間に合わない温暖化対策
やはり恐れていた事態が発生した。今朝の新聞の一面に、カーボンリサイクル施設の建設で大規模な贈収賄事件があったことが明るみに出て、東京地検は贈賄側として大手建設ゼネコンの大森建設社長を、重要参考人として取り調べに入ったと報道した。記事によると、収賄側は大物政治家の名前が挙がっていて、近く参考人招致をするらしいという事だった。地球環境問題、特に温室効果ガス減少に向けての取り組みは、大型のプラント建設を伴うため、企業側にとっては大きなビジネスチャンスでもあるのだ。
2022年5月、第6回日本環境会議が招集されたが、冒頭から贈収賄事件についての話題に終始することになった。環境会議を主宰する政府側の松村大臣自身が収賄側の中心人物ではないかと言われていた。
会議招集初日に杉下が環境省の建物に入ろうとすると、多くのマスコミに取り囲まれる異様な雰囲気になっていた。記者たちの質問をさえぎり、カメラの被写体になることを出来るだけ避けながら環境省の正面玄関階段を昇り切り、何とか中に入ることが出来た。中に入ると職員が迎えてくれて、労をねぎらってくれたが、会議が始まる前から異常な騒ぎになっている。
松村大臣の車が正面に着くと取材陣は一斉にカメラを構え、記者たちは彼が車から降りるや否や、何重にも取り囲み罵声が飛び交っている。SPが記者たちを押しのけて道を開け、大臣が庁舎内に入れるように誘導した。報道陣のカメラはそんな物々しい雰囲気を高所からとらえて、お昼のニュースで流すのだろう。
そんな雰囲気の中で会議は始まった。最初に主宰者である松村大臣が挨拶した。
「みなさん、第6回日本環境会議にお集まりいただいて有難うございます。最初にお詫びいたします。私に対する贈収賄の疑いで会場周辺を騒がせておりまして、申し訳ありません。ただ私は報道のような件は全く身に覚えがなく、事実無根であることをここに誓います。私は環境大臣として、地球温暖化防止に命を懸けて取り組んでいます。今後も日本のために、そして世界のために頑張っていきます。今日の会議は雑音に負けず、集中して審議していただきたいと思います。」と挨拶をした。微妙な雰囲気が流れたが、松村大臣は自らの身の潔白をアピールしたので参加者はそれを信用するしかなかった。
その後の全体会は、フィリピンとインドネシアから購入した二酸化炭素排出量を勘案した、来年度の二酸化炭素の排出量の各分野への配分計画を審議した。
昼食を挟み、午後は分科会があり、杉下が所属するゲノム編集部会では、予定されていた各参加者から研究の進展状況の説明があり、予定されていた議題が終了すると、司会する関口議員が発言した。
「松村大臣が収賄で捜査の対象になっている件ですが、みなさんも気を付けてください。温暖化防止に向けた取り組みは、プロジェクトの規模が膨大で、杉下先生が研究している二酸化炭素消化に特化したイネでも、全国で一斉に同じ品種の稲を作付けするとしたら、その苗にかかる金額はどれくらいになると思いますか。さらに世界中の稲作で同様の品種を使うとなると、中国でも東南アジアでもインドでも作付けするわけですから、日本の比ではありません。何百兆円という規模になるんでしょうね。そんな大きなビジネスチャンスを日本の大手商社や農業関係の企業が見逃すと思いますか。特に日本の総合商社は世界中で大きな利益が上がると見込んだことであれば、殺人以外の事だったら何でもやりますよ。そのためにも先生方に近づいて情報を得ようとしますし、共同研究を持ち掛けてくるかもしれません。販売の権利を独占しようと、政治家に近づいてきたのが、今回の事件かも知れないんです。クリーンなイメージのオリンピックでも、毎回のように贈収賄事件が発生しています。私たちのやっている仕事は世界を救う事業なので、クリーンなイメージで進めていかないと、国民が、いや世界の地球人が認めてはくれません。どうか足元に気を付けてください。」と締めくくって挨拶を終えた。関口議員の話を聞いて、杉下は先日の新幹線で話した、日本種苗の野坂のことを思い出した。もしあの時渡されそうになった封筒を受けっとっていたら、今頃どうなっていただろう。封筒にはいくら入っていたのか分からないが、マスコミの餌食になっていたのは自分だったのかもしれない。自らの身の潔白を保つには大きな勇気が必要だと感じた。
会議を終えた杉下は佐久間美佳に連絡を入れた。先月会ってから忙しくてなかなか会えなかったので、デートの場所を東京にしようということになった。日本環境会議が終わる時間に合わせて彼女も東京へ来てくれた。彼女は年縞博物館に有休休暇を申請して午前中に列車に乗り、米原経由の新幹線で2時ごろに東京駅に着き、今は上野の国立科学博物館にいるらしい。杉下も佐久間に上野に行くと電話で伝え、日比谷公園を超えた有楽町駅から山手線で上野駅まで行き、そこから徒歩で国立科学博物館まで行った。中に入ると日本の科学技術の発展の歴史と現在の最新の技術が展示され、理工系の人間にはたまらない内容になっている。館内は広く佐久間美佳を探すにも時間がかかりそうなので、携帯電話にメールを入れた。
“ついたよ。いま、どこ”
するとすぐに
“地球館地下2階 地球環境の変動と生物の進化 -誕生と絶滅の不思議を見てる”と返ってきた。科学博物館は正面の煉瓦造りのレトロな建物が日本館で中庭を挟んだ裏側に地球館がある。地球館は地下3階から地上3階まであり、地球環境の変化に生物がどう変化してきたかなどが常設展示してある。
正面の日本館の地下1階が入口になっている。入場料を払い中に入ると、地球館を目指して奥へ入っていく。広大な敷地に所狭しと展示してあるフロアには、有名な恐竜の展示もあった。福井の勝山にある恐竜博物館は、杉下が中学生だった2000年にオープンしたので、杉下は何回も恐竜の骨格を見に行った。勝山の恐竜博物館が出来るまでは日本最大の恐竜に関する展示はこの国立科学博物館だった。その脇をどんどん進み地球館に入ると、エスカレーターで地下2階に着いた。地球環境の変動と生物の絶滅と誕生を展示していて、氷河期と間氷期、最後の氷河期が終わってからの温暖期と寒冷期について詳細な説明があり、そのたびに生物が対応してきたことが詳しく展示してある。
展示をさらっと見ながら彼女を探すと正面の展示の裏側で熱心に中を覗き込む女性がいた。シックでフレアなひざ丈の緑のスカートと半袖のボーダー柄のニットをあわせ、足元は、遠くから来たのかスニーカーを履いている。肩からはトートバックをかつぎ、手にはノートを持ってメモしながら展示を見ている。帽子はかぶっていないが薄化粧で丸顔の童顔、目鼻立ちは均整がとれ、一見すると幼い感じだが、年齢は30代半ば。佐久間美佳だった。
博物館の中なので大きな声は出せず、近づいて声をかけた。
「待ったかい。急いできたから汗かいちゃったよ。」と言うと、うれしそうな笑顔で
「早かったわね。もう少しゆっくりしてくれてもよかったんだけど、この博物館、3回目だけど何回来ても面白いわ。地球環境の変化ってダイナミックね。」と展示物に圧倒されている感じだった。その眼差しは少年が動物園や水族館に初めて行った時の目と似ている。純粋な好奇心が満たされている感じだ。
「地球の温暖化と寒冷化の繰り返しは、単純なものではなさそうね。この展示では根本の原因は地球の公転軌道が楕円だったものが真円に近づいたり、地軸のずれが変化したりすることで太陽からの紫外線量が変化し、ジェット気流が変化したり、銀河宇宙線の量が変化したりして、温かくなったり寒くなったりすることが主な原因だと示しているわ。ただまだその根拠は謎なのよね。」
佐久間は展示内容の説明にツッコミを入れている。この手の話は少し苦手の杉下は
「その温暖化と寒冷化の繰り返しに、古植物はどう対応してきたんだい?」と聞くと
「そこなのよ。私たちは従来から環境の変化に生物が対応してきたと思い込んでるでしょ。温暖化が進めば暖かい気候に耐えられるように変化してきて、寒冷化が進めば寒いところでも住めるように体を変化させてきた。いや変化できた生物だけが生き残った。つまり進化論を絶対視してきたわよね。常にダーウィンは偉大だと思い込んできたのよ。でも逆に生物の変化が、自然環境を少しづつ変化させたとしたらどうだろう。温暖化が進みすぎた世界を、寒冷化の方向に戻すために生物が変化したとしたら。そんな力を生物が、特に植物が持っていたら、地球環境のマクロな変化を説明できるんじゃないかな。そんなヒントがここに展示されているように思うんだけど。」と熱く語っている。ダーウィンを否定する女性科学者の誕生かも知れない。
「君の考えはすごいね。感心する。ただ学会で発表するにはまだデータが少なすぎるね。決定的な証拠は年縞の中の植物の花粉の化石かもしれないね。」と助言してくれた。
国立科学博物館を出た2人は上野から水道橋に移動して、東京ドームで読売巨人軍を応援することにしていた。2人とも巨人ファンで東京ドーム野球観戦はすんなり決まった。水道橋駅を降りると巨人対横浜の試合開始まであと30分なので、巨人軍の応援用ユニフォームを着た大勢の人が、足早にドームに向かって歩いている。ドームからは既に応援団の声が聞こえてくるし、ドーム内のアナウンスの声も聞こえて来て、自然と気持ちが盛り上がってくる。
「今日の先発は誰の番なの?」と佐久間が聞くと
「金曜日は菅野だよ。エースだから今日は勝たないとね。」と杉下が答えると
「最近、調子悪いわよ。金曜日は開幕戦と同じ先発同士だから横浜は今永でしょ。相手が悪いわ。あいつ球が早いし、チェンジアップはストレートと見分けがつかないし、大丈夫かな。」と心配しながらチケットを買って中に入った。お腹がすいているのでドーム弁当を購入して席に着いた。
試合は一進一退の投手戦。5回に均衡を破ったのは巨人の若き4番、岡本のレフトスタンドへのソロホームラン。2人とも立ち上がって雄たけびを上げ喜びを表現した。
5回を終了してグランド整備のため休憩に入った。2人は背中に担いだビールを売り歩く売り子に手を振り、冷えたビールを買った。冷たいビールが気持ちが良い。そんな時、センターバックスクリーンの大型ビジョンに文字のニュースが入った。杉下はビールを片手に飲みながら、そのスクリーンのニュースがぼんやりと目に入った。
【民自党経済担当 関口大臣 収賄の疑いで東京地検が逮捕】と出た。杉下は言葉をなくした。つい4時間前まで一緒に会議に出席していた関口大臣が逮捕されたのだ。しかも彼は会議の最後に松村議員の疑惑を例に出して、杉下たちに贈収賄に気を付けるように話していた張本人である。杉下は佐久間の肩を軽くたたいてその手を大型ビジョンの方向に向けて指をさした。
「あのニュースの関口大臣、さっきまでいっしょだった。贈収賄に気をつけろって訓示していた人だよ。」と佐久間に小声で話した。ニュースを見た佐久間は理解するまでにしばらく時間がかかったが。
「利権構造って言うのは、私たち研究機関で閉じこもって、社会と隔絶されているところにいる人間には分からないけど、人の心を支配してしまうらしいね。人間はお金と権力の力には弱いんだよ。最近ネットフリックスで韓国ドラマをよく見るけど、警察も検察も弁護士も大統領も医者も、みんな財閥からの贈収賄に手を染めているのよ。日本だって違いわないのよね。」とわかったようなことを言っている。韓国ドラマの背景が韓国社会では一般的な状態ではないだろう。そうは思うが、信じていた環境会議の政治家たちの汚職に、すこし希望を失いかけた杉下だった。
東京ドームの試合は予想通りの投手戦で巨人が岡本のホームランの1点を守護神の大勢が守り切り勝ったが、8時30分に終わってしまった。試合開始から2時間で終わってしまいホームランの打ち合いを期待していた佐久間はやや物足りなかった。
今日のホテルは東京ドームの正面の東京ドームホテルのツインルームを予約していた。佐久間は科学博物館へ行く前に荷物を預けに来ていた。杉下は小さな荷物を一つだけ持って移動していたが、食事に出る前にまず部屋に荷物を置いてネクタイを外したかった。東京ドームホテルは、野球のチケットとセットで購入すると割引が効く。高層ホテルで2人の部屋は27階の部屋だった。部屋を開け荷物を置いて一息ついていると、佐久間の携帯電話が鳴った。佐久間が携帯に出ると環境活動家の西村からの電話だった。杉下はせっかく二人きりでホテルの部屋に入ったので、雰囲気を楽しみたいなと思っていたのにとんだ邪魔が入ったと感じていた。
「佐久間さん、西村だけど今日はどこにいるの? 年縞博物館に電話したら東京にいるって聞いたから電話しちゃった。私も今日は東京なの。明日、国会議事堂前でデモがあるから、今日は東京駅近くの安いビジネスホテルに泊まってるのよ。」と言うので佐久間は
「私は今水道橋のホテル。彼と一緒なの。ドームで野球見てたんだけど早く終わって、今からどこかに出ようかと思っていたところ。」と答えた。杉下は何とか断ってくれと思っていたが意に反して佐久間は話を進め
「それじゃ、赤坂見附辺りで飲まない?」と誘ってしまった。杉下はようやく2人きりで過ごせると思っていたのに、佐久間は西村とどこか打ち解けた感じで話している。電話が終わったので
「西村さんとはあれから会ったことあったの?」と聞くと
「年縞博物館を訪ねてくれたの。彼女、原発を訪れることは多いのよ。先月、高浜原発に来た時に寄ってくれたの。とても気さくで面白い人だし、ずいぶん勉強しているわ。私たちも両方の意見を聞かないと、偏った考え方になってしまうわよ。」とさばさばと話している。
とりあえず水道橋駅の地下から都営三田線に乗り、途中で千代田線に乗り換え赤坂に出た。金曜日の赤坂は9時過ぎでも人通りは多く、これから夜は始まると言った感じだ。TBSの赤坂サカスの前で待っていると西村はジーンズに半袖ポロシャツの軽装で走って来た。佐久間を見つけた彼女は
「美佳ちゃん、久しぶり。」と言って彼女に抱き着いてハグしている。杉下はその様子を見ながら西村を観察していたが、年齢は自分たちとほぼ同じだろう。カジュアルな服装なので若く見えるが肌は年齢を隠せない。しかしよく見るととても美人で、佐久間が童顔のかわいい系なのに対して、西村はクールビューティー系だと思っていた。
2人を見ながら立ち尽くしている杉下を見て西村が
「杉下さん、お邪魔じゃなかった? ごめんなさいね。ビジネスホテルで一人でいるのが寂しくて、彼女のことを思い出しちゃったの。いっしょに今晩は飲みましょう。」と気さくに誘ってくれた。杉下は断る理由もないので顔を引きつらせながらも悟られないように気を付けて
「楽しく飲みましょう。どの店にしましょうかね。」と言って携帯で店を探そうとした。すると西村は
「大丈夫、もう探してあるから。安くておいしいお寿司屋さんが、そこの地下にあるのよ。予約しておいたから。」と完全にイニシアティブを握られていた。彼女の行動力はすさまじい感じがした。言われるがままに西村について行くと、赤坂交差点の一等地の角のビルの地下に、その寿司屋はあった。安い店らしいが、少し心配しながら杉下は後について行った。しかし中に入って安心した。居酒屋でお寿司も出す形態のようで、一見して高くないらしく、若者たちが多かった。
注文にやってきた男性店員は外国人だ。たどたどしい日本語で、メニューと注文用のiPadを置いて行った。iPadから各自で直接入力して、注文を確定させるシステムのようだ。
「何にする?お寿司もいいけど揚げ物も食べたいわ。」と佐久間が東京ドーム弁当を食べたことを忘れているかのように、空腹をアピールしてくる。
「まずはビール3つね。そしてお寿司の握り3人前、唐揚げとイカゲソ、餃子も食べるわね。」と西村がiPadを支配して注文を入力している。ビールは1分もしないうちにやって来た。
「では再会を祝して乾杯!」西村の発声で懇親会は始まった。冷たいビールを飲んでいると赤坂までやってくる時の、地下鉄の生ぬるい空気の感触を忘れさせてくれる。佐久間のように、いつも若狭の田舎の緑多い空気の中に過ごしている人には、東京の地下鉄のあの生ぬるい空気の感触は耐えられないだろう。地上階に出ても赤坂のコンクリートの地表は5月とは言え、夜になってもヒートアイランド現象を感じさせる。
「ところで杉下さん、ゲノム編集のイネ、進んでる? 発想は理解できるんだけど、この間、環境問題の民間の国際会議で、スウェーデンの科学者と話したのね。そこであなたのゲノム編集のイネのことを話したの。そしたらその科学者は反対してたわ。二酸化炭素を減らすことに成功するかもしれないけど、そのイネが周りの植物の植生を変えてしまうことにならないかって心配してたわ。そのイネは人間の手で作り上げた自然界には存在しない植物でしょ。どんな副作用があるか分からないって。人間が作り上げた自然には存在しないものと言えば、ダイオキシンだってそうだったでしょ。枯葉剤として開発されたけど、その副作用で人間の体に害を及ぼして、今では製造されないでしょ。ダイオキシンが発生してしまうという事で、焚火すら禁止されている現状よ。それでもゲノム編集を続けるの?」と厳しい意見を述べてきた。杉下が返答に困っていると佐久間が
「そのことは私も彼に何回か話したわ。でもどの植物を利用するかで話は変わってくると思うの。以前、彼に話したのは、私が研究している年縞の中から出てくる花粉のうち、地球温暖化が進んで、今よりも何度も暑かった地球で、繁栄していた植物の遺伝子を使うと、うまくいくんじゃないかっていう事なの。過去に存在していた植物の遺伝子を利用するから、自然素材でしょ。人間が作り上げてしまった化け物ではないと思うわけ。」とサポートしてくれた。佐久間が話し終わって頃、注文しておいたお寿司や空揚げなどが運ばれてきた。アジア系に男の子が日本に研修生として入国したが、生活に困り居酒屋でアルバイトをしているのだろうか。
お寿司をつまみながら今度は佐久間の研究について話が及んだ。
「杉下さんの研究が副作用もあるとすると、佐久間さんの研究とのコラボが大切なわけね。佐久間さん、早く有望な花粉を見つけてくださいよ。」と西村が言うと
「私も頑張っているのよ。でもどの時代に焦点を当てるかも難しいわけなの。今のところ年縞博物館ではっきりと年代が分かる年縞が出てきているのは、7万年前からで7万年前から18500年前までは、最後の氷河期(ヴェルム氷期)が続いているから、この間は温暖期はないの。そして最後の氷河期が終わってからは、何回か短い温暖期と寒冷期が繰り返していて、比較的期間が長い温暖期は、紀元800年ころから1300年ころまでが現代と似た温暖期だったと言われているわ。日本で言えば794年から始まる平安時代から鎌倉時代末期までという事になるわね。でも最も温暖だったと言われるのは、今から約12000年前くらいのアレレード期と言われる時代、今よりも平均気温が7度くらい高かったと言われているの。だから12000年前あたりの年縞を隈なく探しているんだけど、まだはっきりとした遺伝子配列の変化を見いだせていないのが現状よ。」と進捗状況を説明した。すると西村は杉下に向かって
「遠距離恋愛の彼女が結果が出なくて焦っているのに、あなたは何やってるの。彼女が早く有力な個体を見つけてくれないと、あなたの研究も行き詰まるし、地球人みんなが困るのよ。温暖化リミットのXデーよりも早く見つけてくれないと、南太平洋の島々は海に沈んでしまうし、人類は滅亡するかもしれないのよ。彼女の研究をサポートするために、三方五湖へ行きなさいよ。2人で有力な個体を見つけてください。古植物学者だけでなくゲノム編集の専門家が見れば、有望かどうかの判断も早いんじゃないの。」とすこし酔いが回った状態で2人を急かした。
杉下はそう簡単に大学を出るわけにはいかないと思ったが、彼女のアドバイスで起死回生の手立てを思いついた。
「佐久間さんを日本環境会議のメンバーに推薦して、僕と2人で共同研究をすることにすれば、環境会議の口添えで大学当局に僕の年縞博物館への出向を願い出ることが出来ると思うんだけどね。」と新たな案を出した。これならば共同研究は進展するし、遠距離恋愛も解消できそうだ。
「それは名案かも知れないわ。早めに手を打ってみる価値はありそう。」と西村日向子も相槌を打った。佐久間美佳はそんなに簡単にいくのかなと半信半疑だった。
早速翌日に、杉下は松村環境大臣に佐久間研究員を環境会議のメンバーに加えることと、彼女との共同研究のために年縞博物館へ出向することを許してもらうように京都大学に打診して欲しいと頼んだ。