38◇実行
◆
――仮面舞踏会の翌日。
ディオニスは早朝にエーレンフェルス邸へと赴き、侯爵のいる部屋の扉をノックした。
「シュペングラーです。昨晩の報告に参りました」
「入れ」
短い返事があった。侯爵は中にいる。
ディオニスは心を殺してから扉を開いた。そして、エーレンフェルス侯の前に立つ。
少しも平気ではない。体中の血が凍ったように冷たい。
侯爵はソファーから動かず、膝の上で手を組みながら目を眇めている。
「万事上手く成し遂げたというわけだな」
「ええ。あなたのお言いつけ通りに。証拠がなければ納得されないだろうと思いまして、これを」
ディオニスは、アンティークの指輪を侯爵のいるソファーの上に放った。
一見ただの銀の指輪だが、その昔、毒針を仕込んだとされる指輪で、握手をした相手の皮膚を僅かに傷つけるようにできている。
「血が付着しているでしょう? 王太子殿下の血です。殿下のご遺体の指にも傷がありますし、その血に宿る魔力を調べれば間違いないとわかるはずです」
「お前の仕業だとすぐに知られるのではないのか?」
侯爵はどこまでも疑り深い。尻尾をつかまれるのならいつでも切り捨てる。
ディオニスがどうなろうと、侯爵はどうだっていいのだから。
「そんなヘマはしていません。毒ではなく、私の魔力で行ったことです。自慢をするわけではありませんが、他の人間に私と同じやり方が可能だとは思いませんから、万が一疑われても立証は難しいでしょう」
「そうか。ではこの指輪は始末しておけ」
侯爵は汚らわしいものに触れる時のように指先で指輪をつまみ、ディオニスの足元に放り返した。
そうして、さも可笑しいと言わんばかりに声を引き攣らせ、耳障りな笑い声を立てている。
「王宮ではひた隠しにしているがな、王太子が寝室に引き籠り、家臣が王太子のところへ引っきりなしに出入りしているという報告は受けている。お前はいい仕事をした。アンネリーゼとの仲を認めてやろう」
「お褒めに預かり光栄です。では、アンに会わせて頂きます」
「そう急ぐな。これから、お前も私の息子ということになる。酒でも酌み交わして行ったらどうだ?」
残忍な顔に反吐が出る。
――あと少しでアンに会える。
その気持ちだけが今、ディオニスを支えていた。
ディオニスはもう、侯爵を恐れない。真っ向からその目を射貫いた。
「それはまたの機会に致しましょう。さようなら、お父上」
そう告げると、ディオニスは部屋の扉を叩きつけるように力強く開いた――。
◆
――仮面舞踏会当日。
ディオニスは懐に招待状を忍ばせ、それからアンティークの指輪を左手に嵌めて会場へと向かった。
他の連中とは右手で握手をする。けれど、王太子とだけは左手を添えて握手をする。
その瞬間にすべてが決まる。
――なんて、ディオニスは結局のところ、直前で踏み留まるだろう。
きっと、そんなことはできない。できても、しない。
それなら何故、自分は仮面舞踏会に出席するのだと自問する。
エーレンフェルス侯の手前、仕方がなくとは言っても、最初から暗殺を回避するつもりなら来ても意味がない。
ほんの数時間、問題を先送りにできるだけだ。
心の弱い自分が誘惑に負けてしまうかもしれない。本当は手を下すことだってできる人間かもしれない。
自分で自分を見失いそうだった。
顔を仮面が隠してくれているから、表情を誰にも見られなくて済むのは幸いだ。
招待状を確認され、王宮の奥へと通される。前に来たのはかなり昔ではあるが、構造はそう変わっていない。まだ覚えている。
ホールでは躍っている人よりも壁際で話し込んでいる人々の方が多かった。男たちの服装はそう代わり映えしないが、婦人たちはなかなかに煽情的なドレスを着た人もいた。顔を隠していると大胆になるのだろうか。
顔が見えないからこそ、プロポーションに目が行くのだ。体形が素晴らしければ顔も素晴らしいだろうと勝手に想像してくれる。
だからこそ、逆に体形がずんぐりとしていた場合はいくら顔を隠したところで声がかかりにくい。
――壁際で、体型からするに多分母親と父親に付き添われたピンクのドレスの娘がいるけれど、ずんぐり親子に声をかける男はいないだろう。
なんて他人を観察してしまう。今、考えなくてはならないことではないのに。
そう思ったけれど、その親子に目を向けてよかったのだ。あの父親の体型に見覚えがある。昨日会ったばかりだから。
心の中で、嘘だろ、とつぶやいた。
バーナー親子だ。腐っても伯爵の血縁であり、貴族の端切れだ。招待状が来ていたらしい。
ディオニスが知らないだけで社交場に顔を出し、ディオニスについてあることないこと言いふらしていないとも限らない。
娘と結婚させて生まれた孫に家督を継がせようという例の野望が本気だったなら、ディオニスが風評被害を受けては自分たちも良い目をみないから、それはまだ免れているようだ。後々が厄介ではある。
「お父様、お母様、こんなにも華やかな場所ではわたくし気後れしてしまいますわぁ」
グレーテ・バーナーは舌ったらずな甘ったるい話し方をする。わりと距離があるのに話声が聞こえてしまうのだった。
ディオニスはこういう馬鹿っぽい喋り方をする女が大嫌いである。ザーラの方がまだちゃんと喋れるくらいだ。
「そう言うな。ヤツがきっと来ているはずなんだ。お前の美しさに惹かれてフラフラと現れたところ、ダンスを踊る。名前を訊かれてもすぐに答えてはならん。十分焦らし、二人きりになってから仮面を外し、教えてやれ。アイツめ、明日には自ら私のところへ許しを乞いに来るぞ」
「そうですよ。どこを見てもあなたほど若く美しい令嬢はいませんもの。彼もあなたの虜となるでしょう」
聞きたくないのに、聞こえてしまう。
あの親子は本気でその考えを信じているらしい。親の欲目なのか、審美眼が狂っているのかは知らない。
大体、婚約者がいると言っておいたのに本気にしなかったようだ。こちらを焦らす手を使ってきたと思われたらしい。生憎とどこまでも本気なのだが。
ここで問題は、グレーテの美貌に目を眩ませてしまう――のではなく、あのバーナー親子がここにディオニスがいないか探しているということ。
もし見つかればつけ回される。そうなると行動が制限されてしまう。王太子にも無暗に近づけない。
侯爵の手の者に、ヤツは王太子と接触しようとしなかったと報告されて終わりだ。
無駄に厄介な連中に腹が立つ。勝手に壁の花になっていてくれと願った。




