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ゲノム編集

 翌月のデートは佐久間が京都大学に来た。佐久間にとっては3年前まで研究に没頭していた場所だ。そのころの佐久間は大学院の古植物研究室に在籍し講師として理学部で授業も受け持っていた。杉下はすでに研究が認められ、ゲノム編集研究所の准教授として研究所の主たる研究員であった。その研究が認められ日本環境会議のメンバーとして召集されているのだ。

 休みを利用してきたのだが博物館勤務の佐久間は、休みが休館日の月曜日と他の曜日1日なので、今回のデートは月曜日から火曜日にかけての2日間の予定だ。月曜日のお昼前に大学についた佐久間は、まず古植物研究室の仲間を訪ねた。京都大学吉田キャンパスは大学本部がある大きな敷地だが、その北部の北部構内に理学研究科が管理する植物園がある。そのとなりの建物の2階が古植物研究室である。地層の中から出てくる植物の化石を分析して、どんな時代にどんな植物がいたのか、またその時代の植物の特徴はどんなものだったかなどを探る研究である。

植物研究棟の2階への階段を昇る佐久間に最初に気が付いたのは、古植物研究科の准教授を務める田川恵子だった。田川は佐久間と同級生でいっしょに助手をしていたが、佐久間が福井の年縞博物館へ就職したので、田川が准教授になったいきさつがある。

「美佳じゃない、突然どうしたのよ。元気だった?」

さばさばした性格の田川がぶっきらぼうに声をかけてきた。階段を昇りかけていた佐久間は振り返ってその田川の方に向き直り、

「恵子、元気だった?その後研究の方は進んでるの?白亜紀の草食動物たちが食べていたシダ類を特定することは出来たの?」佐久間美佳もぶっきらぼうな言い方で、矢継ぎ早にいくつも質問を投げかけた。

「何から応えたらいいの? もう若くないから元気でもないけど、研究の方はぼちぼち進んでいるわよ。ところで杉下君に会いに来たの?」2人のことを昔からよく知っている田川が、遠距離恋愛を続けている佐久間にジャブを打って来た。かつて杉下をめぐって恋のライバルでもあった2人である。佐久間が福井へ行ってしまったことで田川にもチャンスがあるのかとも思われたが、佐久間と杉下の関係は遠距離恋愛で3年経った今も続いているのだ。

「そうよ、杉下君がどんな研究しているか確かめないといけないし、悪い虫がついてないかも時々チェックしないとね。」とあっけらかんとしている。田川と佐久間の関係もライバルでありながら、心を打ち溶け合った仲間でもあるのだ。

「彼なら3階の研究室だろうけど、2階の研究室にも寄るんでしょ。」

「行くわよ。みんな元気? 教授はどう、体の具合は?」と話しながら階段を昇ると古植物研究室の前についた。古めかしいドアを開けると乱雑に置かれた化石が山のように積み上げられているが、ここではそれが宝の山だ。中の研究室には佐久間たちの後輩が何人かいて、クリーニング作業をしていた。簡単な挨拶を済ますとそれぞれがやっている作業の中身を説明してもらい、この研究室の現在の研究の方向性を探ることができた。すると隣の部屋から白髪の男性が戸を開けて入って来た。来客が来た雰囲気を感じて入ってきたようだった。

「佐久間さんじゃないか、声がしたから誰かなと思って来たんだけど、元気だったかい。今日はどうしたんだ。」

佐久間が学生時代からお世話になった中山教授だった。中山は古植物学の日本の権威で、過去の古植物が現代の植物にどう進化してきたのかなどをライフワークにしている。

「教授、ご無沙汰しています。お元気でしたか?」と挨拶すると

「君に福井へ行ってもらってからもう3年だよね。まだ大きな研究成果を上げたという知らせは聞いてないけど、どうなってるのかな。年縞は古植物を研究する上でこれからのトレンドだと思って君に行ってもらったんだ。向こうの館長も是非新進気鋭の研究者を派遣してくれというから、君を推薦したんだ。頑張ってくれよ。」と励ましてくれた。3年も経ったのにまだ成果を上げられていない自分に少し情けない思いもあったが、

「怠けているわけではないんですが、博物館は研究室と違って運営の仕事もあり、研究は空いた時間に進めることになってしまい、ついつい後回しになっていました。今後気をつけます。」と言って頭を下げた。中山教授は

「ごめん、ごめん。謝らないでくれ。そんなつもりで言ったんじゃないよ。忙しいのは分かっているよ。でも君なら地方の博物館からでも、大きな研究成果を上げられると思うんだ。年縞はそれだけの宝物を秘めているよ。」と言って笑っていた。

「お土産に小浜の葛餅を持ってきました。みんなでどうぞ。」と言って葛餅をテーブルに広げた。即座に全員が集まって一瞬で包装容器だけになってしまった。食べ終わると佐久間はみんなに挨拶して、3階の杉下の研究室に向かった。

 3階はゲノム編集研究室になっていて、杉下はそこの准教授を務めている。教授の部屋もあるが准教授になると個人の部屋があてがわれる。佐久間が彼の部屋のドアをノックするとドアが開いて杉下が笑顔で迎えてくれた。1ヶ月ぶりだったので佐久間はすぐにでも抱き着いてハグしたかったが、場所が研究室だったので衝動を抑えて

「久しぶり、元気だった。」とよそよそしく挨拶して部屋の中に入ると、小さなソファーに座り、書棚に並べられた本と机に雑然と並べられている研究雑誌に目をやった。ゲノム編集は地球温暖化の対策として、新しい植物を開発することを求められる領域なので、新しい研究発表も多い。雑誌には意欲的な研究論文がたくさん掲載されている。部屋の中心的な位置にはコンピュータが位置し、大きなモニターが3台、所狭しと置かれている。株のデートレードでもやっているのではないかと疑いたくなるようなコンピュータだが、ゲノム編集となるとモニターもこれくらいは必要なのだろう。

 奥のテーブルでコーヒー豆をミルで手回しして挽きながら

「今日は福井からどうやって来たの?」と杉下が聞くと佐久間は雑誌をめくりながら

「三方から上中を通って昔の鯖街道を車で琵琶湖畔に出て、湖西道路を京都まで来たのよ。あの軽自動車、よく走るのよ。」とさらっと言った。ドリップでコーヒーを煎れていた杉下が驚いた様子で

「3年前まではペーパードライバーだった君が、京都まで一般道で来たなんてすごいね。もうベテランドライバーだ。疲れただろ。コーヒーを飲んだら、昼食に出よう。」と言って彼女を誘ってくれた。コーヒーカップはきれいに洗ってあるとは言えなかったが、コーヒーそのものは使っている豆が一流なので、香り深くコクがあってとても味わい深かった。

 2人でコーヒーを飲みながらそれぞれの近況報告をした後、研究室を後にして外に出た。大学の敷地内は車もほとんどなく、歩くにはとても気持ちが良い。敷地を出るとたくさんの学生相手の民間のお店がある。杉下は佐久間の顔を見ながら

「いつものペスカトーレでいいかな。」と言うと佐久間は明るい笑顔で

「懐かしいな。マスター元気かな。半年ぶりくらいね。」とはしゃいで答えた。

ペスカトーレはこの界隈では人気のイタリア料理店でパスタが人気だ。

「今日は海鮮パスタとマルガリータピザいっちゃう?」と歩きながら佐久間が杉下と腕を組んで楽しそうに注文を考えている。杉下も腕を組まれると少し照れる年齢だが、一か月の時間が羞恥心を押さえた。100mほど歩くと蔦の絡まる店の壁が見えてきた。玄関の階段を2段上がったところにドアがある。店の前には『営業中』の看板が上がっている。

 ドアを開けて店に入ると、カウンターが開いていたので、2人は一番奥の常連さん専用の椅子に並んで座ると、昔からお世話になっているマスターが

「美佳ちゃん、久しぶりだね。福井はどうだい、海の物がおいしいだろ。」と言うので

「そうね。私がいるところは三方五湖なんだけど、海もすぐ近いから魚も貝も新鮮でおいしいわ。ウナギも名物なのよ。」とマスターに近況報告をした。福井の生活は充実しているとアピールして、心配させまいと虚勢を張っているようにも見えた。

「それじゃ今日は何を食べますか?」とマスターに聞かれ佐久間美佳は

「海鮮ペスカトーレとマルガリータピザをお願いします。杉下君はどうする?」と言うと

「僕も同じものを でもマルガリータは2人で1枚にしとこうよ。」と佐久間の方を見ながら同意を求めた。佐久間もそのつもりだったようで

「私1人で両方は食べられないわ。当然シェアしましょう。」と笑いながら杉下の腕に手を添えて言うとマスターは

「海鮮が豊富な若狭の御食国みけつくにから来た人に、海鮮パスタを出すのは気が引けるけど、頑張って作らせていただきます。」と言って元気よく奥へ入っていった。言われて見れば、若狭は古代から海産物を京都や奈良に運んできた地域で、今日佐久間が車で走ってきた道も、鯖を運んだ鯖街道だった。海のない京都や奈良では海洋性のたんぱく質を取るには、ぬか漬けにした鯖のへしこや棒鱈など、加工された魚を工夫してきた。


 しばらくすると店の奥のピザ窯にピザが入れられた。昼時で窯は十分に温まっていたので、木片を少し入れるだけで窯は十分に温まっているので、すぐに作れるようだ。マスターが大きなヘラでピザを窯の中に入れて焼いている様子を見ながら

「ピザを焼くときにも二酸化炭素はたくさん出るのね。温暖化対策が徹底されるようになると、これからはピザをどうやって焼くんだろう。電気釜かな。それとも発生した二酸化炭素を回収するのかな。」と佐久間が専門家の杉下に聞いた。すると杉下は

「ピザ窯の二酸化炭素まで規制するようになったら味気ないね。でも過去には低温燃焼で発がん物質のダイオキシンが発生することが報告されて、家庭のごみを庭で焼却していたことも学校などで焼却炉を作ってゴミを焼いていたことも、一切禁止になって、大型のごみ焼却場で高温焼却するようになったのは、この事とよく似ているかもしれないね。温暖化が進み海水面が今よりももっと上昇し、太平洋の島々が水没して、さらに100年に一度の大洪水が毎月のように起こるようになったら、ピザ窯の二酸化炭素も規制しなくてはいけなくなるかもしれないね。そうならないように、科学的に温暖化を止める方法をいろんな分野で研究しているんだけど、その一つがゲノム編集で遺伝子操作した、光合成に特化した稲や小麦などを作るプロジェクトだよ。」と話した。じっくりと杉下の話を聞いていた佐久間は

「温暖化の進み具合は危機的な状況まで行っているのかしら。専門家会議ではどう分析しているの?」と聞くと杉下は

「そろそろ大変なことになるかもしれないと言われているよ。シベリアやカナダ、アラスカなどの永久凍土にはかつて温暖化が進んだ時に地球上に増えすぎた二酸化炭素が、メタンハイドレードとして凍った形で埋まっているんだけど、温暖化で冷帯の永久凍土が解け始め、湿地帯の沼の底から二酸化炭素が随分出てきていると言われているんだ。これが本格的に溶け出てしまうと、二酸化炭素量は現在よりも飛躍的に増えてしまうんだ。最後の氷河期になる前にも、大量の温室効果ガスである二酸化炭素が、地球を覆っていたんだけど、何らかの作用でメタンハイドレードに変化して、海中や地中に固形化されたらしいんだけど、それが一斉に解け始めたら、人類の最後かもしれないね。」と物騒なことを話してくれた。


 恐ろしい話を聞いて顔色が青ざめてきたところにパスタが運ばれてきた。

「難しい話をしているけど、とりあえず海鮮パスタを食べて、平和な気持ちになってください。」と言いながらマスターがペスカトーレを2皿出してくれた。気が重かったが佐久間美佳はトマトソースに海鮮としてイカやタコ、ムール貝、魚はタイを使ったソースたっぷりのパスタを食べるために、フォークとスプーンを両手に持った。最初にイカをスプーンですくって食べてみた。トマトソースの酸味と魚などから出た出汁が効いている。

「マスター、美味しい。マルセイユで食べたブイヤベースを思い出すわ。腕を上げたんじゃない。魚介のうまみがあふれ出てる。」と佐久間が感想を述べるとマスターは

「美佳ちゃん、お世辞が言えるようになったんだね。年齢を重ねたってことかな。」

「年の話はやめてよ。まだ結婚する気はあるんだから。」と佐久間が言うと、杉下はスープをすくっていた手を止めて、佐久間美佳の方を見つめた。佐久間も杉下を見つめて『あなたがぐずぐずしてるからよ。』と言いたかったがその言葉を咄嗟に飲みこんだ。

 しばらくするとマルガリータピザが運ばれた。チーズとバジルのシンプルなピザだが人気のメニューだ。パスタの手を止めてピザを手にとって、チーズが落ちないように気をつけながら口に運ぶ。ピザ窯から出て来たばかりのチーズがとろけた、熱々のピザは何とも言えないおいしさだ。思わず2人の笑顔がこぼれた。おいしいものは心を豊かにし、ストレスを解消してくれる。さっきまで話していたピザを焼くときの二酸化炭素の排出規制については忘れ去っていた。


 食後のコーヒーを飲み終えるとマスターに

「ごちそうさまでした。また2か月後くらいに来るかも。遠距離だから月1回しか会ってなくて、若狭と京都を交互に行き来してますから、また京都に来た時に寄ります。」と挨拶した。マスターは

「美佳ちゃん。研究頑張ってね。地球温暖化対策のために若狭に行ってるんだろ。話聞いてれば大体分かるよ。杉下君と力を合わせて地球を救ってくれよ。俺たちがピザを焼くときに大手を振って薪を焚けるようにしてくれよ。」と言って送り出してくれた。

 この界隈の道は風情がある。北白川は並木道が美しく、おしゃれなお店が多い。住宅街も閑静な高級感があり、京都の奥座敷と言ったところだ。周りの雰囲気を散策しながら、再び研究室に戻った二人だった。杉下の部屋は准教授の部屋として与えられたもので、個人利用だが実験施設やコンピュータなどが置かれ、助手や研究員も頻繁に出入りして、一緒に実験や作業を行っている。この部屋に置いてある電子顕微鏡は、文部科学省の補助金で購入した最新鋭のもので、遺伝子レベルの繋がりが確認できる優れものだ。

「ゲノム編集で光合成に特化した稲や小麦を作るって言うのは、理屈はわかるんだけど、実際にはどんな風にするの。」興味本位で顕微鏡を覗き込んだ佐久間が、杉下に問いかけた。

「先月、福井へ行った時に、君もジュラシックパークの話をしていたよね。遺伝子を分子レベルで解析するんだけど、最近の研究で分子レベルのはさみが開発されたんだ。電子顕微鏡でしか見られないはさみなんだけど、光合成の能力の異常に高い植物の遺伝子、つまり特別な能力を持った植物のDNAのらせん構造の並びの一部分を、このはさみを使って切り離し、繁殖能力の強い植物のDNAの同じ部分に張り付ける。ほら、そこに説明に使う図が張ってあるだろ。そんな作業を電子顕微鏡でのぞきながら、プレパラートの上で行い、そののちにそのDNAを持った細胞を発芽させて、様子を見る実験を繰り返しているんだ。」

そこまで話しながら、杉下は日本環境会議に提出した補助金申請書の一部を見せてくれた。この補助金で目の前のこの巨大な電子顕微鏡を、自分の部屋の中に設置したのだが、遺伝子を切り貼りするという高度な技術だが、神の領域を侵すことになりかねないことも確かだ。佐久間美佳は

「すごいことだという事は認めるわ。電子顕微鏡を使って分子レベルのはさみを使うなんて理学分野の進歩というよりも、機械工学系の進歩が手助けになったのね。」佐久間は杉下の部屋の中に貼ってあった説明図を見ながら信じられないというような表情で聞いていた。

「そうだよ。異業種の交流チャンスがあって、それも政府系の会議だったんだけど、そこで大手の医療機器メーカーが開発に着手している話を聞いて、合同研究を持ち掛けたんだよ。」と言うと佐久間は

「ゲノム編集のプラス面は十分に分かるけど、マイナス面の対策は十分なの?」と科学者の目で問いかけた。遺伝子操作して生産されたクローン牛や、遺伝子操作されて病気になりにくくなった大豆など、もうすでに動物も植物も農業分野でゲノム編集は利用されているが、この技術が人間に応用されないように、倫理面で統制はされているらしい。しかしゲノム編集で一部の面の能力を高めた結果、他の面で思いもよらない弊害が出ることは想像できる。そこで佐久間美佳は

「映画の世界なんかでも警鐘を鳴らしているけど、遺伝子操作で生まれた繁殖能力に優れた動植物が、研究者の想像を超えて異常なほどに繁殖して地球を覆いつくして、人類を破滅させてしまうようなことは起こらないとは限らないわ。その対処法は考えているの?」

痛いところを突かれた杉下だった。人類を救うために二酸化炭素を減少させることだけに注目して進めてきた研究だったので、目的の品種が出来てから考えようと思っていた。ジュラシックパークの中でも、崇高な理想の元に開発された技術だったが、一部の人間の欲望やヒューマンエラーで恐ろしい事故が起きてしまう。出来上がった植物の管理体制は今の研究室のセキュリティーで対応できると言えるだろうか。

「そこをつかれると返す言葉がまだ見つからない。私たちが目指す光合成に特化した稲や小麦は、完成すれば1年のうちに全世界で一斉に植え付けることが可能だろう。杉や松などの樹木だったら成長するのに何年もかかるし、植林作業は何年もかかってしまう。温暖化の急激な進展には、世界中で栽培されている稲や小麦で対応する方が向いていると思う。しかしこの情報が農業関係のブローカーなどにつかまれたらどうなるだろう。世界中の種もみを生産している企業的農業の関係者は、うちの研究室を襲うかもしれないし、その技術を手に入れて、世界中に独占的に売り出そうとするかもしれない。セキュリティーの整った研究室で開発作業をしなくてはいけないかもしれない。でもそのためには予算が必要となってくる。難しい問題だ。」と頭を抱えてしまった。でもその様子を見た佐久間美佳は

「あなたが開発のリスクを理解してくれていることを聞いて少し安心したわ。私たちの研究開発は大きな希望もあるけれど、その裏には危険もあるのよね。ダイナマイトを発明したノーベルは、ダイナマイトが戦争に利用される様子に心を痛めたのよね。そのことを忘れないためにノーベル賞の基金設立に動いたのよ。科学は平和のために利用されるものであって。ゲノム編集も、そんなことにならないようにしないとね。」と言って杉下を励ました。

 その後、電子顕微鏡で遺伝子の様子を見せてもらい、電子はさみで遺伝子を切る作業の様子も見せてもらった。電子顕微鏡で見える映像をモニターにつなぎ、大きなモニターで観察させてもらえた。電子のはさみで切り離したところに、別の遺伝子から切り取った分子の配列をつなぐ作業では

「これで繫がったと言えるの。おいてあるだけじゃないの。見た目ではつながったように見えていても、つながっていなかったら、遺伝子異常の稲が出現してしまうことになりそうよね。動物だったら片足になったり、耳がなかったりになりそうよね。大丈夫なの?」と心配すると

「発芽させてみて、失敗していたら、その遺伝子は廃棄するんだ。毎日失敗の連続だよ。失敗したものを世に出さないように、気をつけないとね。」と気を付けていることを強調した。


 研究の様子を見せてもらい夕方になったので、佐久間は一旦ホテルに入った。四条河原町に近いビジネス街に位置する大きなホテルを予約していた。世界中から観光に来る外国人の多くが京都を訪れる。インバウンドの増加に会わせて京都の国際的なホテルの建設は増え、高層建築の有名ホテルが林立している。チェックインしてルームキーカードを手にして28階の部屋に入った。杉下との食事の時間まではまだ1時間もある。佐久間美佳は杉下が所属している日本環境会議についてネットで調べてみたくなった。部屋はWi-Fiが整っているがネットのスピードはやや物足りなかった。しかし大きなデータをやり取りするのではなく、ホームページを閲覧するだけの事なので我慢することにした。

タブレットを使って日本環境会議のホームページを調べてみて驚いたのが、構成メンバーが学者だけではないことだった。最初のページで総理大臣と会議の議長の環境省大臣の挨拶文が写真と共に掲載されている。国連主体で世界環境会議が構成され、それぞれの政府で国単位の環境会議が設立されているからなのだろう。次のページには構成メンバーの紹介がなされ、経済界を代表して経団連の会長、政治家を代表して民自党と民主党の政治家、環境関係の企業の代表、そして各種の研究分野から多数の大学研究者が集められている。杉下もその中の一人のようだ。総勢30名近くに名前があげられている。印象からすると、多数の研究者の考えを政財界の大物たちが束ねながら、目を光らせている印象を受けた。

 政府系の研究会議は国民からすると結果ありきで、政府の意向に沿うような結論を最終的には出す筋書きが決まっているように見えてしまう。原子力規制委員会が40年過ぎた原子炉を、点検結果が良好ならば、60年まで延長できるとした決定も、結果ありきの判断だった感は否めない。コロナに揺れた感染防止委員会も、途中から経済優先という前提が学者たちの意見を拘束し、政府関係者の意見が前面に出て来てしまった。

「日本環境会議は経済優先が前提になっていて、経済界の意見が優先されているのでは、地球の温暖化のスピードに対応できないかもしれない。また環境保全を食い物にして、独占を企てる企業も現れてくるだろう。」

そんな思いを描きながらタブレットの画面を閉じた。


 時間は6時を過ぎ、杉下が迎えに来てくれる時間が近づいてきた。35歳の大人の女性が月に1度のデートに出かけるのだが、佐久間の洋服はとてもふさわしいとは言いかねるものだった。コットンパンツに白いポロシャツで、鏡に向かって最後の化粧をしようとしていた。しかし鏡に映る自分の姿を見て『20歳の頃と変わってないな。』と感じた佐久間は、スーツケースから大きな襟でシルキーなシャツを出して着てみた。すると下のコットンパンツと合わないので、黒っぽいロングスカートを合わせることにした。ようやく年相応のシックな様相になった感じがした。胸元のボタンを2つ開け、少しだけセクシーさを出そうとした。高校時代には童顔の愛らしさから男子生徒の人気もあったが、大学では子供っぽいと言われ、恋人候補というよりも妹的な存在で、同じ高校出身の杉下以外は言い寄ってくる学生はいなかった。しかし35歳になり周りのみんなが適齢期から大人へと成長していくと、彼女のようなベビーフェイスは劣化を感じさせない魅力があると感じてくれる男性もいるようだ。

 待ち合わせの6時半にロビーに下りると杉下はソファーに座って携帯をいじっていた。

「お待たせ。待った?」佐久間が小走りに近づいて行くと、杉下は驚いた表情を見せた。いままであまり見たことのないロングスカートに胸元を大きく空けたシルキーなシャツ姿の妖艶さがベビーフェースの顔とのギャップを感じさせ、何かを期待させたのかもしれない。

「いや、ついさっき来たところで、今、君にメールを出そうとしていたところさ。」と平静を装っている。杉下も既に准教授であり、日本環境会議にも選ばれた有名な研究者である。身だしなみには気を付ける立場にあるので、きちんと紺系のスーツで決めている。

「今日はどこへ連れて行ってくれるの。」と佐久間が聞くと

「祇園の料亭を予約しているよ。行こうか。」と言って佐久間をエスコートして、エントランスに出ると、止まっていたタクシーを呼び乗車した。祇園までは四条河原町の交差点を左折して、鴨川を渡ると祇園である。タクシーは祇園四条近くで左折して細い道に入り、小料理屋の前で停まった。二人はタクシーを降りると『割烹坂本』と書いてある暖簾をくぐった。明るい店内は木彫のカウンター席と奥に小上りの座敷があるようだ。杉下は女将に挨拶するとカウンターの席に案内された。佐久間も後に続いて隣に座るとカウンターの奥から大将が挨拶した。

「これはこれは杉下さん。いつも御贔屓にしていただいて有難うございます。今日はきれいなお方とご一緒で。よろしゅうございますね。どうかお好きなものを何でもおっしゃってください。」と好みに合わせることを言って来た。女将さんも

「いつも男の人ばっかりでいらっしゃるのに今日はどちらの方ですか。ご紹介してくださいよ。」と一見さんお断りの店らしく、ゲストの佐久間のことを聞いてきた。

「こちらは三年前まで同じ研究棟で働いていた佐久間美佳さん。いまは福井の年縞博物館の研究員さんだよ。僕の彼女だよ。よろしくね。」と紹介してくれた。すると女将は

「お付き合いなさってる方ですか。福井と京都じゃ、遠距離で大変ですね。でも私たちのようにいつも一緒にいるより、時々会う方が新鮮でいいかもね。」と大将の方を見てにやりと笑っている。大将は

「福井の方ですか。年縞って言うと若狭の方ですね。いつも美味しい魚を食べてるんでしょう。今日は気合を入れて作らないと満足してもらえませんね。」と自らハードルを上げている。

 京都の懐石料理は伝統があり、手の込んだ造作がされていることが有名だ。素材の味を生かしつつ隠し包丁を入れ、だしを染み込ませたりして手が込んでいる。量より質にこだわる料理なので、若い男性よりも年配の人や女性に好まれる。お酒は食前酒としてビールから始め、途中日本酒を飲み、最後はワインでしめる計画だ。料理は前菜に鯵と大根の酢の物、刺身は白身を中心にきれいに盛り付けてあり、肉料理は一口サイズのステーキ、煮物は山陰産ののどぐろ、汁物はハマグリ、ご飯はお味噌汁と京名物の漬物が数種類出た。佐久間はどれもこれもその美しい盛り付けに感嘆の表情を浮かべ、満足して食事を終えた。あとはデザートにオレンジのシャーベットが出るだけになったところで、少し酔った佐久間が

「環境会議の時にも料亭とかへ行くの?」と聞いた。杉下は

「全員で行ったのは最初の時だけだったかな。人数が多いから。でも次からは分科会ごとに分かれて誘われることが多いよ。」と答えた。佐久間は興味津々に

「どんな人と分科会を組んでるの。」と問いかけた。

「ゲノム編集関係だよ。稲や麦の遺伝子操作をする人と、杉などの大きな木の遺伝子を操作してエリートツリーと呼ばれる苗木を作ろうとしている人たちのグループさ。だから大学の研究員もいるけど企業で研究している人もいるし、企業の経営者もいるよ。」

「どんなところで食事するの?」

「そうだな、霞が関の環境省で夕方まで会議して、そのまま赤坂のホテルが多いかな。神楽坂までタクシーで行ったこともあったよ。」と楽しそうに答えた。

「企業関係者と飲むときは気を付けてね。企業の場合は温暖化への対策で地球に貢献することも目的かも知れないけど、自社の開発した品種が温暖化対策に採用されると、独占的な契約を結ぶことになるわよ。コロナの時のアメリカの製薬会社は人類の危機を救ったかもしれないけど、莫大な利益を生んだことも確かだわ。あなたがそんなことに巻き込まれてほしくないわ。」と釘をさしてきた。

「わかってるよ。環境会議の冒頭で、『スパイに気を付けるように』というお話もあったさ。恐ろしい世界だなと感じたよ。」と現実の世界の生々しさも語った。

 デザートを食べ終え9時過ぎに祇園を出ると、タクシーで佐久間のホテルに向かった。しばらくぶりでデートをした2人はこのまま別れることもできず、佐久間の部屋の前までついて行った。佐久間が部屋のドアを開けると杉下の方を見て

「寄っていく?」と聞いてくれた。杉下はその言葉を早く聞きたかったが、部屋の前まで切り出せずにいた。

「もちろん、寄っていくよ。」と答えると部屋に入りドアを閉めた。するとすぐに佐久間の手を取り引き寄せ、ドアに背を向けさせるとそのまま抱きしめてキスをした。ドアと杉下の体に挟まれて身動き取れない佐久間は、杉下の動きに身を任せてキスを楽しんでいた。


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