悪役令嬢? 難易度高いわ
世界を作った神々は、最初に様々な動物を世に放ち、そうして最後に人を作った。
人は神の現身に似せて作られた、神に愛された生命である。
――この世界の創世神話の一文には、とりあえずそんな感じの事が仰々しく記されている。
原文をそのまま読むと何それどこの中二病? と言いたくなるようなものなので、ざっくり現代語訳した時点でこれだ。
これだけならば、人間というのは神に愛されたもうた種族なのだな、と思えるかもしれない。
しかし、その先の文章が酷い。
比喩表現なのかどうなのかはわからないが、とりあえず羊と牧羊犬と羊飼い、という言葉が出てくるが、それが何を意味しているかというと人間の中でも平民に該当する者が羊、牧羊犬は支配階級の人間、そして羊飼いは神に該当する。
要するに、いくら神に似た見た目を持っていてもお前ら人間は所詮神ではないのだから、神の僕としてよく働けよ、という事なのだ。
本当に神話かそれ、と言いたい。
でも恐ろしい事にこの世界の神話なのだ。
とんでもない世界に異世界転生しちまっただ、と前世の記憶を思い出したフレデリカは嘆いた。
前世での神様は概念的なもので各国の神話もあるからそれはもう大勢の神様がいたし、何だったら絵師やら何やら神扱いする事もあったし、そうなると自分も友人から神かよ、とか言われる事もあったしで、海外の国に比べれば神という存在はある意味とても軽いものだった。
なんだったらお母さんが今日の夕飯は唐揚げだからね、とか言った時点でお母さんが神様に見えたりもした。カレーでもハンバーグでも神だった。つまりそんなお母さんの娘だった私は神の子って……わけ。
なんて冗談はさておき。
ところがこの世界ではマジで神様が存在していて、時としてその姿を地上に現したり神を冒涜する不届き者へ神罰を下したりもする。
この世界はあくまでも神の監視下にあり、人間が覇権を握っているわけではないのだ。
神託を聞くことのできる人間は故に神の言葉を違わぬよう届け、人々はそれらの言葉に従うのである。
ちなみに神の言葉を意図的に捻じ曲げて違う解釈をさせたり、実際神は言ってない事をさも神託ぶってやらかした人間は大体神罰食らって死ぬ。そりゃもう誰が見ても悲惨な死に方する。
晴れた日に雷が直撃して死ぬとか、大雨の中燃え尽きて死ぬとか。普通に考えたらその死に方はおかしい、みたいな死に方をする。怖い。建物が火事になって、逃げ遅れた人が神罰で死んだらしく一切焼けてないけど溺死してたとか。考えれば考える程怖すぎて、フレデリカは神を信仰はしないが怖れてはいた。
羊に該当する平民たちはさておき、牧羊犬とされている支配階級というのは王族であり、貴族もまたそこに含まれる。神の言葉を聞くのは神官や巫女などではない。神殿で民草に神の言葉を伝える仕事をしている王侯貴族もいるけれど、神殿にいる平民たちはどれだけ己を律したところで神殿で出世――という言い方もどうかと思うが――はできないのである。
もっとも強く神の言葉を聞く事ができるのは王であり、それ以外の貴族たちは時折聞こえるかどうか……といったところだ。
人間は神の言葉に従って、世界を整える役目を仰せつかっているだけの存在である。
仕事をしない牧羊犬は羊飼いによって処分される。神話風にふんわりとさせるとまぁ普通にそうだよな、みたいに思えるけれど、言い換えれば神に従わない人間は神が処分する、となるのでとんでもない世界だとフレデリカが慄くのは当然の流れだった。
前世の記憶を思い出したフレデリカが怖れているのは、神の存在もそうだけどこの世界がよりにもよって前世で読んだ小説の舞台である、というのもそうだ。
小説では別に神の存在をそこまで怖れるような描写は一切なかった。
あの小説はもしかしたら、この世界の時間軸もうちょい未来にいた誰かが転生したらあっちの世界の前世のフレデリカが生きていた時間軸で、そこでこの世界の事を書いたのか、はたまたこの世界とは違う並行世界出身が向こうの世界に転生したのか……
はたまたどこぞの宇宙生命体からの電波を受信してしまった誰かが書いた、という線もあるかもしれない。
できればこの世界の話に似ただけの、偶然の一言で終わるものであれ、とフレデリカは願うしかない。
何故ならその小説で、フレデリカは悪役令嬢という立場になるからだ。
幼い頃に決められた王子との婚約。
年頃になった王子はしかしとある娘と恋に落ちる。
王子の事はなんとも思っていなくとも、自分の婚約者の周囲をうろちょろする娘を目障りだと思い排除しようとする悪役令嬢ではあるが、しかしそれは寸前のところで王子が助けに入り――
という、まぁ大体王道的なストーリーだ。
小説では、神の存在とかほとんど出てこなかった。
だがこの世界でもしその小説の内容がそのまま起きてしまったら。
王族や貴族の結婚というものは、政略結婚が当然のもので恋愛結婚というのは残念ながらほぼない。
神託を受けた王族が決める――というのが昔からの決まり事である。
なので、どこぞの令嬢や令息が素敵な方、と密かに恋を抱いたとして、家柄その他に何も申し分なかったとしても、王がその二人の結婚を認めなければ何がどうしたところでその二人は結ばれないのだ。
以前からお互いにいいなと密かに思っていた相手同士で婚約が結ばれるだとか、婚約が結ばれた後にお互い歩み寄って良好な関係になっただとかであれば恋愛結婚と言えなくもないかもしれないが、想い合う二人を引き裂くような結果も勿論存在している。
この世界は神の娯楽かテラリウムかは知らないが、ともあれ結婚相手ですら神が決めて交配しているのだ。
だからこそ、神が望まない子は産まれる前か後で不幸な死に方をするし、神の意思など知った事か、好きな相手と結婚するぞ、とやらかしたとしても不幸になる。
どういう基準かは知らないが、一応神様視点で最適な相手との結婚をさせようとしているようなので、余程無茶が過ぎる……! みたいな事はないが、まぁ当人の気持ちは置き去りであるのは言うまでもない。
フレデリカの婚約者である王子――アンスールもまたそういった意味では政略結婚であるといっても、その意味をきちんと理解している……はずだ。
小説のヒロインと出会った途端神意なんて知った事かよ、みたいな事にならなければ。
もしこの世界でフレデリカが悪役令嬢として裁かれるような事になれば。
フレデリカだけではなく王子もヒロインも幸せになどなれるはずがない。
誰が一番悪いか、はさておき、誰も幸せになれないだろう事だけはハッキリしている。
もう随分と昔の話で、何代前かは定かではないが当時の王女が決められた結婚相手が気に入らず、どうにかしようとした結果、最終的に王女は婚約者よりも酷い男に嫁ぐ事になってしまった、という話が残されている。
王女も王族ではあるので、神の言葉を聞けないわけではない。
実際には神託なんてないのに神の言葉を聞いた、と言って婚約を破棄し、別の好いた男と添い遂げようとしたのである。
ところが当時の王こそが本来常に神の言葉を聞く者であったがために、王女の嘘は早々に見破られその後裁きが下った、とされている。
もしここで当時の王が王女可愛さに神の言葉を無視していれば、間違いなく国は滅んでいたに違いない。
というか、この国では随分と前の話だが、別の国はそんな感じで滅んだのだ。六年程前に。
案外身近に神の力を感じられるとか、敬虔な信者であるなら喜ばしいのかもしれないが、フレデリカからすればまぁとにかく怖い以外のなにものでもない。
神様の言うとおりにしていれば不幸にはならない――そうは言っても、自我のある人間が全て従えるか……というのはまた別の話だ。自分以外のやらかしで自分や家族、友人が巻き込まれるような事になるかもしれない、と考えるとフレデリカはともあれ小説のような悪役令嬢になんてならないぞ、と心に刻み込んだのである。
――とはいえ。
自分だけがどれだけ心の内でそんな風に決意を固めていたとしても、周囲がやらかしてそれに巻き込まれてしまってはどうしようもない。
人脈づくりの場として存在している貴族たちが通う学園で、よりにもよってヒロインであるミューリはアンスールと出会い恋に落ちてしまったようなのだ。
それだけならば、まぁ別に問題はなかった。
神が結婚相手を定めるにしても、人間の心の中までは神の思い通りにできるものではない。
秘められた恋なんてものは誰しも持っていたっておかしくはないのだ。
ただそれを声高に叫んだり周囲に知られるような事になれば、最悪神罰が待ち受けているので誰も表に出さないだけで。
そういう意味では、多くの者たちはきっと神に対して少なからず不満を抱いていたのだろう。
最初は淡い恋だった。
だが、人は禁じられれば、駄目だと言われれば言われた分だけ逆らいたい衝動に駆られる事もあるし、それが禁断の恋、なんてものになればその恋が成就されるか周囲が強制的に引き離しでもするかどちらか、もしくは両方が死にでもしない限り中々終わりを迎える事はない。下手をすれば泥沼になって最悪な終わりを迎える事もあるけれど、幸せになれるのは極わずか、本当に奇跡でもなければその幸せにはたどり着く事すらままならない。
それについてはアンスールだってわかってはいた。
わかってはいても、心はそれでもミューリに惹かれていく。
駄目だ駄目だと押し込めようとすればするだけ、それに反発するかのように恋しい、愛しいという気持ちがあふれ出していく。
ミューリもまた婚約者がいる相手を好きになってしまった事に、後ろめたい気持ちはあったのだろう。けれども、人を好きになるという気持ちを捨てる事など簡単にできはしなかった。
少しだけ、ほんのちょっとだけ……そんな風にこれ以上心を押し殺していてはいつか溢れて大変な事になるかもしれない、と理由をつけて、アンスールとミューリは少しずつ交流を重ねるようになった。
ガス抜きをしなければいつか爆発してしまうかもしれない。それを防ぐための、仕方のない処置なのだ……そう自分たちに言い聞かせて。
けれども、その少しの逢瀬、僅かな触れ合いは瞬間的には満たされはするけれど、すぐさま渇きへと変貌する。
ちょっとだけ、あとほんの少しだけ、これで最後にするつもりだから……
そんな風にずるずると二人は会うのをやめられないままその関係を続けていた。
結婚相手ですら神が選ぶ、とはいえこの世界の人間すべての婚姻を神が決めているというわけでもない。
ある程度は決められるが、中には緩い感じのものもあるのだ。
王族はさておき、貴族の中でも高位とされている身分の者たちは神が相手を選出するが、低位貴族や平民たちの多くはある程度の選択肢を与えられる。
A~Dの間の誰かと結婚しろ、とか多少の選択肢があるにはあるのだ。
勿論、その中で自分がこの人と添い遂げたい、と思う相手がおらず別にいれば自由も何もあったものではないのだが。
そういった複数の中から誰か相手を選べ、という場合、選ぶ側が選ばなかった者は、他の相手が決まる事もあればそのまま生涯誰とも添い遂げる事ができないまま……なんて事もあった。
神にとっては庭の木々の剪定をするような感覚なのかもしれない。
ミューリは実のところそういった複数の中から婚約者を選べ、と言われた令息から選ばれなかった存在である。家柄的にも身分がそこまで高くないのと、令息の家から見て旨味と言えるものがなかったのが選ばれなかった原因だ。いくつかの候補の中から選ぶ事を許されるのなら、その中でより良い相手を……となるのは当然の事だろう。
だが、それで選ばれなかったままというのも冗談ではない。
このままでは誰とも結婚できずに老いていく……と考えれば、家が裕福ならまだしもそうでなければ最悪どこぞに打ち捨てられないとも限らない。
年老いてからそうなれば、まさに悲惨としか言いようがないわけで。
ミューリには前世の記憶があった。
働けど働けど暮らしは楽にならず税金や物価は上がる一方で、それでも必死に生きてきた。
手に職があれば食いっぱぐれる事だけはない、と看護職に就いて朝晩みっちり働いてきた人生の記憶。
友人たちの結婚をして子を産んで……という話や実際に幸せそうな様子を見て、自分もそういった暮らしに憧れなかったと言えばウソになる。
婚活を始めても、自分に近づいてくる男の大半は親離れのできていない、将来の親の介護要員を求める無職だとか、自分の年齢よりも干支が一周するくらいに離れてるにも関わらずロクな貯金もなく全力でこちらに覆いかぶさってこようとするようなヒモもどきであったり、甘えたでなんでもかんでも自分でやらずお世話されようとしている赤ちゃんプレイを所望している男だったり。
まぁ、ぶっちゃけるとロクなのがいなかった。
友人たちの結婚相手は皆マトモなのに、どうして自分の所にはこんなクズしかこないんだと憤慨した事もあった。
前世のミューリは仕事で人の世話をしているだけで、それがプライベートであるなら世話をする側に回るなど冗談ではなかったし、どちらかといえば自分がお世話をされて甘やかされたいタイプであった。
仕事は仕事だからきっちりとこなすけれど、何故プライベートでまで他人様の世話をしなければならないのか。仕事でやってるクオリティと同じだけのものをプライベートで無料でやれ、なんて言葉でも態度でも出されようものなら二度とそいつとは会いたくないくらいには嫌いになる。
自分からそれを望んでやるならまだしも、先に相手からそういうのを望まれたらもう二度と顔を見たくなくなる。
そんな前世のミューリはこの人となら結婚したい……という相手と出会えたものの相手が実は既婚者であった事と、同時進行していたらしき女がこの泥棒猫! と昨今のドラマでも滅多に言わない言葉を使って包丁でぶっ刺してきたのである。何をって、前世のミューリの腹を。
知らず不倫になっていたし金は盗られるし同じ被害者の立場のはずの女には勘違いと勢いで殺されるしで散々であった。これが相手の奥さんだったならまだしも。
そんな前世を思い出したミューリはここが前世で読んだ小説の舞台であると知って、あぁ、それじゃ今回はそこそこ報われるのね、なんて思ったりもした。
仕事仕事でプライベートの時間は短かったけれど、それでも前世、休日の日は目一杯長風呂をしてその間に読書をするのが癒しでもあった。
あまり小難しい内容だと風呂で寝落ちするかもしれなかったから、さらっと読めるタイプの本をジャンル問わず適当に。
その中で、ミューリという少女が主人公の恋愛小説は、大昔からありそうなくらい王道的な話だったからさらっと読めたのを憶えている。
ロクな男が身近にいなかった前世のミューリはいっそ王道だろうとありきたりだろうとこういった恋愛して結ばれてぇよ……と思う程度には色々とお疲れだったのである。
それに、この世界があの小説の通りに進行してくれるのなら、ミューリはそのまま原作展開に身を任せるだけで幸せになれるのだ。
前世が色々とアレだった分、きっと今世で報われるんだ……
そう信じて疑わなかった。
アンスールとの出会いも、思えば学生時代にこんな甘酸っぱい恋とかした記憶がないな、と思ってしまえばもう楽しむしかない、と思ってしまったのだ。
最初は周囲に露骨にバレないようにしていたけれど、それでも会う回数が増えればそれだけ人の目につく。
ミューリは男爵家の娘で、アンスールは王子だ。
学園以外で会うのはどうしたって不自然になってしまうので、学園での逢瀬が増えるのは必然でもあった。
アンスールには決められた婚約者がいて、しかし二人の仲は然程良いというわけでもない。
政略結婚。
前世ではとっくに廃れた代物という認識もあったので、ミューリからすれば悪しき風習っていやね、くらいのものでしかなかった。
神話や神の言葉に関しても、どうせ大袈裟に言ってるだけでしょ、としか思わなかった。
前世の記憶のせいでそういった超常現象的なものを素直に信じる事はなかったのである。
大体前世でも忙しすぎて正月に初詣だとか、それ以外でもお参りに行くだとか、そういった事は無縁であった。受験シーズンやら面接の合否連絡が来る直前だとかですら、神頼みなんてするだけ無駄だと思っていた。
前世の記憶を思い出さなければ、もしかしたらもうちょっとこの世界の神について興味を持ったかもしれないが、前世の記憶のせいで神なんてものは所詮偶像でロクな力を持っていないもの、と決めつけてしまっていたのである。
小説の中で、神についてもっと詳しく書かれていたなら、そういう世界だと気を付けたかもしれないが。
周囲の目についてミューリは特に気にもしなかった。
アンスールと会う回数が増えたとはいっても、別に誰かの目の前でイチャイチャしたりしたわけではなかったので。
確かに最初は冷ややかな目もあった。
そうしていくうちに、アンスールの婚約者であるフレデリカの取り巻きだろうか、ミューリにとってはモブでしかない令嬢たちから嫌味やちょっとした嫌がらせを受けるようになった。あの女の差し金かはどうでもいい。重要なのは小説と同じような目にミューリが遭った、という部分である。
だからこそミューリは小説の展開通りにヒロインとして振る舞った。
こんな目に遭ったからといって、アンスール殿下を好きになった気持ちに後悔はありません、と健気に、それでいて儚く微笑めばアンスールは胸を打たれたかのような表情を浮かべて。
「少しだけ、時間が欲しい」
そう、何かを決意した眼差しをミューリに向けてくれたのだ。
――ミューリとアンスールの秘められた恋は、時間の経過とともに知る者が増えて気付けばすっかり暗黙の了解のようなものに変わっていった。
本来ならば結ばれるはずのない二人。
けれどもせめて、この学園にいる間だけは……というような態度の二人に、何やら思う者が出てきたのだろう。
フレデリカの友人が数名、ミューリに対して礼儀を教えて差し上げましたわ、などと言っていたがフレデリカはそれを知った時点でやめるように忠告はしたし、だからといって自分が直接ミューリに何かしようとはしなかった。一応他の友人たちにも手出しは無用と伝えておいたので、小説の内容よりはミューリが嫌がらせに遭った回数は少なく済んだと思う。
それ以外の者たちはというと、いずれ別れるはずの二人の恋を見守る者たちが増えてきたように思う。
フレデリカの友人たちがミューリにした事がフレデリカが仕組んだのではないか、という勘繰りもあったけれど、それらはフレデリカの友人たちが自ら否定した。
愚かなことをして完全に道を踏み外す前にフレデリカ様は引き戻してくれましたわ、とかなんとか。
本来ならばフレデリカが嫌がらせをするはずだったのだ。小説では。
けれどもフレデリカは何もしなかった。原作補正かどうかはわからないが、結果としてフレデリカの友人たちが動いた。
この一件で、果たしてアンスールがフレデリカを断罪しにやってくるかは微妙なところだ。
彼は最近何やら思い悩んだような表情でいる事が多く、それでいて方々に根回しにでも出ているのか何やら忙しそうにしていた。
神が決めた婚約を果たして王子自ら無かった事にできるのかはわからない。
けれども、もし原作補正のような力がこの世界で働くのであれば。
可能性としてはゼロとも言えない。
ともあれ、アンスールの次の行動次第ね……とフレデリカはとにかく様子を静観するに留めていたのである。
アンスールが行動に出たのは、小説ではまだクライマックス、という場面ではなかった。
当然か。嫌がらせは最初の方で止まったし、フレデリカはミューリを邪魔ねあの女、という気持ちで排除しようとも思っていない。
アンスールとミューリの恋はいつしか学園で真実の愛だとか言われるようになっていたけれど、それだって神の意に背く覚悟が最後まであるのかどうか、大勢が注目しているのはそこだ。
たとえ神罰が下ろうともその愛に殉じるつもりであるのなら、その時にこそ本当に真実の愛だと周囲は持て囃すかもしれない。まぁ、持て囃すのはあくまでも第三者であり、身内は持て囃す以前の話だろうけれど。
ともあれ、学園の食堂のテラス席。広々としたそこには、現在複数の令嬢や令息たちがいて、各々がランチを楽しんでいた。テラス席ではない部分でも、アンスールが何やら覚悟を決めたかのような表情で突き進んでいるのを見て、何事かと思ったのだろう。一部の生徒たちは間違いなくこちらに意識を向けていた。
フレデリカは本日天気も良く気温も過ごしやすいという事もあって、友人たちとテラス席でランチをしていた。とはいうものの、朝食がそこそこ多めだったのもあって昼はあまり空腹ではない。そして友人たちの家でも朝食が重ためであったため食べていたものはお茶と軽い食感のサンドイッチ程度である。
昼はしっかりがっつり食べたい、という令息たちから見れば間違いなく小鳥の餌か何かと思うくらいの少量であった。
そんなところにアンスールがやって来たのだ。
周囲もそれに気づけば自然と口を閉じ、何事かと視線を向けるのは当然の事で。
自然と静まっていく周囲にフレデリカとその友人たちが気付かないわけもない。
他愛のない会話を弾ませていた彼女らもまた口を閉じ、視線をアンスールへと向けた。
「フレデリカ」
アンスールが婚約者の名を呼ぶ。
しかしその声に温度はなかった。
平坦で、何の感情もこもっていない声はとても婚約者に向けるものとは思えないが、しかし紛れもなくその声はアンスールが発したものだ。
「はい、どうかしましたか? 殿下」
「君が、ミューリに嫌がらせをしていた、というのは本当だろうか?」
「まさか。わたくしは何もしておりません」
「確かに君は直接何かをしたわけではないが」
「恐れながら、殿下」
口をはさんだのは、フレデリカの右隣にいる友人であった。
部外者とも思える相手が口をはさんできた事に内心でムッとしたのを隠しもせず、不機嫌そうな眼差しをアンスールが向ける。
「なんだ」
「その、レトイア男爵令嬢に嫌がらせをしたのは、私たちです。婚約者がいる相手に近づき、神に逆らうかのような言動をしていたあの令嬢に、礼儀と常識を教えようとした気持ちもありましたが、もし神罰が起きたならフレデリカ様もタダでは済むはずがない……と、少々痛い目を見てもらおうと思った事は確かです。
ですが、フレデリカ様はそんな私たちを諭し、踏み外しかけた道を正してくれました。
そうでなければ私たちは今もまだ、レトイア男爵令嬢への嫌がらせを続け、歯止めがきかなくなっていたかもしれません。
もしその事で罰を、というのならそれは私たちが負うべきものです。
フレデリカ様は、一切レトイア男爵令嬢へ危害を加えるような事はしていないのですから」
アンスールはその言葉に、確かに自分が調べた限りフレデリカが手を下したわけではないとわかってはいた。だが、そうやって友人を使い自らの手を汚さずに……というのも考えていたのだ。
しかしいくら友人と言えど、ここで自分と最悪家にまで責が及ぶかもしれない状況で、フレデリカを庇うとも思わない。ここで下手に彼女たちが自分はフレデリカに頼まれた、などと濡れ衣を着せるような真似をした場合、フレデリカの家を敵に回すのは言うに及ばず。
であれば、この友人でもある令嬢の言葉は真実である、とアンスールは判断した。
フレデリカが何もしていないのであれば、ミューリを害したというのを前面に出しての婚約破棄はできない。
そう考えたのだろうか、アンスールは「そうか」と令嬢の言葉に一言返すと、改めてフレデリカへ視線を移した。
「私たちの婚約は政略である」
「そうですね」
「それはわかっている、が私はそれでもミューリを愛してしまった」
「そうですか」
「だからこそ、婚約を解消したい。そのために、どうにか神に許しを請うつもりだ。
いずれ、国を導くにあたってそれが愛する者とであれば、より一層励むことができるだろうから」
アンスールの言葉は、暗にフレデリカの事など愛していないと言ったも同然であった。
その言葉にフレデリカの友人たちは息が詰まったような反応をする。
周囲はアンスールとミューリの事を真実の愛を見つけた者同士であるのに、しかし結ばれぬ悲劇の恋人としていた部分もあった。
ミューリがフレデリカの友人たちに少々きつめの忠告を受けた際も、そんな二人をきっとフレデリカが引き裂こうと人を使ったのだと囁いたりもしていた。
けれども、フレデリカはその友人たちを止めていた、となれば。
それはまるで、フレデリカはアンスールの事を信じていた、ともとれるのだ。
今はミューリという女性に目を向けていても、いずれ自分を見てくれる、と。
だがアンスールのその言葉にそんな事実はやってこない、と知れば。
友人たちが気まずそうにフレデリカを見やる。
もし、ここで本当に神が愛する二人の結婚を許す、と神託を出すのなら。
では、フレデリカはどうなるのだろうか。
いずれは国母となるべくして学園での授業が終わった後王城へ赴いて王妃教育を受けているのも友人たちだけではない、多くの者が知っている。
今までの努力が無駄になった挙句、次の結婚相手が見つからなければ彼女の存在は家でも持て余すのではないだろうか。
今現在結婚相手が決まっていない令息の誰かと新たな縁を結べ、と神が言うのならいいが、そうでなければ……王妃の補佐として使い潰される、なんてことになったりはしないだろうか。
友人たちとて確かにミューリ相手にやらかしたとはいえ、そこまで愚かな娘ばかりではない。
ミューリが仮に王子と結ばれたとして、彼女に王妃としての職務がこなせるのか、となるとすぐには無理だろう。その間の繋ぎとして、フレデリカが……なんて想像はあまりにも容易かった。
フレデリカはアンスールの言葉に一体どう返すのだろう。
心の中でそんな疑問が浮かんだのは、友人たちだけではない。
周囲で耳をそばだてている者たちも同様だった。
「良かった……」
対するフレデリカの言葉は、安堵に満ちた一言だった。
ぽろり、とその瞳からは涙も零れ落ちている。
お前を愛することはない、と暗に言われたも同然なフレデリカは、きっとここで恋の終わりを悟って傷つくのかもしれない、と周囲は思っていたのだがしかし泣いてはいるがその表情は完全に安心しきったそれだった。
「なに?」
「わたくしも、好きでもない相手と結婚という事に日々憂鬱でしたの。
しかもなりたくもない王妃にならなければならない、その教育は厳しく、とてもじゃありませんが荷が重すぎました。
ですが神の意に背くわけにもいかず……わたくしもまた恋心は秘めたまま、好きでもない相手に嫁ぐのだと覚悟を決めておりましたの」
「なっ……」
それはある意味高威力のカウンターだった。
周囲もまた目を白黒させて場を見守っている。
てっきりアンスールの事を想って、そして信じて友人たちの行為をやめさせたのだと思っていたフレデリカの口から、アンスールの事は好きでも何でもない、という言葉が二度も出たのだ。一度だけでも結構なインパクトだが、二度も念を押すように言われてしまえば聞き間違いかな? と思う間もない。
しかも秘めた恋心、と言われ他に想い人がいるのだという告白まで。
てっきり自分を想っていたのだと思っていたアンスールにとってそれは突然横っ面を殴られたかのような衝撃だった。
「まさか……フレデリカ、きみは浮気をしていたというのか?」
「それは殿下でございましょう? わたくしにはそのような事をする暇な時間はありませんでしたわ」
まぁ確かに。
と周囲はアンスールに気づかれない程度に頷いていた。
家から学園に通い、帰りに王城で更に学びそこから自宅へ王家の馬車で帰宅。
それが普段のフレデリカの行動パターンで、休日であったとしても一人での行動はあり得ない。常に使用人や護衛がいるのだ。彼女がもし他の男と浮気をしていたのなら、使用人か護衛のどちらかが間違いなく当主へ報告している。家ぐるみで実行しているとしても、アンスールとミューリを見ればわかるようにそういった秘めた恋というものは相手と接していくうちに、抑えきれるものではなくなる。
フレデリカの家の者たち総出で隠し通そうとしたところで、結局は露呈した事だろう。
今はまだバレていないだけ、であるのならフレデリカがわざわざ口にしなければ隠し通せたのは確かだ。
だがあえて口にした事で、自分はやましい行動はしていない、と宣言してみせたのも同然であった。
対するアンスールは反論もままならなかった。
再びのカウンター。実際学園でしか会っていなかったとはいえ、自分がミューリと共にいたのは間違いがないし、しかも最初の頃のふとした瞬間お互い見つめ合うだけだとか、すれ違う時のふとした瞬間に一言二言の短い会話をしていた頃と違い、今では隣にいて普通に話をしているのは当たり前だったし、時として抱き着くというような事まではしていなかったが、手を重ねるくらいはしていた。
大勢の目に触れる場所ではなくとも、学園の人があまり来ない場所で愛を語らう事もあったのだ。
傍から見ればアンスールの方が確実に浮気をしていると言える。
ただ、お互いの様子から悲恋の恋人のような認識をされているだけで。実際そういった認識を持つ者たちからすれば、他人事だ。目の前で新しい劇をやってる、くらいの感覚なのかもしれなかった。
そこに婚約者の友人がミューリに対して少々キツイ忠告をしたものだから。
先程自発的にやったのだ、と言われていたがそれが判明するまでは密かにフレデリカが友人たちを使ってそうしたのではないか。愛する二人を引き裂くべくそんな行動に出たのではないか。
そう、周囲は面白半分に噂していただけである。
噂として話をしていたとしても、それだって大っぴらに学園の外でしていたわけではない。街中では口に出さなかったし、精々お茶会やら友人同士で学園内のサロンでだとか、まぁ、少しばかり今後を懸念して念のため、親に話をした事があるくらいか。
もしもっとフレデリカが積極的にミューリを害するような行動に出ていたのであれば、それこそ物語の悪役令嬢のようだ、と言われていたかもしれない。
ほろほろと涙を零していたフレデリカに、友人の一人がハンカチを差し出した。
けれどフレデリカはそれを断り、自分のハンカチを目元にあてる。
人前で泣きだすなど本来ならばどうかと思われる行動ではあるのだけれど。
しかし、アンスールとミューリの事を真実の愛があるにも関わらず結ばれない哀れな二人、とさも悲劇的な物語の登場人物のように見ていた周囲は、フレデリカのそんな様を見て内心で一気に彼女に同情した。
確かに神の言葉に従って婚約を結ぶとなれば、他に好きな相手がいてもそれに従わなければどんな神罰が下るかわかったものではない。神罰が下った際はどちらにしても不幸になるのがわかりきっているのだ。その範囲が、自分だけで済むのか、それとも周囲を巻き込むのかは定かではないけれど。
実際この場にいる者たちの中にも、そうやって婚約者が決まった者は数名存在していた。
だからこそ、好きでもない相手との婚約、という点で共感できなくはないのだ。
ただ、決まってしまった以上はお互いに歩み寄って少しでも良い関係を築いていくしかない。
ところが王子はそれすらやめて、ミューリとばかりいるのだ。
フレデリカからすれば、好きでもない相手なのに更に好きになれる要素がなくなってしまう。
更にフレデリカは別に王妃という立場を望んでいたわけでもない。
それなのに、やりたくないと言うわけにもいかず、王妃として相応しくなるため学園での授業が終わってからも尚、王妃教育なんてものをしなければならないのだ。
アンスールと想いを通じ合わせていたのであれば、頑張ろうと思えるのかもしれないが、好きでもない相手のために努力をするなんて時間の無駄だとしか思えないし、何よりやる気なんて出るはずもない。
と、もし自分がフレデリカの立場であったなら……なんて想像した令嬢たちは皆一様に渋い表情をしていた。とはいえ、露骨にわかりやすい表情をしていたわけではない。令息たちにはわからない程度に留めている。
けれども、同じ令嬢たちの間ではその瞬間見事に通じ合ったのである。
「殿下、是非とも神の赦しを得て下さいね。そうして早めにレトイア男爵令嬢に王妃として相応しい教育を施してあげてください。わたくしにはとにかく荷が重すぎますので、彼女の補佐ですら難しいですもの」
暗に目立たない雑事をこっちに補佐として押し付けて表面上の体裁だけでも保とうとするのに利用するなよ、と言われてアンスールは何とも言えない表情を浮かべた。
アンスールとフレデリカの婚約が決まったのは、学園に入る二年程前だ。
そこからコツコツと時間をかけて王妃として相応しくなるための教育をさせてきた。
侯爵家で生まれ育ったからこそ、最低限基本的な部分は何も問題がないと言えたため、学園を卒業する頃には王妃教育も終わるだろうとされていたのだ。
しかしミューリは男爵令嬢。
基本的な立ち居振る舞いなどもフレデリカと比べれば少々拙い部分がある。
男爵令嬢としてみるのであれば何も問題はないが、王妃としてすぐに振舞えるか、となるとそれは難しいだろう。
学園を卒業してすぐにアンスールが王として即位するわけではないが、それでも彼が次の王となるまでの時間はそう先の話でもない。相手がフレデリカであれば問題なくすぐさま即位し、同時に二人の結婚式も華やかに行う事ができただろうけれど、しかしミューリを相手とするならば。
彼女が次の王妃として人前に出ても問題のない程度になってからでなければ、王もアンスールに玉座と王冠を譲ろうとはしないだろう。
それは、果たしてどれくらい先の話だろうか。
フレデリカが数年で終わらせた王妃教育は、基礎になる部分の大半が最初からできていたからこの期間で済むけれど、ミューリはフレデリカ以上の時間がかかるのは間違いない。
本来予定していた即位する日までに終わるか、となれば……
更にこれから神へ必死に許しを請わなければならない。
それを無視して無理矢理ミューリと結ばれたところで、最悪王家が崩壊するかもしれないのだ。
今更ながらに、アンスールは早まったのではないか……と思い始めていた。
もし、もしこれで神が結局赦しを与えなければ。
無理にミューリと結ばれたとて神罰を落とされて、最悪命を落とす可能性すらある。
泣く泣くミューリと結ばれる事を断念したとしても、てっきり自分に対して多少なりとも恋情があると思っていたフレデリカはアンスールの事など何とも思っていないと言い切る始末。
周囲で事の成り行きを見守っている者たちが一人もいなければ、内密の話として終わらせる事もできたかもしれないが、しかしもう完全に手遅れである。
今更やっぱ今の話なしで……とか言い出せば、なんだやっぱりミューリとは浮気で真実の愛とかではなかったのか、と陰で嘲笑されるだろうし、将来的にどうにか自分が王になったとしても。
国に対する忠誠は誓えど、アンスール本人に対する忠誠は無い、という貴族が増えるのが目に見える。
フレデリカに婚約の解消を申し出る前であれば、まだお互いに歩み寄れたかもしれない。
事前に神に祈り、フレデリカとの婚約を解消してもいいか、という赦しを得ていれば良かったのかもしれないが、まず神にお伺いを立てることが可能であるのか、それらを過去の文献から古文書まで引っ張り出して調べていたのと、フレデリカがミューリに危害を加えようとしていた事が真実であるかの調査とを同時進行で行っていたので、そこまでの余力はなかったのだ。
一応過去、神にそういった祈りを捧げた結果赦しが出た、という件はゼロではなかったので、希望の光が見えた事で先走ったと言えばそれまでだ。
希望が見えた途端に、ミューリと結ばれるかもしれない! という思いがあふれ出た結果だった。
先に祈って婚約解消の許可を出された場合、流石にそれはフレデリカに対して一方的である、とも思ったからこそまずは話を通そうとしたというのもある。
やはり神の意に逆らうべきではなかったのかもしれない……と思い始めてもいたが、目撃者多数の状況で、アンスールが現状をひっくり返せるような手段は残念ながら存在しなかった。
――その後の話としては。
早急に王のところへ神の声が届いたらしく、アンスールとフレデリカの婚約は白紙となった。
アンスール的には一応思い込みで先走ったわけではなかったが、それでも手際が悪い、というのが神の言葉で、これを次の王にするのは許可しない、とまで神は言ったのである。
そうなると、次の王には一体誰を……となったがその相手は既に神から告げられていた。
退位する日が伸びたなぁ……と王は少しばかりしょんぼりしつつも、更に告げられた神の言葉に従うしかなかったのである。
アンスールとミューリは結婚を許された。
しかしミューリの家には跡取りがいて、彼女は嫁に行かなければ家で使用人のような扱いになる事が確定していた。
そこにアンスールが婿入りしたとしても、正直男爵家も扱いに困る。
結果として、アンスールは王国の北の方の領地の一部を与えられ、そちらでミューリと過ごす事が決められた。他国からの侵略という脅威はないが、時折獰猛な獣がやってくる土地であるので、それなりにスリリングな所だ。
春と夏はまだしも秋から急激に冷え込んで冬は厳しいなんてもんじゃないくらい寒い土地ではあるけれど。
真実の愛というのなら、それくらいなら乗り越えられるだろう、という神の声によって二人はこの土地で暮らすしかなかった。獰猛な獣にロクな装備もなしに立ち向かえ、とまでは言われていないのでアンスールも神にこれ以上を望むのは無理だと悟るしかなかった。
獣に関してはこの土地で元々暮らしている者たちでどうにか対応できているので、アンスールの役割は彼らの苦手な書類仕事だとかをして、どういった獣が出てどれくらい倒したかなどを纏めて王都へ報告する事である。他にも仕事はあるけれど、大半は細かく面倒な仕事、と現地の者たちが苦手とするものばかりだ。
ミューリはというと、ある意味で田舎としか言いようのないところで暮らせ、という命に最初は反発しかけた。だって、こんなのおかしいではないか。
前世で知る小説の通りに自分はやっていたのに、悪役令嬢が悪役らしい事をほとんどしなかったせいでこうなるなんて、思いもしなかった。
だが、アンスールにこれ以上神の意に反する事になれば神罰が下ると言われて、そこで今更のようにどうせ昔の事を大袈裟に言っているだけではないのか、と思っていた部分に目を向けてみれば。
神罰で死んだ者たちの末路を知り、ミューリはそこでようやく今の今までスルーしていた神の恐ろしさに気づいたのだ。
もしかしてここ、あの小説が舞台の世界とは微妙に違うの……?
そんな風に思ったのである。
小説にはこんな物騒な神話なんてなかった。
神の意に背いたら容赦なく死んでいくとか、人権はどこにいったと言いたくなるがそもそもこの世界が神の作った神の箱庭であるのなら。
そこに好ましくないものを置こうとしないのは、箱庭の持ち主からすれば当然の事。
こんな不自由な世界に転生していたの……!? と思いながらも、流石に雷に打たれるだとか、焼死やら有り得ない場所での溺死やら、とにもかくにも不自然な死に方をしたくないというのもあって。
ミューリもまた従うしかなかったのだ。
王妃になって楽に暮らせると思ったのに。
男爵家という貴族の生まれではあったけれど、正直決していい暮らしとは言えなかったのだから。
大体、お風呂はあっても前世のようにスイッチ一つで湯沸かしできるでもない。使用人が浴槽にお湯を運んで注ぐというある種の重労働をしなければお風呂にも入れない生活。他にもいくつかの不満はあった。
そもそも使用人がいても、少数であるためミューリのために常にあれこれしてくれるわけではない。時として自分でやらなければならない事だってあった。それは前世で自分の事は自分でしていた身としては構わない……くらいの気持ちは最初こそあったけど、前世と比べると圧倒的に肉体労働でしかなかったので。
お城なら使用人が大勢いるから、自分はもうそんな事しなくていいと信じて疑わなかったのに。
アンスールと北の領地で暮らせ、と言われ寒さが厳しいと知って逃げ出したい気持ちはあるけれど。
だが、逃げたのなら神の怒りが降り注ぐかもしれないのだ。
勿論、何事もなく逃げられるかもしれない。
けれど逃げられないかもしれない。
どちらに転ぶかを、自分の命を使って試してみよう、とは流石に思えなかったのである。
だってそれで悲惨な死に方をする事になったなら。
一瞬で絶命できればいいが、そうでなければ。
後悔と苦痛にまみれて死ぬのはイヤだった。
それならばまだ、アンスールと共に暮らした方がマシだ。
裕福な暮らしからは遠のいてしまったけれど、それでも彼と共にいる間は生活が保障される。
打算にまみれた考えではあるけれど、その後ミューリが不審な死を遂げたという話はなかったのでこれで合っていたのだろう。
フレデリカはというと。
そもそも前世の記憶を思い出す前、神がまだフレデリカの婚約者を決める以前。
家を継ぐ者は別にいるのでフレデリカを嫁に出すにしても、果たしてどこになるだろうか……なんて両親が話をしていた時の事。
その頃には既にフレデリカには好きな相手がいた。
執事見習いとしてフレデリカの家で働く少年である。
伯爵家の三男という事もあって、将来は家を継ぐでもないだろうし……と手に職をつけろとフレデリカの家で働くことになったその少年と幼きフレデリカは気が合ったのかすっかり仲良くなってしまっていた。
なのでもし神がフレデリカの結婚を好きにしろというのであれば、それならばせめて好きな相手と結ばれてほしい……と両親は願っていたし、少年は将来もフレデリカの家で働き続けるわけではなく、いずれは実家に戻りそちらで執事として働くことになっていたので。
彼女もまたメイドとして働いていくのが良いのではないか……とも両親は考えていたのだ。
幼い頃のフレデリカは庭いじりをするのが好きで、庭師の後をくっついてはあれこれやっていたのもあるし、やればそれなりにできる子ではあるけれど人前に出て自分が率先して誰かを導く、というのには向いていない気がしたから。
伯爵家の次の当主になる青年も、弟の事をある意味溺愛していたから弟が好きになった相手であればと乗り気ではあったのだ。
とはいえその時点で勝手に物事を決めるわけにもいかず、もう少ししてフレデリカが学園に通う年齢になっても神の声がなければ……と思っていたところで王子との婚約である。
その頃には前世の記憶を思い出していたフレデリカにとって、この王妃教育というものは面倒で面倒で仕方なかった。やればできる子と昔から言われてきたけれど、正直これに関してはできない子としてさっさと諦めてほしかった。
ただ、神の意に反して出来損ない認定されたらそれはそれで始末されるのではないか、と内心怯えていたフレデリカは「できません」「無理です」というのをおくびにも出さず努力し続けてはいたけれど。
けれどもどうせなら。
それならまだ、伯爵家の三男――カイルと共に彼の実家で使用人として働く方がマシに思えていたのだ。
侯爵家に生まれたからといっても、フレデリカは誰かに傅かれるとか内心慣れなかったし前世の記憶のせいでどちらかといえば労働してる方がまだ精神的にも気が楽だったから。
前世と比べて肉体労働になる部分は多かったけれど、この世界はどう考えても身体が資本。若いうちにいっぱい動いて体力をつけなければ、老後が大変になるのは明らかすぎて。
あとコルセットが地味にキツイ。
内臓圧し潰す勢いで締めるから、うっかり口から本当に内臓を吐き出しそうになりそうな事が何度もあった。実際出た事はないけど。けれども、貴族令嬢として相応しい家に嫁いだり、王妃になろうものならあのコルセットとも長いお付き合いをしなければならないのだ。
いや、コルセットが原因で早死にするかもしれない。
病気になって、だとか事故にあって、だとか。そういうまぁ仕方ないね、みたいにまだ諦めがつく死に方をするならまだしもコルセットが原因で死ぬかもしれないのは流石に嫌すぎる。
なのでフレデリカは是非とも平民よりは生活の保障がされてるカイルの家での使用人生活をお望みですらあったのだ。王子の婚約者になってしまった以上、流石に口に出しては言えなかったが。
けれどもアンスールがミューリと恋に落ちてくれたことで。
希望が見えてしまったから。
神に祈るにしても、場合によってはその祈った相手が神の怒りを買うかもしれないのでフレデリカは自分から神に強く祈って願う事はできなかった。怖くて。
けれども前世で読んだ小説のような悪役令嬢になるのも難しかった。
別に王妃になりたいわけじゃないから、小説同様アンスールの事はどうでもよくても王妃になりたい、とかそういうのもなかったので。
ミューリを害する必要がどこにもなかった。
それでなくとも。
(悪役令嬢とか、自分には難しすぎるのよ……仮にも侯爵令嬢って立場を考えたらしょぼすぎる嫌がらせなんてすれば周囲から笑いものになりそうだし、かといってやり過ぎても問題しかない。
さじ加減がわからない……ッ!!)
いくら小説で自分が悪役令嬢だったからといって、じゃあ好き勝手やりたい放題悪を貫くわ、とはならない。前世のフレデリカは割と善良な一般市民だったので。
それに原作小説での悪役令嬢の嫌がらせに関しても、ヒロインの物を壊すように仕向けるとか、事故を誘発させようとするだとか、直接自分の手を使わずに人を使ってやっていた部分もあるのだ。
だが、自分でやる事に関してもさじ加減がわからないと嘆くフレデリカが、人を使って思いのままな結果を出せるだろうか。
そう考えて、自分自身で「無理ね」と早々に結論が出た。
将来王妃になるのも、そういう意味ではとても重荷だったのだ。
どちらかというと自分は人を使う側ではなく使われる側の方が向いているのでは……? と前世の記憶が蘇ってからは何度もそう思ったくらいだし。
もし神がこのままアンスールと結婚せよ、というのであれば、心で泣きつつも王妃としてやるしかなかったのだろう。そうなったら仕方ない。仕事と割り切るつもりではいた。
それでも本音を言うのなら王妃とかやりたくねぇよぉ、の一言に尽きるのだが。
なのでアンスールとの婚約が白紙になった時、内心で叫んだ。神様ありがとう! と。
カイルと結婚して一生懸命働きます! とまで諸手を挙げての大喜びであった。
傍から見れば王妃という国の最高権力者の立場を得られず使用人になる、というのはさぞ不幸に思われるかもしれないが。
幸せなんて人それぞれなので、フレデリカにとってそれこそそんな部分はどうでもよかったのである。
なお、フレデリカの前世の実家はリンゴ農家だ。
王妃と言われて無縁の存在だと思うのも無理からぬ話であるのは言うまでもないし、使用人の方が性に合ってるというのもまぁ、決して強がりなどではなかった。
アンスールとミューリによる真実の愛と共に、使用人になってなお幸せそうなもう一組の真実の愛で結ばれた二人の話は、少しの間社交界で話題になったのだが。
それはフレデリカにとっては知る由のない事である。
作品書いた時は前書きとか後書きにこれ書いとこ、みたいなのあったはずなんですけど投稿までに若干日数が経過してるので、いざ投稿するぞって時には何をつけ足して書いておくつもりだったのかすっかり忘れています。
とりあえず言えるのはこの世界はヒロインと悪役令嬢の前世の作品とはとてもよく似た別の世界なのは確か。転生ヒロインちゃんはもっと色々気付けるポイントあったかもしれないけど、前世で色々お疲れすぎた結果そこまで目を向ける気力がなかっただけです。もう少し早い段階で神の恐ろしさに気付いていたら別の未来を歩んでいたかもしれないけれど、それで幸せになれるかっていうとまた別の話。
神はあくまでもこの世界を自分好みに整えているだけで、そこで暮らす人間の気持ち一人一人に寄り添うとかするつもりが無いので。むしろ寄り添おうとしたら人口多すぎて早々に破綻するし神も面倒になってじゃあ人間だけ滅ぼすか、ってなりそう。
次回短編予告
一つの国が滅ぶまで。愚かな王族は見限っちゃおうね~系の話。