付いたように泣き始めた子供。驚いて、危うく落としそうになる私。その様子を見てギョッとした二人は、そそくさと自室に戻って行ってしまった。


 のんびり屋のひれちゃん。せっかちなはねちゃん。二人が同じ早さで部屋に戻ったという事は、とてつもなく重大な出来事が起こっているのだとわかる。こういう時、だいたいひれちゃんはゆっくりのんびりと隠れるから。


 そんな爆弾のような事件を腕に抱き、私――あしは一人、赤ん坊と共に取り残されてしまった。


 ぎゃんぎゃんと赤ちゃんが泣いている。こんなに喚いて、自分の耳を壊してしまいやしないかしら? 小さな――それもとてつもなく小さな――子供なんて面倒を見たことがない私は途方に暮れた。でも、この赤ちゃんを泣き止ませなっくっちゃ。うるさくって仕方がないもの。


 ――どうやって?


 家には赤ちゃんを黙らせるような気の利いたものは一切ない。私たちはおもちゃなんかとっくに卒業している年齢だし、食べものだって、大人用の堅いパンとか燻してある保存食くらい。


 ということは、今、私は手ぶらでこの小さな身体をあやさなくてはいけないのだ。


 私、あしが持っている赤ん坊をあやせるものといったら、足の魔法くらい。何か気を引けるもの。私が持っている魔法の中で、なにかこの赤子が気に入るような楽しい出来事……――。


「何にも思いつかないよ~」


 だめもとで、ランプに火をつけてみた。その周りに置いてあった食器を片付けがてら、躍らせる。


 そう言えば、今日のご飯は何を作ろう。この子供にも何か食べさせなければならないだろう。何を食べるのかしら、この赤ちゃんは。


 そして、ご飯を食べさせたあと、この小さな存在をどこの保護施設に連れていけばいいのだろう。


 小さい頭を持つ者の養育施設なんて聞いたことがない。しかし、どこかしらに連れていかなければ、良くて野垂れ死に、悪くて怪異の餌になるしかない。


「ねえ、あなた、一体どこから来たの? 南の塀の匂いがするけど……!」


 私があれこれ思案している間に、なんと、赤ん坊は泣き止んでいたのだった。


 子供がじっと見ているのは私が付けたランプの灯。それから火を反射させて踊るつるつるの食器たち。少し暗くなった部屋の中で真っ赤に燃える火が反射してキラキラと輝いている。


 私の魔法を見て、食い入るように見つめて、それから天使が舞い降りたかのように、赤ちゃんは笑顔を見せた。


 ――笑った!


 赤ん坊はゆらゆらと揺れる光の反射が気に入ったらしい。その様子を見て、私は炎に色を付けることにした。回転木馬のようにカラフルに光る影たち。上機嫌にも声をあげる子供。それを見ているとなんだか落ち着かない気分になった。


 さっきは保護施設に連れていくことを考えていたけれど、そもそも、この赤ちゃんは誰が置いて行ったんだろう。一人でてくてく、この家の前まで来ていないのは決まっている。きっと、連れてきた人がいるはずよね? 連れてきた人が戻ってきたら、どうしよう。元の家に戻っても、たまにはここに遊びに来てくれるかしら?


 いっぱい泣いて、いっぱい灯りを楽しんで疲れてしまったのか、腕の中の赤ちゃんは眠り込んでいた。ひと安心。私は小さな身体に布を巻きつけて、元いた籠に寝かせて、今後の算段をする。


 今は静かに眠っているけれど、小さな子供は頻繁に泣くものだとはわかっていた。きっとまた、大声で泣きだし始めるはず。さっきは、私の魔法が気に入ってどうにか静かにさせることができたけど、泣き止まなかったら大騒ぎになる事、間違いなし。


 私たちは一応、隠れて暮らしているし、赤ん坊の泣き声で居場所がバレたら大変だわ。それに、泣きっぱなしになっていたら、私たちが何か行動するときに邪魔になるし……。万が一、夜になんて泣き始めたら眠れやしないんじゃないかしら?


 赤ちゃんが泣くことに対して、何らかの行動をしなければ自分たちが困るのは目に見えている。泣いた時の対処法を考えておかないと……!


「面倒を見るには、離乳食やおむつが必要よね!」


 子供のご飯やおむつの事なんて何一つわからないけれど、町の人に聞いてみましょう。なにせ町には、屋台や行商の人達が溢れているのだから、誰かが何か知っているはず。


 魔法は魔女へ、子供の面倒は子供のことを良く知っている人へ。専門外のことは、知っている人に聞くのが一番!


「そうと決まれば、一緒に町へ買い出しに行きましょう」


 私は眠っている赤ちゃんにそう話しかけると、いそいそと街へ行く準備をし始めたのだった。





 私たちは小さい頭を持つ者。だから、新しき者たちに見えるよう装いの魔法をかけて町に出る。北から怪異が噴出して以降、新しきもの達の出現は止まるところを知らず、最近はこの南の町にも新しきもの達が増えてきた。


 それでも、私たちと同じように欺きの魔法をまとった人も多く見かける。


 私たちと同じ魔法に身を包んだおばあさんやおばさま方に、赤ん坊はとても可愛がられた。大人たちからは、いろんな果物や端切れをマントのポケットにねじ込まれる。


 私は話しかけてくる町のひとたち一人一人に、このような小さい子供を世話するにはどうしたらいいのかを聞いて回った。気がいい街の人たちは私に色々と「育児」の魔法を教えてくれた。


 どこから来たのか。どうして魔女と一緒にいるのか。名前は何なのか。たくさんの質問を投げかけられて、でも、赤子はニコニコして応えることはなかった。町の人たちは返事を期待せずに、満足そうな顔ですれ違っていく。


 その間、小さな子供は泣かなかった。


 そのおかげで、私はこの赤ん坊が少し好きになった。





 帰宅して漸く緊張の糸がほぐれる。私に同調するかのように、タイミングよく赤ちゃんが泣き始めた。


 不思議と私はそれを面倒だとは思わない。むしろ、ここまで静かにしていた子供に称賛を送りたい気分だった。


「我慢して偉かったわね!」


 子供を抱き上げてあやす。


 夜、赤ちゃんに温めたミルクとぬるいおかゆを食べさせていると、ひれちゃんが同じ食卓で物好きねえ~、と呆れていた。


「そう? 可愛いよ」


 はねちゃんは何も言わずにこちらを見ていたけど、何やら言いたげな顔をしてこちらを見ている。


 そんな視線は気にならない。今日一日で、私はこの子供がとても好きになっていた。


 ***


 ()()が言う通り、赤ん坊は可愛かった。


 あたし――()()は赤子と二人にされた。あしは情報交換のために歩いて行ってしまい、どうしても手が離せない。


 ()()はべーっと舌を出した後、猫脚のついた浴槽をがらがらと移動させながら部屋に閉じこもってしまった。赤子は泣きもせずにじっとその様子を眺めている。これじゃあ、どっちが子供だかわからないな。


 居間にはあたしと、籠に横たえられた赤ん坊の二人。今日は何をする予定もない。だから、子供を預けられても、何の支障はなかった。


 でも、ただ預けられるだなんて聞いていない。あたしと、赤ちゃんの二人! だなんて。


 何かするべきか。何か、何か家事でも。いや、赤ん坊から目を離さない方が良いだろう。子供は何をするかわからない。事故が起こって、あしに迷惑をかけるのだけは避けたい。じゃあ、今日は子供をじっと見ている。見るって……?


 籠のそばでもじもじとしているあたしだったが、意を決して子供を見ることに決めた。


 横になっている赤子の傍に座り込んで目に入れる。


 子供を間近で見るのは初めてだ。


 小さな顔に触れんばかりに顔を近づけて観察する。血色がよい。透き通るほどの白い頬に浮かんだ細かい血管が頬を薔薇色に染めていた。柔らかそうな皮膚に産毛が輝いて金色にも見える。


 ふっくらとした頬を上の方に辿っていくと、長い睫毛に縁どられたまぶた。赤ん坊の目は真っ黒でつやつやしているとあしは話していた。顔に対して大きい目をした赤子の顔はさぞや可愛らしい顔をしているだろうな……。


「はねちゃん、何やってるの」

「えっ!」


 振り向くと、後ろで浴槽をごろごろと移動させながらひれがこちらを見ていた。


「な、なにもしてない!」

「ふーん。あ、このミルク貰っていくね」


 ひれは何事もなかったかのように部屋に戻って行ったが、あたしの心臓はどくどくと早く動いていた。


 こんなに間近で眺めていたら、怪しまれてもおかしくはない。普段はあしが世話をしているから、この子供と二人きりにされるのは初めてだ。


 それどころか、子供という存在に接すること自体が初めてだった。


 生まれてから一人で生きてきた時間の方が長いあたしは、子供を持つような縁には恵まれなかったし、あしとひれと暮らし始めてからは家族を持つ必要はなくなった。


 だから、あたしは赤ちゃんとは一生縁のないと思っていたのだ。


 それが、目の前にいる。こんなにも、柔らかそうで、ふわふわとした空気をまとった生物を、他に見たことがない。空を飛ぶ白い羽の鳥も、地上を歩き回る小さな灰色の鳥も、ここまで脆そうな身体を持っていないのだ。


 あたしがその頬に見とれていると、小さな子供がむずむずと声を上げ始めた。大人の鼻息とは違う、高い超音波のような音が赤子の声帯から漏れ始める。次第に大きくなるその音は赤子自体を刺激しているらしい。口元がむにゃむにゃと動き――。


 ――泣く……!


 あたしの予想通り、赤子が顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。ぎざぎざと空気を揺らすその声は部屋に響き、びっくりして後ずさりしてしまう。


「泣いてるよ~」


 部屋の向こうからひれがおーいと呼んでいる。


 ――泣いてるって言ったって、どうすればいいんだ!


 無力だった。あまりにも無力。まじめに生きてきて、こんな罰を受けたことがない。


 赤ん坊は泣いている。今、無力なのはあたしだけではない。この子供も頼るものがなく、無力で泣いているのである。


「……」


 年上として、年下の赤ちゃんを泣き止ませなければいけない……!


 意を決して赤ん坊に触れる。それから、そーっと抱き上げた。子供の抱き方なんて知らないが、落とさなければいいだけの話だ。あしが良くやっているように、片腕で赤ちゃんを抱き、それからその身体を支える。落としたら大変だから椅子に座って膝の上に子供を乗せることにした。


 柔らかすぎる身体があたしの腕の中にあった。熱くて、でもぐんにゃりとしている様子は水袋のようだ。人間として完成されていない。柔らかな手足は大人のそれと違って小さいし、しっとりとしている。


 泣いている子供をあやすにはどうすればいいのだろう。とりあえず、いつもあしがしているようによしよしと言って、少し揺らす。


 不器用な自分は赤ちゃんを抱き潰してしまうかもしれない。あたしはそう思っていたけど、それは杞憂だった。赤子は腕の中に入ると、さっきのむずがりが嘘のように泣くことはなかった。むしろ抱きかかえられたことによって、何か変化があったのか口を三日月形にしてにっこりとあたしに微笑んできたのだ。


 これが、赤ちゃん……!


 私はその可愛らしさにすっかり虜にされてしまったのだった。


 ***


 子供なんてめんどくさい~、しかも、言葉が通じない赤ちゃんなんてもってのほか。……と思ったら、なんだか、()()ちゃんが面倒を見始めた。そしてなぜか、()()ちゃんも。じゃあ、二人に任せちゃおう。そう思っていたのに。


「私、今日は街に行った後、土の中の人達と会ってくるから。()()ちゃん。赤ちゃんの事よろしくね」


 あしちゃんが出かける準備をしながら私に行った。え、今、あしちゃんは赤ちゃんをよろしくね、と私に言わなかっただろうか?


「待って、はねちゃんは?」

「はねちゃんは、空会に呼ばれてていないの。ほら、東で活発になっている呪術師たちの界隈があるでしょう。偵察に行ってくるんだって。帰りも遅くなるらしいから。ごはん待ちきれなかったらグラタンを温めて食べてね」


 あしちゃんが保冷庫を指さす。氷の魔法がかけられている箱には、凍らせてある非常食や冷たいお菓子などが入っている。


「待って。待ってよ。私、赤ちゃんの世話なんてできないよ」


 あしちゃんが大丈夫だよ~! と笑う。この赤ちゃんは結構しっかりしてるから、そう言いながら出て行ってしまった。


 私、ひれちゃんは物言わぬ子供と二人きりにされたのだった。いや、一人と一匹って言った方が正しいかな?


 白い猫脚のお風呂に浸かりながら、防水の魔法をかけた子供をゆらゆらあやす。確かに、この赤ん坊は泣きもせず、ただ水面で揺られているだけなのにニコニコと静かにしているのだ。


「……ていうか、あしちゃん。私じゃなくてこの子の事しっかりしてるって言わなかった?」


 ひれちゃんは憤慨した。私だって、赤ちゃんのお世話くらいできるわよ。


 手始めに、ご飯を食べさせてあげよう。朝、あしちゃんがこの子供にミルクをやっているのを見かけたが、もうお昼。お腹が空いているに違いないわ。


 部屋から水槽の足をごろごろ動かして居間へと出た。このお風呂ははねちゃんが車を付けてくれたので家の中を自由に動くことができる。


 テーブルには、あしちゃんがありがたいことに書置きしてくれた赤ちゃんのお世話の仕方の紙。


 もう、あしちゃんったら私のこと本当に信用していないわね……?


「えーっと、あれをこうして、これをこうして」


 ミルクを温めた後に、冷まさなくちゃいけなかったり、パン粥もすりつぶさなくちゃいけなかったり、やることがたくさん!


 それでも準備はまあまあ楽しかった。


「よーし、できたわよ!」


 慣れないことを終わらせて、赤ちゃんに話しかける。返事がない。いくら何も言わないからって言ったって、反応しないだなんて、失礼な子供ね……。当の赤ん坊は水面に浮かんでいた。


 静かになったと思ったら、溺れていたのだ。


「えっ、えっ、待ってどうしよう」


 慌てて水から引き揚げる。眠っているような赤子が先ほど揺らしてあやしていた時と同じように、声を上げない。でも、さっきまで赤かった頬っぺたは真っ白になっていた。


 人魚はこれくらいじゃ死なないけど、相手は人魚ではなくて人間。しかも、ちいさな子供。大人よりも力がなくて、頼りない。


 確か、溺れた人間の背中をばんばん叩くと復活するのではなかったかしら?


「ねえ、ちょっと、起きて。頑張ってちょうだい、起きて、起きて!」


 そう言いながら赤ちゃんの背中をとんとん叩く。小さな口から水が垂れた。しばらくそうしていると、呼吸ができるようになったのか、今まで何も言わなかった口から泣き声が溢れた。号泣。めっちゃ号泣。


「えー、こわいー」


 この赤ん坊、しっかり者という割には、目を離すとすぐに死んでしまうらしい。ひれちゃんには荷が重すぎる。


 でも、今、この赤ちゃんが無事でよかったなんて、私はちょっと思ったのだった。赤ちゃんなんて、どうでもいいのに。


「これは、あしちゃんたちからあなたを預かってるから、心配してるだけなんだからね」


 そんな言い訳をしたが、しっかり身体を拭いて、着替えさせてやり、熱を測り、お水もご飯も食べさせて、今日は一日この赤ん坊に構うことになったのだった。


 子供がご飯を食べながら、くりくりした目で私を見る。この生き物は世話してやらないと死ぬのだと思うと、少し怖くて、でも私に依存しているようで少し可愛い。


「ひれちゃんが、赤ちゃんの面倒見れたんだ~ すごいすごい」

「よく死ななかったな」


 あしちゃんとはねちゃんが帰ってきて、私を褒めてくれた。


「私の手にかかれば、赤ちゃんのお世話なんてちょちょいのちょい~なんだから!」


 入浴の最中に殺しかけたのは赤ちゃんと私、二人だけの秘密だ。


 ***


 三人の魔女たちは、個性的でそれぞれ独自の魔法を持ち暮らしていた。おまけに三者三様に協調性は皆無で、それぞれのペースで生活をする。


 ()()ちゃんはおっちょこちょい。自分の魔法の範疇は完璧なのに()()ちゃんと()()ちゃんのペースに巻き込まれると、途端に手が回らなくなって貧乏くじをひく。


 はねちゃんはせっかちで石頭。あわてんぼうのあしちゃんとのんびり屋のひれちゃんの間で振り回されつつ、先陣を切ってしまうがばかり、事件に頭ごと突っ込んでいく羽目になる。


 ひれちゃんはとにかく行き当たりばったり。それでいて、あしちゃんのごはんに依存したり、はねちゃんのパトロールがないと危険を察知できなかったりするのんびり屋。ひれちゃんに至っては、今までどうやって暮らしてきたのかというくらいの生活能力のなさ。彼女は泳いでいたからわかんない、と話しているが。


 とにかく、この魔女たちは魔女という属性が同じだけで、どうして一緒に暮らしているのかよくわからない人達だった。


 ところが事態は一変。いつのまにか、私を中心に回り始めた三人の魔女の生活は否応なしに協調せざるを得なくなったのである。


 あしちゃんがご飯を作っている時には、はねちゃんとひれちゃんは私をあやさなければなくなったし、ひれちゃんが私をお風呂に入れている時は、あしちゃんとはねちゃんが急いで片づけと洗濯をする。


 あなたが自立するまで大変だったんだから! と強調して話すのはいつもひれちゃんだ。


「一番大変だったのは、あしだろう」

「はねちゃんもなかなか大変だったよねえ」


 はねちゃんとあしちゃんがひれちゃんに突っ込む。そのたびに、私だって大変だったんだよ! とひれちゃんは頬を膨らませる。


 足のない人魚にとっては、足のある赤ちゃんを育てるのは、他の二人とは違い、勝手が違って難しかったのはうかがえる。


 私が成長するにつれて、三人の魔女たちは私のことを赤ちゃんや子供とは言えなくなってきた。一年、また一年と時間が経つにつれて、私は赤ん坊というには年を取りすぎてしまっていたから。


 私という子供を一時の事件だと思っていた魔女たち。私に名前を付けてしまえば、一時に預かった子供ではなくなってしまうだろう


 それでも、魔女たちの意見は一致していた。


 私は魔女たちにナギという名前を与えられた。


 ***


 初めに魔法を教えてくれたのは意外にも鰭の魔女だった。


 ()()ちゃんは歌いながら水の妖精を作って遊んだり、どこからともなく水を湧かしたりする。私はそのぷかぷか浮かぶ水の中にいれられたり、泡をボールにしたりして、彼女と遊んでいたわけだ。


 その日もひれちゃんの魔法を眺めていた。歌を歌いながら、次々と空中に水の塊を出していく鰭の魔女。いくつもの水の球体に、今度はあしちゃんが置いて行った洗濯物を放り込んでいく。この家で水仕事をするのはひれちゃんの役割だ。


 空中に浮きあがった水がグルグルとかき回り、中が泡立つ。ずーっと回したら、今度は反対側に回す。次第に泡立った水が搾り取られていき、あっという間に四人分の洗濯物は全て終わってしまった。


 洗濯ものを干す係のはねちゃんに荷物を渡した後、一連の様子を見ていた私に、ひれちゃんがナギもやってみる? と話しかけてきた。


 ひれちゃんが人に教えるだなんて、そんな面倒なことは普段しない。ということは、その時の私の様子はひれちゃんのめんどくささを上回る何かがあったという事だろう。


「鰭の魔女じゃなくてもいいの?」

「いーよ、いーよ。魔法は魔女だけの物じゃないもん。誰だって、みんな、魔法を使うことはできるんだよ?」


 どこでだって、いつだってね。


 そう言ったひれちゃんは、どこか遠くを見つめていた。


「私、鰭ちゃんんほど歌が上手くないんだけど」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。ほら、うみーが恋しいなー……ほら、一緒に歌ってごらん」

「うみーが」

「恋しいなー」

「ねえ、ひれちゃん」

「うん?」

「うみって何?」


 私の問いかけに、鰭の魔女は難しい顔をして答えた。


「でっかい、水の入った、ボウル?」

「どれくらい大きいの?」


 魔女は返答に困ったようだった。そのうち連れて行ってあげる、と適当に話を切り上げると、魔法講座を再開した。


 海が恋しい歌を歌うと、身体の中でぐるぐるとうずまき、寄せてはかえす何かが身体の中から溢れだすのを感じた。ひれちゃんはその力を見ることができるらしい。


「そう。そのまま、イメージして。まあるい球体。あなたの目の前に浮かぶのは揺蕩う水よ。それを頭の中で思い描いたら、ここに出して見せて」


 普段、へらへらとしている鰭の魔女は、三人の魔女の中で教えることが一番うまかった。


「ここに出すって、どうやって」


 私が口ごもる。目の前には空中に浮く水のイメージがある。それをここに出せとはどういうことか。


「水を手に乗せて。自分に引き寄せるの。手に入れたかしら? そうしたら、その腕の中の水をそのまま、置いて」


 ひれちゃんの言う通りに腕を動かす。集中していないと球体を壊してしまうか、水を零してしまうかしそうだった。


 ひれちゃんの声が頭の中でまるで暗示のように響く。


 ――壊さないように手に乗せて。そのまま、優しくそこに置く。水は乱暴に扱うと崩れて台無しになってしまう。でも、形が変わるのを恐れないで。水は流れるもの。あなたが触れると形は変わるわ。


「はい、おっけー」


 ひれちゃんの声ではっと我に返る。まるで催眠術にかけられていたように、私の身体はひれちゃんの言葉に支配されていた。


「ほら、うまくいったよ~」


 私の目の前にはひれちゃんが作った水の球体と同じく、まあるく空中に漂う水の塊が浮かんでいた。


「これでナギも洗濯ができるわね!」


 ひれちゃんがニコニコと追加の洗濯物をひらひらさせた。最初からその魂胆だったのかもしれない。しかし、ひれちゃんはその後も私に鰭の魔法を教えてくれた。


「いつか、海に行った時に使えるとっておきの魔法を教えてあげる」


 三人の中で一番白い肌をした頬で、ひれちゃんが言った。


「Mare, quaeso, me defende.」

「まれ、くあいぞ、め、でぃふぇんで……?」

「まあ及第点よね」

「何に使えるの?」

「使えばわかるわよ」


 ****


 魔法を教えるのが一番下手だったのは()()ちゃんだった。


 ()()ちゃんが洗った洗濯物を乾かすのに、羽の魔法も覚えたいと言った時、はねちゃんは怒ってひれちゃんの部屋に行こうとしたのを止めるのが大変だった。


「まったく、ひれの奴。ナギに自分の仕事をまかせるなんて……」

「い、一緒に洗濯してるから大丈夫だよ」


 それに、魔法を憶えるのとても面白いよ。


「洗濯の魔法だけじゃなくて、水遊びの魔法だって覚えたんだから」


 はねちゃんの前で、水の妖精たちを出してみる。その繊細な動きに、はねちゃんは感心して驚いていた。


「へぇ、うまいもんだな」

「結構、才能があると思わない?」


 だから、はねちゃんんからも魔法を教わって、洗濯を一から最後までやれるようになりたいのよ、と私は提案する。


「そうしたら、はねちゃんも他に時間ができるでしょ。私は家にいて遊んでいるだけだけど、遊ぶのは結構、暇なのよ」


 私が家の中で時間を持て余していることをはねちゃんは知っている。そのためか、私はすんなりと羽の魔法を教わることに成功したのだった。


「羽の魔法はね、ばーっとしてばさーっとなる魔法だから……」

「待って?」

「どうかしたか?」

「イメージが全然わかないんだけど……」


 はねちゃんが、空のイメージや風のイメージを教えてくれる。空は透き通ってさーっとしているらしい。風は早くも遅くもある。地上から始まるうずまきはやがて力を持って私たちを、空へと運ぶ……。


 はねちゃんには羽があるけれど、私には羽がない。それでも、彼女は空を飛ぶ方法を私に教えてくれた。


 浮かび上がるのは、私の身体ではなく魂。ふわふわと浮いた霊魂をイメージする。私は空であり風でもある。それらと一体化した私は、身体ごと浮かんで飛ぶことができる。


 実際にはねちゃんが言った言葉はざーっとかふわ~とかいう言葉だったけれど、ひれちゃんが私に教えてくれたイメージの仕方は、はねちゃんの魔法を憶えるのにも役立った。


「高く飛びすぎても、低く飛びすぎてもだめ」

「どうして低く飛んだらいけないの?」

「見つかったら、撃ち落とされるから」

「じゃあ、高いのはなんで?」

「焼け死ぬ」


 羽の魔女が言うことは一理あったが、じゃあ、打ち落とされるのはいったい誰に打ち落とされるのだろう。


 それを聞くと、はねちゃんは困ったような、悲しいような顔をして言った。


「ここには、空を飛ぶことを好ましくないと思っている人がいっぱいいるんだよ」


 空を飛ぶという事は、空に影を落とすこと。何も遮るものがなければ、誰かに手ぶらであると言っているようなものだ。打ち落とされるような高さにいれば簡単に捉えられてしまう。


 だから、あんたも低く飛びすぎてはだめ。焼け死なない程度に高く、そして早く飛ばなくちゃだめ。


「おかしいね、空は自由だと思っていたのに」


 少なくとも、ひれちゃんの水槽に比べれば、空はうんと広いと思う。


「昔はね。でも今はもう、違うんだ」


 はねちゃんが空を飛ぶときに、雲の多い空や天気が悪い日を選んでいるのを私は知っている。飛び立つときに人目を避けた森の奥まで行くことも。


 私はまだ、この世界で私たちが虐げられる小さな存在であることを知らなかった。


 ***


 私が魔法を習得することを最後まで渋っていたのは足の魔女だった。


()()ちゃんと()()ちゃんは教えてくれたよ?」

「もー、あの二人ったら!」


 ()()ちゃんは怒っていたけれど、もう後の祭り。私はすでに鰭の魔法と羽の魔法を使って、洗濯をする係になっていたのだから。


 うっかりしたことに、あしちゃんはそのことを知らなかったらしい。だから私が洗濯物を洗って乾かしているところに出くわしたあしちゃんは驚いて本当にひっくり返っていた。


 あしちゃんが私に魔法を教えたくない理由は、危ないからだと説明した。この世界は小さい頭を持つ者、旧いものにとって住みずらい場所になってしまったのだと。


「魔法が使えるという事は、それだけ目立つし、その力を狙ってあなたを狙ってくる奴が出てくるかもしれないのよ。私たちの魔法は強い。私はあなたを危ないところに身を置いてほしくないのよ」


 私をソファーに座らせ、その隣にあしちゃんが座る。私を抱き寄せて説得するあしちゃんの身体は、いつでも台所で暖かいご飯を作っているからだろう、温かくていい匂いがする。


「私も魔法は危ないと思う」

「でしょう?」


 あしちゃんがわかってくれたかと言うようにうなずいた。


「でも、私は正しい使い方をすれば魔法は危なくないことも知ってるよ。それを教えてくれたのはあしちゃん達でしょ?」

「そうだけど……」


 そう、私は知っている。自分の力を制御するには、自分の内面をコントロールしなくちゃいけないことを。静かに、平常の中に、自分が正しく思い描けることの中に魔法は存在している。その思い描いた魔法を暴走させないためには、さらに凪いだ心が必要だということも。


 三人の魔女はそれぞれ個性的で強大な力を持っているけれど、その力に驕ることなく手元に引き寄せられる分だけの、自分で持てる分だけの魔法を持って生活しているのだ。持ちすぎても、持たなすぎても生活できない。それは、簡単なようで、少し難しい。


 それを私があしちゃんに伝えると、彼女は観念したように、それから優しく微笑んで私に言った。


「ナギは私たちが思っているよりもずいぶん大人になったのね」

「ここまで育ててくれた三人の魔女のおかげでね。……それに、せっかくだから私、鰭の魔法と、羽の魔法と足の魔法の全部を使えるようになってみたいの」


 私の熱意に根負けしたあしちゃんは私に足の魔法を教えてくれた。ひれちゃんの魔法ほど華やかではなく、はねちゃんの魔法ほど強力でもない。でも、私はその魔法を良く知っていた。


 あしちゃんの魔法は土に根差した魔法だ。かまどの火を起こす魔法、ご飯を美味しく作る魔法、水をきれいにする魔法、病気を治す魔法。生活を送るために必要な衣食住。それを整えるのが足の魔法。


「火を起こすときは、乾いたものがいるけれど、乾きすぎていてもいけない。燃え広がるから」

「じゃあ、風を元にするのはどう?」

「羽の魔法と組み合わせるってこと?」


 あしちゃんが驚いて聞き返してきた。


「あまり燃えそうになったら、鰭の魔法ですこし空気を湿らせるの」


 足の魔法を教わり、使うことで私はこの三つの魔法はそれぞれ相対するものではなく、協調する物なのだと知った。


 それは、この家の三人の個性的な魔女が一緒に暮らしても、のんびりとした心地よい時間が流れているのと、似ていると思う。


「なに~? なんだか楽しそうなことをしてる~」


 ゴロゴロと猫脚に車輪のついた浴槽を動かしながら、部屋からひれちゃんが這い出してきた。私とあしちゃんが風から火を起こすのを見て野宿に便利~と気だるそうに言った。実際、ひれちゃんが森の中で野宿することはしないと思うが、彼女にも足があったならば四人で森でハイキングをすることもできたかもしれなかった。


 のろのろと燃えている日を見たのかはねちゃんが慌てて空から降りてきた。


「いくら外とはいえ、火をこんなに大々的に焚いたらあぶないだろう!」


 眉を吊り上げて怒ったものの、その火がどうやって現れたものかを聞いて、さらに驚いていた。まさか、風から火が生まれるだなんて思いもしなかったから。


 その夜は私が起こした火で温めたご飯を四人で食べて、三つの魔法を学んだ記念日にした。


 ***


 何度目かの春がやって来た。


 それぞれ得意な魔法が違う三人の魔女に育てられ、私は彼女たちと同じ魔女と呼ばれる存在になっていた。四人の魔女のうちの一人。町の人は私を森の小さな魔女と呼ぶ。


 今まで何も考えずに過ごしてきたけれど、成長して、魔女と呼ばれるようになってから、自分たちの微妙な立場を実感することが多くなった。


 私たちを取り巻く環境は日に日に変化している。


 人間狩りが厳しくなっているのを薄々と感じる。北からやって来た新しい顔を持つ者たちが日々南下して小さな町を統治して回っているのだ。私たちのような細くて脆い存在を捕えて働かせたり、愛玩動物にして飼っていたりするらしい。


 この国で小さな顔を持ち、二本の脚を持ち、二本の腕を持つ存在は珍しい。その珍しい存在が、珍しくも魔法を使うのだ。相手が興味を持たないはずがない。多くの人間、多くの魔女が捕まったと噂が流れている。


 今はまだ森の近くの町にはその手が伸びていないものの、私たちは違う地域に住む魔女と細かくやり取りをしながら、森の中で細々と暮らしていた。


 しかし、魔女であるからこそ、この怪異がはびこる北の地で暮らしていけるのも事実。私たちは魔女だから、自分たちが使う事の出来る魔法をお裾分けして、周囲の人間と助け合いながらどうにか生きている。


 私たちの立場は微妙だ。


 姿形を変える魔法をマスターした私は、町に出て日用品の買い物をする係になっていた。顔を大きくして足を何本も生やしたまま、野菜と果物を買う。すっかり昔からの常連となっている八百屋のおかみさんは私たちが何者なのかを知っている。


「私の事はみんなにバレているんでしょう?」

「バレてる。でも、アンタたちを捕えたり売ったりしないのは、私たちがあんたたち魔女にいっぱい助けられているからさ」


 森の近くの町。住人は北から来た新しい者達と私たち、旧いもの達の間の立ち位置にいるものが多い。小さな頭に大きなたくさんの手。それか、巨大な足に三つの眼。あとは似たような人が色々だ。


 でも、私たち森の魔女と彼らは共存してきただけあって、町の人は私たちに優しい。


「いつもありがとうね」

「よしなさいよ」


 アンタ達には世話になってるからね。そうおばさんが話す。


 だから、他の地域から圧力をかけられたり、危害を加えられない限りは私はアンタらを差別しない。でも違うやつもいる。


「北から、いろんな怪異がやってきてるよ。今までとは違う、大型で狡猾な怪異さ。いずれは私たちも征服されてしまうかもしれない」


 おばさんがこっそりと言い、私に売り物の青くて甘い実を手渡した。





 家に帰って、()()ちゃんが遅かったわね、と私を抱きしめた。この家ではただいまの代わり。


「おばさんと話しこんじゃって。町でも、何か手に入れるのが難しいみたい。どこかで荷物が止まっているみたいなの」


 私はあしちゃんに甘い果実をわたす。それをカットして空中に放るあしちゃん。果物は、()()ちゃんの部屋と()()ちゃんの部屋に飛んで行った。


 ***


 夏。


「北から来ている大型の新しい怪異は、辺りを荒らしながら来てるけど、抵抗せずにいる地域も多いらしい」


 外の様子を見てきた()()ちゃんが森の外、少し離れた町の現状について語った。


「人間を捕まえている?」

「捕まえるだけならいいほうだよね」


 そう言いながらはねちゃんが頭を振った。その表情で、捕まった旧き者たちの扱いの凄惨さがわかる。町の人が話しているのを耳にしたのだ。今は、小さな顔の者達は、新しい発明品の実験台になっているらしいのだ。――効率よく旧き者たちを集めるための発明品の実験台に。


「南に行けば。塀の向こうには私たちのような人間がいっぱいいるらしいけど」


 私が提案する。塀の向こう側の世界が、どのような場所か想像もつかないけれど、少なくとも今こうして新しいもの達に怯えて暮らすよりは新天地を目指した方が建設的にも思える。


「それも噂話よ。あなたがここに運ばれてきたとき、町の人は南から来たんだって言ってただけ」


 ()()ちゃんが続けた。それに、はねちゃんも向こう側に行けないくらいの塀、何か魔法のかかった塀を超えるだなんて、私たち三人の力がなくなるまで魔法を放出しないと無理よ。


「塀を乗り越えるなら、私はいけないわね~」


 私たちの顔を代わるがわる見て、()()ちゃんが肩をすくめた。


 ひれちゃんが動けないだけじゃない。人型の生き物が四匹も南の方に向かっている状態はすぐに大型の飛翔物体から観測されてしまうだろう。夜闇に紛れたとしても、夜行性のモンスターから比べて夜目が利かない私たちは動くことすらままならないかもしれない。


「今までの通り過ごすしかないわね」

「今まで以上に慎重に、ね。北の国の化け物たちがこれ以上侵略してこないことをいのるばかりだわ」


 玄関に何か転がる音がした。私はそれを見に行って、果実がいくつも落ちているのを見つける。八百屋のおばさんの青い甘い実だった。これが届く時はいつも私たちの手を借りたいという相談だという事がいつもの決まり。


 あしちゃんに甘い果物を渡す。あしちゃんはその中から、何か魔法のかかった紙を取り出した。


「あら病人の看護のお願いだわ。夜行ってくるわね」


 町の人同士でも立ち止まって話す事がままならなくなってきた。街の中で聞き耳を立てている何匹もの耳がうろうろとしているから。北の方から来た新しいもの達に仕えて、自分たちの生活を安定させている住人がちらほらと出てきているらしい。


 だから、外では小さな魔法が飛び交っている。魔法がわかる住人、魔女たちしかわからない魔法が。


 それも見つかるのは時間の問題だ。


 私たちはどうなるのか、不安がつのる日が続く。


 ***


 秋。


 北から来た新しい者たちが我が物顔で町の中を歩くようになっていた。今、滞在している大きな怪異たちは、魔法を見破る力を持つらしい。私たちは一層用心して、何十にも魔法をかけて暮らしている。とうとう、森の住居も結界に鍵をかけるようになった。私の買い出しも三重に魔法をかけて――あし、ひれ、はね、それぞれの魔法で。


 町に行くと、がやがやと騒がしい大きな顔を持つ怪異とすみっこで静かに暮らす旧き住人たちの対比が激しい。新しいもの達のカラフルな姿とは対照的に、町の人達の表情は暗い。襲われたという話は聞かないが、他の町での小さく脆いもの達への仕打ちを聞き、覇気を失っているのが目に見えた。


 その日。私はこっそり買い出しに来ていた。具合が悪いと寝ている()()ちゃんに甘い実を買ってあげようと、一人。


 見つかってしまったのは普段かけている三重の魔法が一つ少なかったからに違いない。


「おお、まだ小さな手足が生き残っているとはな」

「しかも、こどもだ」

「愛らしいな」

「お前、どこで飼われている。私たちが代わりに飼ってやろうか」


 八百屋のおばさんと私の前に大きな顔が立ちふさがり、あっという間に私たちは壁に追い詰められてしまった。長い触腕が私の腕を撫でた。指がいくつもある手が私の肩を抱き引き寄せようとする。


 おばさんは腰を抜かして立ち上がることができない。


 私の身体は指先から身体の芯にかけて勝手にぶるぶると震えていた。突き飛ばす? 逃げる? それを実行するには、身体が強張りすぎている。さっきまで、暖かかく感じていた空気はいつの間にか冬の夜のように冷たかった。


 あまりに近くで聞こえる低い唸り、生臭い息に声を出すことができない。


 私の頭で言葉が渦巻く。愛玩動物、奴隷、実験体。どれならマシだろう。尋問されて、森の家のことを話してしまうかもしれない。魔女が一人じゃないとバレたら? みんなの家に大型の化け物が群がる様子を思い描き、気が遠くなった。


 その大きな身体たちをかき分けて、私の前に立った者がいる。複数の手から引き剥がし、細い身体がねじ込まれる。


 あしちゃんだった。


「新しきもの達よ。この小さき手足は私たちが飼っている娘。何も覚えず、何もできない。ただの子供よ」


 化け物たちがあしちゃんと私を睨め付ける。いくつもの口と耳がなにやら相談しているようだった。食いちぎる、連れていく、そんな言葉が聞こえる。


 あしちゃんがきて安心した私だったけれど、あしちゃんが放った言葉で再び私の背が逆立つ。


「それよりも、この身体をやろう。成熟した人間の身体だ。魔法も使える。貴殿らの飽くことはさせない」


 あしちゃんと新しいもの達の間で飼うだとか、わたすとか、物騒な言葉が飛び交っている。それを止めて家に帰らなくちゃいけないのに、足がすくんで動かない。


 化け物たちはあしちゃんを品定めするように見ていたものの、良しとしたのか、あしちゃんの腰を抱いて肩に載せ、どこかへ行ってしまった。


 どこをどう帰ったのかわからない。家に帰った時に、()()ちゃんの蒼白な顔と()()ちゃんの唇を噛み締めた顔だけを憶えている。


 ***


 ()()ちゃんが付近の様子を見に行っている間に、夜になってから()()ちゃんが戻って来た。編まれた髪がぼろぼろと千切れてぼろぼろにほつれている。目の付近には青タンが、口の端には血が滲んでいた。それ以外にも血が流れている臭いがする。あしちゃんの身体も、手当をする私の手も冷たい。


 ()()ちゃんが逃げるわよと言った。


「血の臭いでここがわかる。二人は先に行って。私が水で流して気配を断つから」

「ひれちゃんは一人じゃ動けないでしょ」

「はねちゃんが帰ってくるでしょ。連れてってもらう」


 はねちゃん一人の力じゃ、猫脚つきの白い水槽は動かせない。部屋の中ならまだしも、石ころだらけの外の道ではすぐにひっくり返ってしまうに決まってる。


 はねちゃんがひれちゃんを担ぎ上げたとしても、女一人を運ぶのは至難の業だろう。


「大丈夫よ。いざとなったら、どこかに飛ばしてもらうから」


 ひれちゃんが珍しく、あしちゃんの手伝いをして私の荷物をまとめる。嫌がる私の肩をあしちゃんががっちりと掴んだ。


「まって、いや。残るよ」

「早く支度をして」


 次はあなたなのよ、とあしちゃんが怖い顔をした。


「羽をもつ者や鰭をもつ者はまだ珍しくない。あなたは珍しい。小さな頭で手足が二本づつある小さな子供はめずらしいのよ。何をされるかわかったものじゃない」


 あしちゃんが胸をはだけた。こうなりたいのかと。ひれちゃんがそれを見て驚いて、それから目を背けた。


 その姿に、かわいそうとか、あしちゃんがこうなって辛いとかじゃなく、恐怖を感じた。大きく引き攣れた胸の肌には何か書いてあるものの、ぐらぐらとあしちゃんに揺さぶられる視界では、それがなんて書いてあるのか、読むことができなかった。


「あなたは逃げるの。化け物の来ないところまで」


 少しの荷物。あしちゃんが作った保存食と簡易ランタン。ひれちゃんとはねちゃんがわかるように、目印の魔法。持っていきたいものはほとんど手にすることができなかった。


 早く! と強引に手を引かれながら逃げる。暗い道ではあしちゃんの光はよく見えすぎた。ひれちゃんが後ろから明るい! と鋭い声を投げる。感情が高ぶってコントロールが効かないのか、あしちゃんは諦めてランタンの火を消した。ふっとあたりが暗くなり、私たちのいる場所からひれちゃんの姿は見えなくなった。


 ――はねちゃんが帰って来なかったら、ひれちゃんはどうなるんだろう。


 大丈夫。ひれちゃんは大丈夫。はねちゃんは見回りに行って、それから私たちのような人間に警告しているに違いない。ひれちゃんもその帰りに助けられるはずだ。


 ぐずぐずと泣きながら、そう祈ることしかできない。


 ***


 鰭の魔女――つまり私、()()ちゃんが家の中で波を起こしている。準備中の夕飯も、せっかく洗った洗濯物も、暖炉で使うはずの薪もすべて水に沈んだ。


 あーあ。


 ()()ちゃんが珍しくも翼をバタバタと、騒がしく動かしながら家の中へと入って来た。下の方を飛んだらしい、身体にはいくつもの葉や枝が付いている。


「匂いがないから帰って来るのに時間がかかった」

()()ちゃんたちは行ったよ。あなたも早く追いかけて」


 私の言葉にはねちゃんが呆気にとられる。


「何をしてるの。あなたの気配も消さなきゃいけないんだから。早くして」


 この鰭を持つ魔女――つまり私、ひれちゃん――はここに残る心づもりを表明したのだけれど、はねちゃんにはイマイチ伝わらなかったようだ。


「ひれがいないとみんな悲しむぞ」

「私が行けば足手まといになる。あなたたちは無事に南の塀を越えて。それで、ここに戻って来たかったら戻ってくればいいわ」


 まさかこの魔女にそんな度胸があると思わなかった、という顔ではねちゃんが私を見た。


 私だって、自分のことを信じられない目で見てる。はねちゃんからしたら、なおさらに違いない。自分が真っ先に逃げるとも思ってはいなかったけど、危機感なく流されるままに暮らしていた自分がこうして残るだなんて。


「何よ」

「いや。ありがとう」


 はねちゃんが、はねちゃんらしく静かに飛び立ってその場を去った。多分、戻って来れるかわからないから、なにも言わずに。


 はねちゃんが去った後、私はさらに水を増して波を立たせて三人の気配を消す。努力の甲斐あって、匂いは消えた。残ったのは私たちが暮らしていた形跡だけ。


 真っ白な湯船の中に屈む。気配を完全に消すにはこの家ごとひっくり返さなくちゃ。それがここでの最後の魔法。


 家の中をぐちゃぐちゃと浸水することも、家ごと沈ませることも本当はとても惜しい。あしちゃんやはねちゃんが思っているよりも、私は、私のこの生活が結構好きだったのだ。


 湯船の下から、ずりずりずりと水が湧き起こってくる音がする。


 ちょうどその時、私たちの隠れ家を見つけたのか、大きな化け物たちが家の中へとなだれ込んできた。


 湯船に入っている人魚を見て、知らない言葉で喚く新しいもの達。その野蛮な腕が届くよりも先に、私は一言呪文を唱える。


「Age, mare.」


 じわじわと湯船の下から溢れていた海水が一気に溢れ、家ごと巻き込んでいく。化け物たちを溺れさせながら、波が家を飲み込んでいく。


 その海の中でしろい船に乗って彼方へと消えていく人魚を見たものは誰もいないと思う。多分。





 高台を登る途中、ごお、という低い音が地面を震わせた。振り返ると、家が波に飲み込まれているのが見える。


「ああ、家が、」

「あの水はひれちゃんね」


 あしちゃんが一瞬だけ歩みを止めて、再び登り始める。ひれちゃんがどうなったのか考える間もなく、高台を追ってくる赤い光が見えた。


「全部は巻き込めなかったか……。止まらないで」


 振り返ったまま足を止めた私の背中が押される。このままでは追いつかれてしまう。


 ひれちゃんの力を無駄にしない……。そう思いながら、もうひれちゃんには会えないのかと思うとぼろぼろと涙が溢れてきた。顔がぐしゃぐしゃになり、歩き疲れてきたふくらはぎが重い。


 ばさ、と空から現れたのははねちゃんだった。


「ひれちゃんは?」

「化け物を巻いてくれてる。私もあとで戻るよ」


 はねちゃんが私たちに背を向ける。頷いて反対方向へ歩き出すあしちゃん。


「はねちゃん!」


 私ははねちゃんの名前を叫んだが、はねちゃんは振り向かなかった。


 ***


 羽をもつ魔女――あたし、()()が立っている。何も持たず、構えず。


 後ろで名前を呼ばれたのは聞こえていたけれど、止まってしまえば離れがたくなるのはわかっていた。今は時間がない。一刻でも長く、時間を稼いで()()たちが逃げる時間を確保しないと。


 鰭の魔女の魔法は化け物たちの数を削ぎ落したとはいえ、士気はそれほど落とさなかったようだった。小さい者に翻弄されたのだ。まずは怒りが先行しているのか。


 追って来た化け物たちが私を警戒する。()()の時は油断をしていたようだが、今度は同じ目には合わないと勇ましい。


「Caeli, appare.」


 ならば、根こそぎその昂りを叩いてしまおうか。町の住人を蹂躙し、魔女を住処から追い立てた罪は重い。


 ――それが世界で一番愛おしい時間を過ごした場所ならばなおさら。


 あたしの呪文に呼応して、空に雲がかかった。化け物たちの上に浮かぶ雲は黒々としていて、怪しい。その雲から轟音が鳴り響き、雷光が落ちる。幾度も。魔女の住処を侵した化け物たちに向かって、幾度も。


 大きく膨れ上がった顔は雷に打たれて黒く燻っている。


 あたしは地面を蹴って、周りを飛び始めた。


 その動きに合わせて、今度は雲の隙間から光が差し込み始める。柔らかな光はやがて突き刺すような強い光に変わった。まるで太陽の傍にいるような灼熱。黒く焦げた化け物の身体は、その眩い光に包まれて、やがて目に見えなくなっていた。


 その姿を見届けてから、空の彼方に、高く飛んだ。





 私とあしちゃんは家の南にある、高い塀までたどり着いていた。


「翼の魔法を使って、塀を飛び越えなさい」


 私の身体を壁に押し付けて、あしちゃんが元来た道を戻ろうとする。その手首を両手で掴まえて。制止する。


「一緒に行こう」

「私は戻って二人を助けなくちゃ」


 ひれちゃんとはねちゃんの姿が見えなくなり、私は恐ろしくなっていた。力強く腕を放さない私とそれを押しやるあしちゃんの攻防。あしちゃんまで目の前からいなくなってしまって、私は一人でどこに、どうやって行けばいいのだろう。


 その間に、街で私を攫おうとした化け物が現れた。


「何人もの同胞を失った。珍しいからというだけで生かしてはおけない。沽券にかかわる」


 再び私の前に立つ足の魔女。


「あなたはきっと、南から運ばれてきた。あなたのことを知っている誰かに出会えるわ」

「待って」


 化け物があしちゃんに迫る。その周りには熱い空気が立ち込め始めていた。足ちゃんの足元には渦巻く熱い空気。


 早くいきなさいと熱風で焚きつけて、私は火から逃れるように、舞い上がった。


「貴方は、魔法が使えるわ。いつだって、どこだって、私たちが傍にいるから」


 それが、あしちゃんの姿を見た最後だった。


「待って、迎えに来る。迎えに来るから!」


 羽の魔女から教わった魔法のコントロールを私は失った。まるで強制的にその場から離されるようにしているみたいに、私の身体を塀の向こう側へと押しやっていく。





 鰭も羽も持たない魔女――つまり、私、()()だけど――が化け物の前に立ちふさがる。


 化け物が言う、珍しい小さなものは魔法によって逃がされてしまった。あとに残るのはこの傷者の魔女のみ。惜しいだろう。悔しいだろう。珍しい四匹の小さな生き物を失ったのだから。


 だからと言って、私たちはただ蹂躙されているわけにはいかないのだ。新しい、化物の顔を持つ存在達は、私たちが一番大切にしているかけがえのない毎日を奪ったのだから。目の前で壊され、奪われそうになった大事なものを、ここで引き渡すわけにはいかない。


「Rorate, terra.」


 私が足の呪文を口にする。


 それが合図だった。


 熱せられて熱くなった地面が唸る。突き上げられるような揺れが化け物を襲った。足が付いている地面が割れ、それに伴って木が崩れて落ちる。


「何を、小さなものが、このように愚弄するのか」

「新しきものよ。お前たちはわたしたちの大事なものに手を出した」

「北は朽ちる運命だった。それを私たちが立て直したというのに」


 その言葉に私は首を振る。


 私は最後の言葉を唱えた。


「Hoc serva, quaeso. Numquam iterum in nova terra step.」


 化け物が地面に飲まれていく。大きな身体は抵抗するものの、強い力で四肢を抑え込まれて動けない。そのまま、割れた地面に飲み込まれていき、二度と地上へは戻って来れないだろう。


 割れた地面はゆっくりと元の場所に戻り、そこに地割れが起こったことなど誰もわからないようになっていた。


 それを見届けて、歩いて、その場を去る。


 ***


 南の塀を超えて落下を始めると、ようやく羽の魔法がコントロールできるようになった。重力に逆らって、もう一度浮上しようとするものの、塀のてっぺんからは離れていくばかりで、一度、下に降りることにした。


 硬い地面の上に立って塀を見上げる。向こう側から見ていた時よりもはるかに高い壁がそびえ立ち、ここと反対側とを隔てていた。何度も向こう側への飛翔を試みたが、まるで何かに遮られるようにしてそれを乗り越えることはできない。


 夜に私たちの家を抜け出してから、魔法を試している間、気が付けば辺りは明るくなっていた。


 徒労感でその場に座り込む。この塀を越えて、魔女たちと隔てられてしまったから、魔法が失われてしまったのだろうか。


 私は自分の持っている魔法のうち、いくつかを試してみる。鰭の魔法、羽の魔法、足の魔法……そのどれもが消えたわけじゃない。この塀を乗り越えるには、……今のままでは力が足りないのかもしれない。きっと。


 いつまでもここに座り込んでいるわけにもいかなかった。この場所には森がなく、乾いたような地面が続いている。それから、真っ青な空。ただ座り込んでいるだけでは何もかもが消耗してしまうに違いない。


 私は立ち上がって歩き出す。歩けばどこか町へと行き着くはずだ。駄目だったら、飛ぼう。


 身体をやすめ、眠り、魔法を十二分にも使えるようになって、またこの場所へと戻ってくる。そう思いながら、私は一人でその場を後にした。

文学フリマ東京39配布物でした☺

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