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秘密の花園

作者: 薫野みるく

 母の部屋は、玄関を入ってすぐの左手側にあった。

 個室のドアはいつも開け放されており、正面に立つと大きなグランドピアノが視界いっぱいに広がって、それはいまにも鮮やかな音色を奏でそうそうなほどの存在感をもって、由香を魅了する。


 ベッドからはやさしい母のにおいが舞い、鏡台の上には、マニキュアや口紅などの小物が置かれているが、そのいくつかはフローリングに散らばっている。これはおそらく、ジャミラの仕業だろう。

 そういえば、学校から帰ってから、ジャミラを見ていない。リビングのソファにも、自分の部屋にも、ここにもいないということは、お風呂場でお水を飲んでいる時に、祖母が間違えて戸を閉めてしまったのかもしれない。


 ジャミラの無事を確認しなきゃ。由香は急いで部屋を出ようとしたが、なぜだか足が思うように動かず、気づくと母の本棚の前に来ていた。先日、訪れた時とおなじ、カラフルな背表紙の本たちは美しく列をなし、由香にまた読まれるのを待っている。


 いやな予感がした。恐怖と緊張に手は震え、本を落としてしまうのではないかと冷や汗をかいた。


 それでも由香は、この本を読まなければならない、使命感のような感情をおぼえ、次々とページをめくっていった。




 由香が言葉を話し始めたとき、母親の亜希子は、由香のそばにいなかった。由香の教育や身の周りの世話は、由香の祖母にあたる自分の母親に任せ、亜希子はというと、自分の作品作りのために、アトリエにこもりきりになっていたのだ。


 由香が生まれたばかりの頃は、家とアトリエを往復し、完成した絵を路上で売るなどしていたのだが、ある日突然、美術館の館長に声をかけられてから、安定した仕事が入るようになり、毎日自宅へ帰るのが難しくなっていく。


 そして館長の勧めで、アトリエの近くのアパートに部屋を借りた亜希子は、まだ小さな由香としばらく別居する覚悟を決め、ただひたすらに絵を描いた。

 自宅まではそう遠いわけではなく、その気があれば帰れなくもなかったのだが、数ヶ月、数年と、年に何度かしか由香に会えない日々を過ごすと、次第に怖くなった。


 もう由香には、母親はいらないのではないか。由香に嫌われてはいないだろうか。由香を、家族を守るために仕事をしているのに、亜希子は自分が絵を描く理由を見失いかけてしまう。

 そんな葛藤を抱えつつも、やっと画家として成功を収め、亜希子が家に戻るとき、由香は小学二年生になっていた。テストはいつも八十点以上で、クラスで飼っているメダカに進んでエサをあげたり、友達の相談に乗ったりと、聡くやさしい女の子に成長していた。




 由香が小学二年生、七歳の夏休み、亜希子と一緒に暮らすための引越しをした。

 由香が生まれて間もなく、夫と離婚した亜希子は、実家で独り暮らしをしていた自身の母親を呼び寄せ、一時は三人で生活をしていた。その後、間もなくして亜希子は絵の仕事に集中するために、家を離れてしまうのだが、約六年の時を経て、ようやくまた家族としてやり直せるときが巡ってきたのだ。


 由香は、大好きなおばあちゃん、そしてママと暮らせるととても喜び、学校が変わることにも何も言わなかった。


 その年の由香の誕生日には、事前からサイトで予約していた保護猫をプレゼントし、亜希子は由香と離れていた月日などなかったように、仲のいい親子として楽しい毎日を過ごし始めた。

 才能を認められたおかげで、追われるように絵を描く必要もなくなり、だがイメージが沸いた時には、アトリエに入り浸る日もあった。


 由香は、ジャミラという友達が出来たおかげで、亜希子がいない日にも寂しさを忘れ、また母を芸術家として認めてもいた。亜希子の描く絵は、抽象的なものがほとんどだったが、そのどれもが生命力に溢れており、幼い由香にも、そのがむしゃらに生きようとする情熱が伝わったのだ。


 由香は、亜希子の描く絵を、世界を好きになり、だからジャミラと二人でお留守番も難なく出来た。そして由香の運命の扉が開かれたのだった。




 昔のように、アトリエに泊まる日はなくなったものの、亜希子の帰りが遅く、由香は待ちきれずに寝てしまうという夜も少なくなかった。

 昼間はほとんどの場合、由香の祖母である都美子が家にいて、由香の学校の宿題をチェックしたり、食事の支度をしたりと面倒を見るのだが、たまに由香が学校から帰るときに、買い物に出てしまっている場合がある。そうすると由香は、都美子が戻るまで、家の前でただ待っているしかなく、そういったすれ違いを防ぐために、合鍵を持つようになった。


 知らない人について行っちゃダメよ、下校時には名札を外すのを忘れないで、とは、家でも学校でも言われているが、事件はなにも通学路だけで起こるわけではない。

 住んでいるマンション内であろうとも、変質者や異常者が入り込む可能性は充分にあり、小学生が一人で自宅前にいては危ないのだ。


 家族三人で再スタートを切って何ヶ月かのうちに、由香が家に一人でいる機会が数回あった。だいたいが都美子が夕飯の買い物に出掛けたほんの一時間程度で、その間、由香はジャミラと遊んだり、予習復習をしたり、漫画を読んだりして過ごした。


 だがある日、都美子が夕方五時半を過ぎても帰らないということが起こり、心配になった由香は、すぐに亜希子に電話をかけた。今どきの機器は使い方が難しいと言って、都美子は携帯電話を持っていない。


 その日もアトリエで、絵の仕上げにかかっていた亜希子は、「七時までにおばあちゃんが帰らなかったら、また電話して」と由香に告げ、大丈夫よと励ましてから短い通話を終えた。

 由香は、いつも七時ぴったりに食べられるように、ごはんを作ってくれる都美子の帰りが遅いのを不安に思ったが、母が大丈夫と言うのだから、まずはそれを信じようと思った。


 そして時刻は六時半すぎ、ジャミラは遊びつかれて寝てしまった。ソファの隅で丸くなるジャミラに寄り添い、そのふわふわの毛皮を撫でていた由香は、トイレに行こうと立ち上がった。


 リビングを抜けて廊下に出ると、すこし奥まった位置にあるトイレのドアを開ける。すぐに用を済ませてトイレを出た由香は、ふと自分の右側に視線を移し、亜希子の部屋の入口を見つめる。


 亜希子は由香に、自分の部屋に立ち入るのを禁止してはいなかったし、興味があるなら、何を見て、さわってもいいと思っていた。

 ただ、由香の方はというと、母と一緒に部屋に入ることはあっても、その本人がいない時に黙って一人で侵入するのには抵抗があり、それでいままで見て見ぬふりをしていたのかもしれなかった。


 ずっと離れて暮らしていた母を、恨む気持ちはない。その時はお金もなく、母が絵を描き続けなければ生活出来なかったわけだし、いま三人と一匹で幸せなのだから、過去を振り返っても仕方がない。

 由香は、母を否定する目的ではなくもちろん好意的に、それほどまでに母を狂わせた「芸術」とは何なのかを知りたくて、ついにその空間へと足を踏み入れた。



 ピアノ、ベッドなどの大まかな位置関係は、もちろん記憶があった。迷わずピアノの前へと歩を進め、蓋を開けて鍵盤をいくつか叩いてみる。音楽の授業で教わった、レの音とラの音だ。


 亜希子は、由香とおなじ年のころ、ピアノや絵画、バレエ、演劇など、いくつもの習い事を経験していた。

 由香は、亜希子がなぜ、その中から絵画を選んだのかと不思議に思って訊ねたが、母の答えは、「よくわからない」だった。


 そして由香は、以前亜希子に見せてもらった、ドラクロワの画集をもう一度見てみようと思い立つ。

 幼稚園生だったあの時とは、また違った印象を受けるだろうと、振り返って入口横にある母の本棚を見上げた。


 近づいてそれを前にすると、ちょうど自分の目線の高さに、たくさんの本が並んでおり、由香は背表紙に記されているタイトルを眺めた。


 小学二年生の由香が読めるのは、ひらがな、カタカナ、そして画数の少ない、やさしい漢字だけだ。「カサブランカ」「まんまる」など、いくつかのタイトルは読めたものの、意味のわからない単語が山のようだ。

 大半は、自分の読めない漢字が連なっており、由香は改めて、大人はすごいと思った。母も祖母も、字がいっぱいの本をたくさん持っていて、色んなことを知っているのだ。

 自分もいつか、そういう大人になれるだろうか。字の本は、いつから読めるようになるのだろう。


 そう考えながら、本を手に取っては戻し、また別の本を読みと、目移りしていた由香は、字の本に紛れて漫画があるのを発見した。


 タイトル、作者名共に難しい漢字で、一文字も読めないが、表紙中央には、可愛らしい少女が微笑む姿が描かれている。その月の少女漫画誌もほとんど読み終えていた由香は、少女漫画と疑わずに、わくわくとその本を開いた。


 出だしは、表紙の少女が歌を歌っているシーンだった。花畑でシロツメクサの花飾りを作り、それを小動物の頭にかぶせてスケッチをすると、暗くならないうちに家へ帰る。家には母親の姿はなく、やさしい父親が笑顔で出迎えた。


 階段を上がって二階の自室に入った途端、それまで明るかった少女の表情が恐怖に引きつった。そこには、タンスの中から、少女の下着を盗もうとしている泥棒がいたのだ。少女は大声をあげそうになるが、間一髪のところで男に口を塞がれ、首筋にナイフを突きつけられる。男は、「言う通りにしないと殺す」と低い声で脅す。少女はコクコクと頷き、言われるままに服を脱ぎ、身体をくまなく観察される……。


 由香は慌てて本を閉じた。


 これは何? これは漫画なの? なぜママがこんな漫画を読んでいるの? ママは何者なの?


 「変態」という言葉もまだ知らない由香だったが、それが子供が見るべきではない、見てはいけないものだとは直感的にわかり、ひどく動揺した。


 こわくて、きもちがわるい本。表紙の絵だけで、少女漫画と思い込んだ自分にも非はあっただろうが、由香にとっての問題は、なぜそんなものを母が持っているのかということだった。


 おそるおそるもう一度開き、少女がそれからどうなっていくのかを、由香は祈るような気持ちで見守った。

 男が少女に暴力を振るう描写は一切なく、少女は命令に従って、自らの意思で服を脱いだり、脱いだ下着を相手に手渡すなどしている。恐怖と羞恥に少女はすすり泣き、小さな身体を折り畳むようにして、男のねちねちとした視線から逃れようとする。



 ページも残りわずかというタイミングで、玄関のドアに鍵が差し込まれた気配がし、由香は急いでその本を本棚の元あった場所に戻すと、笑顔で都美子を出迎えた。

 忙しい亜希子に代わって、PTAの活動に参加している都美子は、急な集まりに時間を取られて、遅くなってしまったのだという。「すぐにごはんの支度をするからね」と、由香に微笑みかけ、都美子はまず洗面所へと進んでいく。

 家族の留守中に母の部屋に入り、あろうことか大変なものを見てしまった罪悪感に胸を痛めつつ、だが由香は、なんとかしてあの本の結末を見届けられないかと、子供ながらに思考を巡らせるのだった。



 それは、思ったよりも早い段階でやって来た。はじめて母の部屋に一人で入ったその一週間後、学校から帰ると、また家に誰もいなかったのだ。


 先週は、連絡も出来ずに心配をかけてしまったと思ったのだろう。リビングのテーブルには都美子からのメモが残されていた。駅前のデパートの中にある美容室まで、髪を切りに行ったようだ。


 由香は、この願ってもないチャンスを無駄には出来ないと、ランドセルを学習机の上に置いてすぐに亜希子の部屋へ向かう。数歩立ち入ってすぐに左を向き、迷わず本棚の前に立つ。


 例の本は、下から三段目の中央付近にある。先日、読んだページまでは飛ばし、続きからまた、少女が早く解放されることを願って読み進めた。


 そんな由香の祈りも虚しく、少女は、命だけは保証するとの約束につけ込まれ、エスカレートしていく男の要求に応え続け、最終的に部屋の真ん中でした大便を、男にくっちゃくっちゃと音を立てて食べられてしまった。


 由香は、なんとも言えない気持ちで本を閉じた。それは、現実に起こりうる世界。登場人物全員が特殊能力を使えたり、異世界に飛ばされたりという、何でもありのファンタジーとはわけが違う。こういう小児性愛者の変態は現実に存在するし、被害者だって近くにいるかもしれない。


 由香は、自分が流した涙が何を思ってのものなのかわからず困惑したが、同時に「子供が見てはいけないもの」をいま、私は見ているんだという興奮をもおぼえ、静かに目を閉じてそれに浸った。言うまでもなく、このときこの瞬間が、由香の性への目覚めだった。




 それから由香は、家族の留守のたびに亜希子の部屋に入り、あらゆる本を手に取った。先日の漫画の他にも、同作者のものがいくつかあり、その本の中では、美しい少年が、これまた少年を裸にしてなぶっていたり、また別の本では、女の腹が裂かれて内臓が露出していたりと、小学校低学年生が見るにはショッキングな内容ばかりだった。


 幸運にも、亜希子も都美子も、朝から出掛けてしまうという日には、集中するために亜希子のクローゼットの中に忍び込み、懐中電灯を点けて薄暗い空間で夢中になって本を読み漁った。


 世界の死体写真集、責め絵、少女の性器にスポットを当てたイラスト集など、それがサブカルチャーと呼ばれるものであると由香が知るのは、もうしばらくあとのことだ。そして由香が、亜希子のコレクションをくまなく読み尽くしたその日、由香は九歳になった。



 由香は夢を見ていた。下校時、クラスで一番仲良しの真理ちゃんと角で別れ、もうじき自宅マンションが見えようかという時だ。

 三十代半ばだろうか、黒い服を着た男に「お母さんが倒れて、病院に運ばれたよ」と声をかけられ、ユカは信じて付いていってしまう。


 ああ、だめだよユカ。知らない人の言うことを間に受けちゃだめ。そっちへ行っちゃだめ……。


 由香の意識は、夢の中のユカとは別次元にあり、本物の由香は、ユカを止めたい一心で念じ続ける。だが、気が動転したユカにそれは届かず、ユカは変質者の案内する廃病院の中へと誘い込まれる。


 やっと男の言葉が嘘だとわかり、ユカは走って逃げようとする。だが、あっさりと捕まったユカは、口をガムテープで塞がれ、両手首を後ろ手に縛られる。どうにかして助けを呼ぼうとするが、口に密着したガムテープは、ユカの声を小さく、曇らせるだけだ。


 いやいやと首を振り、涙を流すユカを、男は壁に磔の状態にする。そしてユカの服を上から順番に、ナイフで切りながら脱がし、持参したワンピースに着替えさせる。「ユカちゃん、かわいい。かわいいなぁ、かわいいなぁ……」そう言って男は、ユカの頬に舌を伸ばす。


 生温かい感触に視線を落とすと、右手首にナイフで切れた傷が出来ていた。抵抗したら殺されて、死体をばらばらに解体されて、自分はずっと行方不明のまま、亜希子と都美子は一生苦しみ続けるのだろう。


 ただすすり泣くしかないユカは、これがあの作家の描くシーンに似ていると気づき、恐怖を通り越して身体を熱くした。永遠に続くと思われた責め苦が終わりを迎え、ユカが再び地上に降り立つとき、ユカは男を憎んではいなかった。

 


 由香は母のクローゼットで目を覚ます。いま何時だろう、ママとおばあちゃんは帰ってないだろうかと焦った由香は、ドキドキと高鳴る心音の間を縫うようにして、耳を澄ます。物音、話し声は聴こえて来ないから、ひとまずは助かったようだ。たくさんの本と懐中電灯、時計を持ってクローゼットをあとにし、所定の場所に本を入れ直した。


 芸術家とは、いや、横山亜希子は、実の子の私から見ても、得体の知れない女だ。由香は母にそんな複雑な感情をおぼえつつ、廊下で出会ったジャミラをやさしく抱き上げ、頭を撫でた。




 大好きな祖母は、由香が二十三歳のときに癌で亡くなった。それから母との二人暮らしになって五年、由香はきっと死ぬまで絵を描き続けるだろう、亜希子の活躍を間近で見ては、あの輝きに満ちた日々を思い出す。



 昔、母の部屋のクローゼットは、異次元空間へと繋がっていると言われていた。幼い由香はそれを本気で信じていたが、あの自身の性を刺激される本を、しかも人の部屋で立ち読みする気には、どうしてもなれなかったのだ。ここに戻って来られなかったらどうしよう、もう二度と、家族に会えなかったら。

 由香は不安を抱きながらもクローゼットを押し開き、まるで自分だけの秘密基地のようにそこに座り込み、母の本を読み漁った。


 あの幼少期の経験から二十年。次の個展に向けて新作を考案中の亜希子に、由香は独り言のように言う。


「あのね、ママ。私ちいさいころ、ママのサブカル本をこっそり読んだんだ」

「知ってるよ」


 当たり前のように言う亜希子は、自分を見つめて楽しそうに笑っている。そして由香は思う。この人の子供としてこの世に生を受けて、本当によかったと。


「しまう位置が違ったり、カバーがずれたりしてたからね。すぐ気づくでしょう」

「え、なら、なんでその時に言わないの?」

「由香が隠したいみたいだったし、子供の意思は尊重しなきゃ」


 きちんと元通りになっている、大丈夫だばれないというのは子供の考えることで、当時から大人の亜希子には、お見通しだったわけだ。

 由香は、いまさら恥ずかしそうに頬を膨らませ、肩を竦めたあと、亜希子の正面に向き直ってから、自信のある、はきはきとした声で言った。


「ママ、私、子供のときにあの衝撃を受けてよかったと思ってるの。あれがなかったら、普通に結婚して子供を産んで、それもまたよかったのかもしれないけど、つまらない大人になってたんじゃないかな」

「ほうほう。では、どんな大人になれたんだい?」

「ママの絵を見て、涙を流せる大人、かな。いや、よくわかんないけど。何を言いたかったんだっけ」

「いっぱしに絵画なんか語っちゃってぇ。まぁ、次々に読んだってことは、由香にとっての通過儀礼だったのは確かなんじゃない?」

「……かな。じゃあ、先にお風呂入ってくるね。続きはまたあとで」


 由香が大人になった今では、亜希子のサブカル本は、共有スペースの本棚に収められている。由香はそれを好きとは言えないが、思い出したように手にとっては、空想の世界の広大さを、そう、まるで宇宙のような神秘を感じるのだ。

 母親と、母親のコレクションの洗礼を惜しみなく受けた由香の作品は、SNSを通じて、海外でも高い評価を得始めている。



 久しぶりにシャワーではなく湯船に浸かり、真っ白いバスタブに背を預けた。右腕を上げると、いつからか浮き出るようになった、謎の傷痕のようなものに指先を滑らせる。


 あれは、夢。こわいゆめをみたの。


 本の中でいじめられた少女たちも、いつか大人になるのだろうか。それともその世界で、傷ついた少女のまま生き続けるのか。


 腕を下ろして、わからないと首を振り、由香は白く濁った水面を見つめる。そしてそこに吸い込まれるように顔をつけ、口の端から幾多の泡を生み出しながら、ぶくぶくと沈んでいった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 子どもの頃に触れたものが人格形成に影響を及ぼすというのは、自分の経験を振り返ってみても、まさにその通りだなと思います。 自分で選び取ったもので、今の自分はできているような気がします。そういう…
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