SDG'sの推進
日本環境会議は日本政府が国連の働きかけで、世界各国と歩調を合わせて設立した温暖化防止のための機関で、各界から多数の専門家を集めて温暖化を止めるために、日本が出来ることは何なのかを検討することを目的としている。総理大臣から取りまとめを任されているのが環境省大臣、松村啓介衆議院議員である。SDG’sの旗振り役として、度々マスコミに取り上げられることから、国民への認知度も高まっている。
Sustainable(持続可能)という言葉は国連が定めたSDG’sの17の目標で一気に有名になり、様々な場面でこの言葉を引用することで、正当な大義を持った意見とみなされるようになりつつある。戊辰戦争の時の『錦の御旗』を掲げた官軍のような勢いを感じる時さえある。しかしはたしてそれは本当なのだろうか。疑いを持って批判精神を発揮してみる余地はないのだろうか。先進国の自分勝手な言い分とも言えないだろうか。
日本環境会議の第3回会合を来週に控え、大阪での別の仕事を終えた松村環境大臣は、明日の京都迎賓館での会合のために、今晩は京都で宿泊ホテルを予約してある事を秘書から聞くと、名神高速道路を走る公用車の中で、おもむろに携帯電話を取り出し、連絡先の中から一人の人物を選んで電話を発信した。夜10時だというのに着信音3回目でその相手は電話に出た。
「はい、どちら様ですか。」
「もしもし、環境省の松村です。今どちらですか。」と聞くとその相手は少し息が上がった感じだったが、
「ああ、大臣。今、京都の町中にいますけど。」と平静を装った感じで話している。
「私ももうすぐ京都なんですが、もし時間が許せば今夜会えませんか。来週環境会議なので、その前にお会いして少しお願いしたいこともありますので。」と少し強引な申し出だが、忙しい大臣の頼みなので仕方ないかなと思ったのか、
「もう遅いですから短い時間でしたら。」とその人物は渋々承諾した。すると議員は
「僕は今夜河原町のホテルオークラ宿泊です。10時30分にロビーに来ていただけませんか。」と依頼するとその人物も近くにいるので行けると返事してくれた。
佐久間の予約したホテルの部屋に入り彼女をいきなり壁に押し付けて抱きしめ、激しくキスをしているとき、杉下の携帯が鳴った。誰なんだこんな時にと思ったが、彼女を抱きしめたまま携帯の着信の名前を見ると、環境会議の議長の松村大臣だった。あわてて彼女を抱いた手を離し携帯を耳に充てると、このあとホテルオオクラで会おうというものだった。大臣の申し出を断るわけにもいかず、了承したものの、彼女と次に会えるのはまた一月後だ。ホテルオオクラはまさに今いるホテルだった。下のロビーまで降りるだけだし、大臣が来るまでにはまだ30分ある。いろいろな思いが混雑したが、冷静になって事態を彼女に話すと彼女は
「すごい、大臣と携帯で話す中なんて、さすが環境会議メンバーね。遅れないようにロビーに行ってよ。」と送り出そうとするが杉下は
「まだ時間があるからもう少しだけ・・・」と言って彼女の手を引いた。
「だめよ。これから大臣に会う人が・・・」と言って彼の手を払って奥のベットに座った。杉下も彼女に続いて奥のベッドに行って横に座り、抱き寄せてキスの続きをしようとしたが
「お仕事頑張って。・・・・・」とあしらわれた。
10時20分にロビーに下りた杉下はソファーに座って大臣が来るのを待った。10時過ぎと言っても、京都の繁華街近くの一流ホテルのロビーだけあって、人が絶えることがない。多くの人が行き交い、宿泊客のような人もいるし、宿泊客とは見えない怪しそうな人もたくさんいる。みんなそれぞれにいろいろなストーリーを持っているのだろう。ほどなくエントランスに黒塗りのハイヤーが停まり、見るからにSPと思われる4人の黒のスーツの男たちに先導された大臣が入って来た。秘書と思われる人物が先に杉下の方に歩み寄り
「杉下先生ですね。松村大臣の秘書です。では私と一緒に来てください。」と言って廊下へ促された。大臣はこちらの方を意識することもなくエレベーターホールの方へ入っていった。杉下は秘書に導かれて別の廊下から遅れてエレベーターホールに行き、別行動でエレベーターに乗ると最上階のボタンを押すのを見た。周りに見られては困る会合になるのかと感じながら、杉下は誘導されるままに最上階に下りると、普通の階とは雰囲気が違い、扉の間隔が広い。いわゆるペントハウスのフロアなので、この階に4部屋ほどしかないことになる。秘書に案内されてそのうちの一つの部屋に入ると、応接セットが置かれた部屋と奥にはベッドルームが2つほどあるようだ。20人ほどで十分パーティーが出来そうな広さだった。周りを見渡して立ち尽くしていると、洗面所から松村大臣が出てきた。
「杉下先生、お越しいただいて有難うございます。何か飲まれますか。」と言って秘書に何か飲み物を出すように合図した。
「時間が遅いので早速本題に入りますが、来週の会議で私の方からSDG‘sの推進について提案させていただきたい項目があります。脱炭素に向けて具体的な二酸化炭素削減目標を設定していますが、電力業界からも自動車業界からも直近の目標値まで削減することが難しいという返答を内々に私のところで頂いています。そこで提案なのですが足りない削減量を発展途上国、今回はインドネシアとフィリピンから二酸化炭素排出権を購入しようという提案です。急激に対策を進めていきたいところですが実現可能かどうかを見極めながら経済が破綻しない程度に改革を進めていくことが肝要です。ここは排出権限を使い切らない発展途上国から購入することで日本経済の急場をしのぎ、改めて目標値に向けて頑張ってもらう事をお願いするという方針です。会議の席上には過激な発言をされる環境保護団体の方もいるし、逆に経済活動を優先すべきとする経済団体の方もいます。比較的中立の考え方をお持ちの杉下先生たちが賛成していただければ、この案を承諾していただけると思うので、是非賛同していただきたいということです。」とまくし立てるように話してきた。話を聞き終えた頃に秘書が大きなグラスに入ったブランデーが運んできた。渡されたグラスから一口なめるように飲んでみると、芳醇な香りが口いっぱいに広がった。准教授とは言え、大学生時代とさほど変わらない学園生活を送る杉下には、縁遠い飲み物だったが、高級感は十分に伝わった。しかし二酸化炭素の排出量をお金で買うという事は国民が納得するかどうか疑問に思った。
「お話の中身はよくわかりました。SDG‘sの17の目標が発表されたときにも、この排出量の売買は、温室効果ガスを大量に排出してきた先進国の言い分と、これから経済発展をするのに資金が必要な発展途上国の言い分を、すり合わせた苦肉の策であることは報道されていました。まさにそこが理想主義ではなく、持続可能という功利的な目標なんですから。でも持続可能という現実主義が幅を利かせているうちに、温暖化は加速度的にスピードを増しています。手遅れになってしまうと警鐘を鳴らす科学者も多いです。実は私も知り合いの科学者と、さっきまでこのホテルで話し合っていたんですが、その科学者も温暖化のスピードが増していることを強調していました。古生物学者なんですが過去に地球が温暖化した時の、植物の変化に答えがあるんじゃないかと考えています。福井県に年縞博物館というのがある事はご存じですか。」
「ああ、知っているよ。昨年招かれて行ってきたよ。」
「それじゃ年縞のことはご存じですね。7万年前から一年ごとに白と茶色の縞が残された地層が湖の底に残されているんです。その地層の中に当時の花粉や植物の化石も残されていて、その植物のDNAレベルでの分析をしようとしています。地球は温暖化と寒冷化を交互に繰り返し、そのたびに動植物は環境に適応して生き延びているんです。しかし、逆に動植物の変化が気象にも影響を与えているのではないかという仮説には興味がありませんか。」
話が大臣の提案からかなりそれてしまったが、松村大臣は杉下の話に興味を持って
「面白いですね、その研究。一度私にも会わせてください。年縞博物館の研究員なんですね。」というので杉下は今このホテルにいますけどと言いそうになったが、彼女との関係を勘繰られることをおそれ、言葉を飲み込んだ。
「大臣の御提案は前向きに考えさせていただきます。着実にやれることから進めていくことは大切だという事は分かっています。理想論だけでは温暖化を止めることは出来ませんから。」と答えて杉下は大臣に挨拶をして部屋を出た。
エレベーターに乗った杉下は直接彼女が待つ階に行こうかとも思ったが、松村大臣の秘書たちがエレベーターの停まる階を見ていたら嫌だと思い、いったんグランドフロアまで降りて1階のトイレに入り、しばらくしてから再びエレベーターに乗って彼女の部屋のあるフロアに戻った。別に芸能人ではないのでプライバシーを盗撮されることもないだろうが、日本環境会議のメンバーとして、さらには環境大臣と秘密の接点を持った身として細心の注意を払った。
彼女の部屋のドアをノックすると程なく彼女がドアを開けてくれた。
「どうだったの、大臣の話は」彼女が心配してくれた。
「会議の時に大臣の意見に賛成してくれって話さ。」
杉下はネクタイを緩めて緊張をほぐしながら部屋に入っていった。ベッドに座ると彼女も隣に座って来たのでそのまま30分前の続きを始めた。しかし彼女は抱きしめられながら
「どんな話だったの? 会議の前に事前に話すなんて普通じゃないような気がするけど。」と聞いてくる。杉下は彼女にキスをした後、
「二酸化炭素の排出量を発展途上国から購入して、当面の排出削減量の不足を補うそうだ。でも環境団体などからは賛同を受けられそうもない意見だから、中立の我々大学関係者を事前に抑えておこうという事だよ。」と話した。彼女はハグされている手を振りほどいて
「排出権の売買なんて先進国の勝手な言い分よ。こんな地球にしたのは先進国なんだから先進国が排出目標を守る義務があるのに。お金で途上国の排出権を買うなんて、札束で頬を張り倒して言う事を聞かせる、帝国主義時代の悪い風習みたい。それであなたはどう言ったの。」と今度は彼を追求してきた。
「僕かい、僕はとにかく保留してきたよ。君のことも話してきたよ。僕の友達で年縞を研究している古植物学者のユニークな研究が解決策を導いてくれるかもしれないって。そのうち君に連絡あるかもしれないよ。会いたがってたから。」と話の中身を明かした。話の結論は出なかったが、途中から二人はベッドで抱き合ったままだったので頭が空っぽになりそんな話はどうでもよくなっていった。