いらいらうろうろ
人に近寄られる事、話しかけられる事、その動作、すべてに苛々するのだ。
苛々する。
人の気配に苛々する。
人に近寄られる事、話しかけられる事、その動作、すべてに苛々するのだ。特にはらわたが煮えくり返るのは――背後をうろうろとうろつかれる事だ。
背後は見えぬ。
見えないのだから、余計に意図を勘繰り、癇癖に障る。
莫迦どもは己の無礼に一切気付かず近づいて来、うろうろと、ごそごそと、人を苛々させる。
かと言っても私は木石ではない。アパートに籠っている訳にも行かず、出社し、仕事をする。
苛々して、仕事中に声を荒げた事も一度や二度ではない。君は神経質の度が過ぎる、と注意され、変人のたぐいとして会社に籍を置いているが、仕事はこなしている。
――只。
苛々が止まらないのだ。磁性でも持つかのように近寄ってくる莫迦どもに対し、最早暴力的な衝動すらをも抱いている。
そして、妄想も日に日に激しくなって来ている。
私が外でスマホを触っている時、急に人の背後をうろうろし始める輩の意図を勘繰って、歯軋りが止まず、この前には奥歯が欠けた。
人の背後をうろうろ、うろうろと。
スマホでも覗き込みに来たのか。
莫迦どもは平気で無礼を働く。
そこまで他人に興味津々なのか。
莫迦どもは平気で他人の領域を侵犯する。
もし私が満員電車で通勤する身であれば、今頃は人を殺していただろう――故に、車に他人を乗せた事もない。
とにかく、私を苛々させるな。
慢性的な苛々は簡単に人間の認知を変え、変容させる。いつしか私は周囲に近付いてきてうろうろする莫迦どもを、人間とも思わなくなっていた。
――こんな。
こんな、不快な障害物どもは肉塊だ。喋って、動くだけのグロテスクな塊だ。だから喋るな。動くな。呼吸をするな。咳も止めろ。鼻を啜るな。服も着るな。存在するな。存在する事を止めろ。
妄想が、癇癖を増強させている。
――分かってはいる。
分かってはいるのだが、苛々は理屈だけで治まるものではない。
視軸の届かぬ背後をうろうろされると、呼吸すら掠れてくる。
人の背中でうろうろする莫迦ども――お前たちは、何者だ。
誰だ。
どこの莫迦だ。
気が狂いそうだ。
発狂の一歩手前で自分の中の何かを死守している自覚はある。
故に外出はする。私はおぞましくうろうろする肉塊ではなく、人間だ。たまに食事や居酒屋には行く。我慢をして、胃にものを流し込む――この習慣すら止めてしまうと、私は人の周囲をうろうろとして苛立たせる肉塊どもにも等しい人でなしになってしまう。
そしてこの日も近所の居酒屋に出掛けた。
一人なのでカウンター席に座り――店内へと背中を向けた。
うろうろ、うろうろ。
うろうろ、うろうろ。
座って注文したものを待てばいいのに、何の用事があるのか莫迦どもは人の背後をうろうろ、うろうろとしている。そこまで店内を歩き回る客は、常軌を逸している。それに引っ張られて私の中の正気も――揺らいでいた。
神経症的だ。
うろうろする莫迦どもも、私も、この空間も。
悪化していく苛々に耐えきれず、強い紹興酒を飲んだ。
――だが。
苛々は治まるどころか、悪化する。
そして、まだ私の背後では、うろうろと莫迦どもがうろついている。
こいつらはどんな風体で、どんな顔をして、何を思って歩き回っているのだろうか。
意味もなく歩き回っているとしたら、それは動物未満ですらない――肉塊である。最早人とも思えぬ。
――その時。
背後でうろうろしていた莫迦が私の椅子に軽くぶつかった。
同時に私の中の最後の理性の糸が切れた。
私は大声を出して怒鳴り、場合によっては暴れてやろうと振り向いた。
――振り向いた。
そこには。
数人の――否、数体の肉塊が立っていた。
一糸纏わず、だらりとした全裸で背後から、私の手元を見つめている。
頭部は長い馬齢著のような形をしており、本来目がある場所には切れ込みが入っていた。口は無く、それは肉塊としか形容ができなかった。
そして肉塊どもは私の周辺に集合してきた。うろうろ、ふらつきながら、磁性に引き寄せられるように。