7◇ひとつ目の
いったん一人になり、自室のソファーに足を投げ出して沈み込む。
ディオニスは横になりながら考えを巡らせた。
一緒に食事をすれば、アンの気持ちも和むはずだ。商談などは会食の時にすると成功率が高いという。ものを食べている時は気がゆるむのだ。
だからこそ、ディオニスは他人と食事をするのが嫌いだ。隙を見せているようで苦痛に感じる。
思えば、誰かと食事をするのはいつ以来なのだろう。
亡くなった父と食事をしたのが最後かもしれない。父との食事でさえ、楽しかったことなど一度もなかった。
――本当に、こんなことをしていて問題が解決できるのだろうか。
もっと資料を読み漁った方がいいのではないのかと疑いたくもなる。
しかし、散々読んだ末に今のところ身についていないのだから仕方がない。
二時間後、ディオニスは制服から私服に着替える。白いシャツにツイードのベスト、最後にタイを締めて、鏡の前で自分の引き攣った頬を軽く叩く。しっかりと身だしなみを整えて武装すると、自室を後にした。
ディオニスが食堂でテーブルの上座に着いて待っているとアンがやってきた。
自動人形相手に案内してくれた礼を言っている。人形だと気づいていないのか。
「食べられないものはないか? もしあったら代わりを用意させるから言ってくれ。さあ、座って」
ほら、気遣いは完璧だ。
それなのに、アンはまだ気後れしていた。
「恐れ入ります。食べられないものはありません。お気遣い頂き、ありがとうございます」
初対面の時の笑顔とは違う、微苦笑というのかパッとしない表情だった。中途半端に休んだら余計に疲れたということもある。
「そうか。それはよかった」
それでもディオニスは笑顔を返した。
植物で飾られた華やかなテーブル。魔法の光を灯す溶けない蝋燭。
美しい皿に盛りつけられた美味な料理は目にも楽しい。
貴族の、一流の晩餐だ。
――もしや、これがかえっていけないのだろうか。
もっと気安い、アンが食べ慣れたものを用意すべきだったのか。
豪華すぎたのかもしれない。それがアンの気後れに繋がっているのだ。
ディオニスは会話が弾まないながらにアンに声をかけた。
「口に合わなかったかな?」
「い、いえ、そんなことはありません。とても美味しいです」
そう言うわりに、美味しそうには見えなかった。
こちらが笑っているのに、アンは笑わない。しきりにディオニスを気にしているだけだった。
その仕草はまるで怯えた小動物のようだ。
次第にアンが木の上に避難したリスに見えてきた。それがイラつく。
「……知らないところへ来て緊張するなというのも無理なんだろうけど、俺は少なくとも君に危害を加えることはないから」
笑顔を張りつけて、苛立ちを隠しながら言った。
そうしたら、アンは肩を震わせてカトラリーから手を放した。しょんぼりとした仕草でつぶやく。
「申し訳ありませんでした」
「は?」
思わず素の声が出てしまった。それを慌てて取り繕う。
「いや……何が?」
アンは距離のある向こう側からディオニスを窺い見ている。
「私の言動に何か失礼があったのでしょう。無作法で申し訳ありません」
そんなことは言っていない。
なんだこれは。
「……なんで? 失礼って、なんのことだ?」
問い詰めるつもりはなかったのだが、アンは心底困ったように見えた。
「少し、その、ご不興を買ってしまった様子で、私は何かしてしまったのかと……」
「不興? 怒っているつもりはないけど? 笑いながら怒る人っている?」
アンにはずっと笑顔を向けている。それなのに、何がご不興を買ってしまった、だ。
こういう、必要以上に怯える人間は嫌いだ。こちらを常に悪者に仕立て上げる。
アンはディオニスの物言いに驚いたらしく、その場で頭を下げた。
「す、すみません。私、また失礼なことを……」
そこからアンは顔を上げなくなってしまった。ディオニスはため息をつき、自分の気持ちを落ち着けてから言った。
「いいよ、気にしてない。俺はこういう顔なんだ」
アンは一度顔を上げ、妙に悲しそうな表情を見せた。
今の言い方は突き放すようでよくなかったかもしれない。言ってから思った。
しかし、言葉というものは口から出た後に回収することはできないのだ。
――いきなり下手を打った。これでアンの警戒心は強まったかもしれない。
二人、黙々と食事をしてから部屋に引っ込んだ。
部屋に戻ってから、ディオニスは鏡に映る自分の顔と向き合った。
笑顔――ではあるけれど、とても醜悪な作り笑顔。
お前は目が笑っていないと言ったのは誰だっただろう。ため息が零れる。
そして、ディオニスは呼び鈴を鳴らして自動人形を呼びつけた。来たのはメイドだ。皆が同じような見た目なので、何体かいるうちのどれだか見分けはつかない。
「お呼びでございますか、ご主人様」
「紅茶を淹れて持ってこい」
「畏まりました、ご主人様」
ほどなくして運ばれてきたティーセット。
ディオニスは白磁のティーカップの中にライエ名誉教授から受け取った砂糖をひとつ落とし、紅茶を注ぎ入れた。砂糖は綺麗に溶けてなくなる。
「この紅茶をアンのところへ運べ」
「畏まりました、ご主人様」
自動人形を見送ると、ディオニスは疲労感を覚えた。
まさか初日で奥の手を使うはめになるとは思わなかった。けれど、初手が肝心なのだ。ここで出し惜しみして拗れたら目も当てられない。
アンは素直そうだが、小手先の技が通用しないようだ。
ディオニスが笑っても、建前の愛想笑いだと見抜かれてしまう。苛立ちも敏感に感じ取る。
女という生き物は理屈ではなく勘が鋭い。これまで関わった女たちは、もしかすると気づいていてもディオニスの肩書が魅力的であったが故に機嫌を取っていただけだったのだろうか。
――気遣い。慈愛の心。
それが欠けていると言うけれど、頭で考えてわかるものではないのなら、多分ディオニスには一生わからない。
そして、待っているのは転落人生だ。なんて切ない。
願わくは、あの砂糖入りの紅茶を飲んだアンがさっきの出来事を忘れてくれますように。