3-7 長い夜
神官長の部屋。窓の外には夜の闇が広がり、蝋燭の灯が揺れるたびに、室内の陰影が歪む。
ミアは一歩、慎重に踏み入れ、滑らかな所作で膝を折る。いつものように、報告のための形式的な動作だ。
神官長は机の上に広げた書類を指先で軽く弾くようにしながら、低く問いかけた。
「聖女の様子は?」
ミアはまつげを伏せ、意識的に間を置いてから、声を落ち着かせて答える。
「芳しくありませんね……一日の半分以上、眠っておられます」
事実と異なる報告だが、神官長の耳に心地よい形にする必要がある。
「私には視えませんが……ルシアンが言うには、妖精が片時も離れず、ルイナ様を回復しているとか」
今度は嘘ではない。彼の目にはスオリスが見えているのだから。
「ふん……ルシアンめ、聖女なんかに絆されおって」
神官長は鼻を鳴らし、椅子の背に身を預ける。その視線は鋭く、嫌悪と軽蔑が滲んでいた。
「最近のアイツの態度は目に余る。聖女と一緒に葬ってやろうか」
ミアの指先が一瞬、硬直した。だが、そのわずかな変化すら見せず、紅茶のカップを静かに持ち上げ、口元へ運ぶ。
「……一緒に、ですか?」
静かに問い返す彼女の声音は穏やかで、神官長に疑念を抱かせることなく、自然な流れを作る。
「育ててやった恩を忘れおって……聖女のために育てたのだ。聖女を完全に封印してしまえば、あいつも用済みだ」
ミアの内心に、鋭い緊張が走る。
(……そうきたか……)
彼はもともとルイナだけを逃がすつもりだった。だが、今この瞬間、彼も神殿にとって「不要」になった。
(このままでは、ルイナ様を逃がしても、ルシアンは確実に処分される……!)
(これは…まずいわね………)
「さあ、怖い話はもう終わりにして、いつもの優しいお顔に戻ってくださいな」
ミアは優美な仕草で神官長の手に軽く触れた。まるで彼を慰めるかのように。
神官長は満足げに笑い、ミアを引き寄せようとする。
「おぉ…そうだな…ミア…もっとこちらへ」
ミアは微笑みを崩さぬまま、その手をするりとかわし、背後へと滑るように下がった。
(彼に伝えなければ……急がないと)
静かに、しかし確実な足取りで、ミアは神官長の部屋を後にした。
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ミアは迷いなく進み、目的の場所へと向かっていた。
ルークは神殿の構造を確認しながら、着実に脱走計画を進めていた。巡回する神官たちの動き、脱出経路、警備の配置。すべてを計算しながら、最適なタイミングを探している。
その背後から、ミアの静かな声が届いた。
「……あなた、自分の立場を理解していないのですか?」
ルークの動きが一瞬止まる。
「何の話だ」
ミアはゆっくりと歩み寄りながら、冷静に問いを重ねる。
「ルイナ様を逃がしたとして、あなたはどうするつもりです?」
ルークは眉をひそめた。
「俺は神殿に残るつもりだ」
ミアは、小さく息をつき、じっとルークを見つめる。
「……神殿があなたをただの“従者”だと思っていると、本気で思って?」
ルークの瞳が静かに揺れた。
沈黙が訪れる。
(……そうか。俺も、神殿にとっては“不要”か)
ルイナを逃がせば、それで済むと思っていた。 けれど、神殿は自分も「処分対象」として見ていた。
(……俺も、一緒に逃げなければならない)
計画の甘さを痛感する。
(ルイナだけじゃない。俺も、生き延びる)
暗闇の中、ルークの決意が、確かな形を 持った瞬間だった。
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(ルイナだけ逃がすなら、この経路がベストだ……だが、俺も逃げるなら……)
予定が狂った。ルイナだけを逃がすつもりだったが、神殿の方針変更によって、自分も狙われる立場になった。これでは彼女と同じ道で逃げるのは危険すぎる。
(別の経路を確保するしかない)
そのために、もう一度、神殿の巡回パターンを見直す必要があった。
ルークは足音を殺しながら、影のように移動を始めた。通路の端、壁際のくぼみ、柱の影――警備の目を避ける道を試しながら進んでいく。
「……そこは危険ですよ」
不意に、背後から低い声がかけられた。ミアだった。
ルークは振り返らず、視線だけで彼女を捉える。
「お前の動きを利用させてもらう」
ミアは微かに笑みを浮かべた。
「それはどうぞご自由に。ただ、私の方もあなたを利用させてもらいますので」
「…………」
ルークは言葉を返さず、そのまま歩き出した。ミアも並ぶように歩を進める。互いに敵意はないが、完全な信頼もない。しかし、それでいい。利害が一致している限り、この関係は維持される。
(俺がルイナを逃がす。ミアは、神殿内での立場を維持しつつ、何かを企んでいる)
この状況を冷静に分析しながら、ルークは次の計画を進めることにした。
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ルイナの部屋の扉が、そっと開かれる。
スオリスが最初に反応し、ルークの姿を見つけると、小さく頷いた。
ルークは部屋に入り、慎重に扉を閉じた。ルイナは椅子に座ったまま、静かに彼を見つめている。その表情には、不安が滲んでいた。
「ルーク……」
ルークは無言のまま、部屋の中を確認した。外に見張りの気配はない。今のところ、話せる時間はある…が、そう多くはない。
「ここを出たら、自由都市を目指せ」
唐突に切り出したルークに、ルイナは驚いたように目を見開いた。
「え……?」
「そこなら神殿もそうそう手が出せないはずだ」
「ルークは?ミアは……? 私だけ逃げるなんて……!」
ルイナの声に、ルークは静かに息を吐いた。そして、低く落ち着いた声で告げる。
「俺も必ず抜け出す。後で合流するから、心配するな」
「……でも、もし何かあったら……!」
ルイナの手が、膝の上でぎゅっと握りしめられる。その指先がわずかに震えているのを、ルークは見逃さなかった。
彼はふっと口元を緩め、わずかに笑う。
「俺があいつらにやられると思うのか?」
ルイナは一瞬、言葉を失った。だが、その次の瞬間には――
「……ううん、思わない」
確信に満ちた声で、そう返した。
ルークは満足げに頷く。
「なら、行け。お前は俺を待つんじゃない、俺がお前に追いつく」
その瞬間、スオリスが勢いよく飛び出した。
「ルークなら大丈夫よ!コイツ、無駄にしぶといんだから!」
「……無駄に、は余計だ」
ルークが呆れたように言うが、スオリスは気にした様子もなく、ルイナの方へと戻っていく。
ルイナは一瞬、迷うようにルークを見たが――
「……うん!待ってるね、ルーク!」
そう言って、決意を固めた表情で頷いた。
ミアが静かに口を開く。
「ルイナ様、神殿の外に私の仲間を待機させていますので、合流すれば自由都市まで送り届けてくれます」
ルイナは驚きの表情でミアを見た。
「神殿の外に……仲間……?ミア……あなた一体……」
ミアは意味深な笑みを浮かべる。
「ふふ……いずれ分かりますよ。今はここから出ることに専念を」
ルイナは数秒間、じっとミアを見つめた後、静かに息を整えて頷いた。
「分かった……!ありがとう、ミア、ルーク!!」
「ほらルイナ、立って!もうグズグズしてる場合じゃないわよ!」
「うん…!行こう!」
ルークは静かに拳を握りしめる。
「……俺も、行くとしよう」
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夜の帳が降りる神殿内。静寂が支配するはずの廊下に、重厚な靴音が響く。
「ルシアン・エーベルフェルトも拘束しろ。」
神官長の冷ややかな声が、集められた神官たちの間に緊張を走らせた。
「聖女の従者風情が、調子に乗ったものですな。」
グレゴールが鼻を鳴らし、満足げに口角を上げる。
「所詮、聖女と共に利用されるべき駒。逃げ出すつもりなら、その足を折るまで。」
「計画は変わらん。」
神官長が静かに言い放つ。
「聖女は完全に封印する。そして、その護衛も不要だ。」
命じられた神官たちは無言で頷き、手早く配置を再確認する。
「奴の動きを封じろ。ルイナ・アーデルと共に消えてもらう。」
彼らの冷たい視線の先にあるのは、一つの標的——ルシアン・エーベルフェルト。
「ふん、観念するのだな……元・神殿の犬よ。」
グレゴールが満足げに笑い、神官たちが静かに包囲網を広げていく——。
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夜の神殿内、影の中に潜むルークは、周囲の空気の違いにすぐさま気づいた。
(……おかしい。)
確認したはずの巡回経路とは異なり、見張りの神官たちの配置が変わっている。彼らの動きに、ただの警備ではない"狩る"意図を感じた。
(ついに命令が出たか……。)
このままでは自分も危ない。ルイナだけでも逃がせたら…
ルークは一歩、静かに後退しながら考えた。
(計画変更だ。)
ルイナとの合流は難しい。ならば、神官たちの目を自分に向けさせ、ルイナを確実に逃がす時間を稼ぐしかない。
(……ルイナ、お前は行け。)
ルークは、夜の静寂の中で、確実に自分の意志を固めた。
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「ルシアン・エーベルフェルト!!」
闇を裂く声が響くと同時に、複数の神官が一斉に動き出した。
ルークは瞬時に状況を把握し、壁際から素早く跳躍。近くの柱を蹴り上げるようにして、一気に上階の通路へと飛び込む。
「逃がすな!取り押さえろ!」
神官たちが魔法陣を展開し、光の鎖が空中を走る。
ルークは即座に回避行動を取り、床に落ちる寸前で壁を蹴り方向転換。
(間に合うか——!)
咄嗟に雷属性の魔力を練り上げ、指先から閃光を弾けさせる。眩い光が一瞬、神官たちの視界を奪った。
「ぐっ……!」
その隙にルークは地面に着地し、一気に廊下を駆け抜ける。
(……時間を稼ぐ!ルイナが逃げるまで!)
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ミアは、神殿の人間が混乱する中、一人冷静に動いていた。
ルークが時間を稼いでいる間に、彼女は内部の混乱を利用して、追っ手を撹乱する工作をしていた。
「ふふ、意外と脆いものね……」
神官たちが混乱する様子を見下ろしながら、ミアはひっそりと微笑んだ。
(あとは……彼が突破できるかどうか…)
神殿の回廊の奥で響く剣戟の音が、それを物語っていた。
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廊下を走り抜けるルークの背後には、複数の神官たちが追いすがっていた。
魔法陣が展開され、再び鎖の呪縛が放たれる。
「ルシアン・エーベルフェルト、観念しろ!」
光の鎖が彼を縛ろうと伸びてくる。しかし——
「甘いな。」
ルークは不敵に笑い、手のひらから瞬時に火焔を弾き飛ばす。
燃え上がる炎が鎖を弾き、その隙に彼は一気に距離を取る。
そして、開かれた門の先へ、遠ざかるルイナの背中を見つけた。
(ルイナ!間に合え——)
息を飲みながら、彼は声を張り上げた。
「ルイナ——!お前は行け!!」
ルイナは一瞬、足を止めかけたが——
「次に会う時は、今よりもっと自由な場所でだ!」
その言葉に、彼女は強く唇を噛みしめる。
(振り返らない。信じる……!)
「……うん!!」
力強く応え、ルイナは再び駆け出した。
「絶対に振り返るな!走れ!!」
ルークの叫びが夜に響く。
そして彼自身もまた、別の道へと駆け出した。
——追跡者たちを引きつけるために。
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ルイナは神殿の門を抜け、走り続けた。遠くに、人影が見える。
ミアの仲間――。
「ルイナ様!」
「……!」
ルイナは全力で駆け寄り、彼らと合流する。
「ご無事ですね! さあ、私の後ろに乗って!急いで!」
ルイナは一度だけ、振り返った。
ルークがここにいないことが、不安だった。
「ルーク……!」
「大丈夫! アイツなら絶対に追いつく!」
スオリスが強く言い切る。
ルイナは歯を食いしばり、前を向いた。
(信じる……!)
――そして一行はそのまま暗闇へと姿を消したのだった




