無事是
「ただいまー」
コンビニまでお酒を買い足しに出向きそう言って帰ってきた時、少し驚いたような表情の怜がリビングの隅の方にいた。カーテンに隠れているハンナと戯れていたのだろうか。
「随分早かったね」
「行きは「走った」よ。結構本気で」
「ああ、そうだったんだ。なるほど」
話を聞いて感心したような様子の親友はトコトコとリビングのテーブルの所まで戻ってきて、そこに置いたお酒に早くも手を伸ばす。わたしもカクテルを一缶開けて二人でなんとなく乾杯。何故かそこからは完全に二人で走る事を前提の会話になった。わたしはまずこう問うた。
「走るとして、やっぱりシューズ買わないと。トレーニングウェアとかもだけど」
「そうだね。わたしも一揃いは欲しいな」
「怜は最近運動とかしてなかったっけ?」
「前に一度ジムに行ってたこともある。でもなんか世の中が『筋トレブーム』になって、本質的にわたしは身体を鍛えたいタイプじゃないってわかったんだよ」
「筋トレ懐かしいね。怜は華奢な方だから筋肉つきにくいって自分で言ってたね」
確かにこの年齢になっても怜はモデル並みにスラーっとしていて、テレビでマラソンランナーのほっそりした姿には及ばないものの、わたしのような平均的な体型からすれば羨ましいことこの上ない。でもこんなわたしの身体にはちょっとした特性がある。
「今でもほとんど怪我したことないんでしょ?」
怜が指摘する通り、わたしは練習中でも大会でも、その後の人生でもこれといった怪我をしたことがない。流石に筋肉痛はあるけれど、よっぽど丈夫に生まれてきたようで3年の時の大会前に一度骨折してそれでも無理を押して不本意な結果になった怜からするとそれも羨ましく思えるのも無理はない。まあそれも「昔のこと」だけれど。
「やっぱり『無事是名馬』なんだよ」
「それね」
今彼女の口から出てきた言葉は怜が競走馬、サラブレッドが好きなことに由来する。曰く「サラブレットはアスリートなんだ」とその走りをリスペクトをしていて、競馬の知識もそこそこあるUMAJOでもある怜から『無事是名馬』という格言の意味を教えてもらった時には詳しくないわたしでもなるほどなと思った。競走馬の4本の脚は生物としてはとても脆く、競争生活では常に怪我と隣り合わせだという。早くから活躍した馬もその怪我に泣かされて完全に能力を発揮できないまま引退することもある世界で、『無事是名馬』はある「理想」を表現したものだ。怪我をすることなく長く競争生活を続け成績を残してゆく。あるいは怪我に無縁で引退まで走り続けられること自体が、「名馬」とも言えるのではないか。そんな含蓄に富んだ言葉を自分達に置き換えてみると、わたしの怪我しない体質は怜にとっては理想の一つであるらしい。その言葉でわたしは褒められているのだけれど、玲のように2年生の時に結構すごい所まで行った派手な活躍と比べると、なんの実績もないまま、たまたま本調子じゃなかった怜に最後の大会で勝ったからと言って何になるのかよく分からない事もある。
「ランニング始めるんだったら、やっぱりロードレースとか参加する流れなの?」
これは一応怜に訊ねておきたいことだった。この返事次第では少し気が引けることも。
「いや、どうなんだろう。わたしはただ走りたい気持ちの方が強いね」
「そう。それだったら定期的に二人で近場を走るのでいいかな」
なんとなく心は決まった。それからだんだんお酒が回ってきて、お互いにうとうとし始めたので就寝することに。怜が寝付いたらしい事を確認してベッドで眠りに入る直前、何かが暗闇で蠢いて掛け布団の中にモゾモゾと入ってくるのが分かった。
…
…
「お姉ちゃん」
気が付くとハンナが喋っていた。やっぱりそれは夢の中で、お酒のせいかいつもより混沌とした夢になっていてどこかで見た中世の絵画の中に入り込んだような世界で、ハンナは何故か宙に浮いている椅子の上でわたしの方を見つめて何か言いたそうにしている。
「ハンナ。昨日はごめんね。怜が来るって分からなかったもんね」
たぶん自宅で急にパーティーなんかしたものだから、不満があるのかも知れないと思って先に謝った。するとハンナは、
「『あの人』にもらった『おやつ』とっても美味しかった」
と謎の発言をした。どういうことだろうと思って、
『『あの人』って怜のこと?もしかして怜から何か貰ったの?』
「おやつ【アレ】みたいだったけど、【アレ】じゃなかったの」
どうやら怜はハンナに『何か』を与えたようだ。【アレ】が類似品のことだから、それと似ている何かだとは思う。
『怜なんか言ってなかった?』
「アタシの方をニヤニヤ見て変な歌うたってた」
歌?どんな歌なんだ?残念ながらハンナが飽きてしまったのかこの夢からはこれ以上の情報は得られな勝った。最後、夢の中でちょっと苦手な上司が現れて「この報告書ね、○※▲」とかよく分からない話を始めたので流石に頭が痛くなって目覚めた。その頭痛は二日酔いの症状だったようで、寝起きに水を飲みにゆくと怜は既に起きてテーブルでスマホを弄っていた。
「あ、おはよう。早いね」
「なんかうなされてたね」
「頭がちょっと痛いかも」
「なるほど」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して口に含む。朝だから少し変な味がしなくもないような。ぼんやりしていたので夢の中のハンナとの会話を思い出して、
「そういえば怜、ハンナになんか変なおやつあげたんじゃない?コレみたいなの」
と何も考えずに訊ねていた。その時、冷蔵庫からあの類似品を一袋取り出して怜の方に掲げていた。すると怜は目を見開いて驚愕の一気に表情に変わった。
「え…?なになに?」
わたしはこの時、ハンナが夢の中で現実にあったことを報告できる能力があることをなんでもないことのように考えてしまっていて、それが事情を全く知らない怜にとってどういう意味を持つのか、全然考えていなかった。
「え…?この家、もしかして監視カメラでも付けてるの?どこどこ?」
怜は慌てた様子で立ち上がると部屋のなんでもない壁を見回り始めて「ない、ない」と呟いている。当然そんなものはこの家にある筈がないので、
「ないよ。監視カメラなんて」
呆れたように怜にいうわたしだったけれど、この辺りで怜の心境に気付いて焦り始めた。怜は、
「ないならどうやってわたしがこの「チュ○ル」を上げたこと気づいたの?香純がコンビニ行っている間にあげたんだもん。カーテンの前でひっそり…いや…そうだ」
と話している間に自信なさげになっていった。それから彼女は自分の持ってきたバッグの中から類似品の元となったあの猫用の製品を取り出し、わたしに見せる。その表情がとても困り顔で、彼女自信どうしてなのか説明して欲しそうな様子だった。




