夜に駆け
<あー、これも買っておこうか>
そんな具合に幾つかの商品を手に取りレジ籠に積み上げてゆくわたし。夕方頃にはわたしの自宅に来れるとのメッセージが今しがた入ったばかりで、場合によってはそのまま「泊まり」もあり得るのでなんとなく必要になるかも知れないミネラルウォーターを始めとしたドリンク類やインスタントコーヒーには手が伸びてしまう。そしてそのスーパーにはハンナに与えているキャットフードが揃っているのでこの機会に買い置きしておく。ちなみに液状タイプのおやつが「類似品」になってしまったのはこの店に置いているのがそれしかなかったから。
オードブルはそこそこ大きい容器のものを一つ選んだので良いとして、サラダくらいは自分で野菜を揃えて盛りつけた方が気が利いているような気がしていた。その場合に必要なドレッシング…怜はなんとなく「和風」の味を好みそうだからそれを選んでみる。親友の為とはいえ、我ながら結構甲斐甲斐しい気がするけれど、わたし自身が浮かれていたりもする。怜とは通っていた高校自体は近かったから同じ時刻の電車で一緒に通ったし、帰りも一緒になる事もあったけれど大学は全く別の場所だし、ここまで接近するのは事実上初ではないだろうか。卒業では「別れ」が強調されるものだけれど、ネットではずっと連絡を取り合っている関係の人もいるし、陸上部で一緒に青春の汗を流した怜については分かち合えたことが多すぎるからなのか心の繋がりはずっと感じている。怜もたぶん同じような事を感じているからやり取りが途切れなかったのだと思う。
会計を済ませてから持参のマイバックにはオードブルが少し大き過ぎたことに気付く。レジで専用の袋をいただいて、両手で荷物を抱える体勢。自転車で来たから別に良いのだけれど、流石に買いすぎたかも知れないと感じた。
☆☆☆☆☆☆☆
外が次第に黄色く染まり始めた頃、家のチャイムがなる。ちょうどハンナにご飯を与えているところだった。出迎えると、
「はい。どうも!」
とにっこり笑顔の怜が現れた。引っ越しを終えたばかりの疲労などは感じさせず、やはり元々体力のある女であるらしい。
「大変だったでしょ?」
「どちらかというと楽しかった。引っ越しのお兄さんも良い人だったし」
引っ越し業者さんと仲良くなったらしい怜だが、怜は異性に対しても元気よく話しかけるタイプなのでほとんどの人が好印象を抱くようだ。一体なんの話をしていたのかは分からないけれど、余計なことを話してなければいいけどと思う。
「『近くに仲の良い友人が住んでるんです』って説明したら、『それは良いですね!』って言ってくれたり」
案の定、うかうかと個人情報を漏らしてしまっていた。まあそのくらいなら構わないけれど。リビングで諸事情を確認してから、
「じゃあ少し早いけど、準備するから」
とわたしはキッチンに移動する。そのとき怜が、
「わたしも手伝おうか?」
と気を遣ってくれたけれど「ハンナと遊んでくれると嬉しい」とだけ。準備といっても、オードブルは出来合いだし、サラダとレンチンで済んでしまうようなもの。早くもカーテンの中に隠れてしまったハンナの様子を近くでじっと見守っていたらしい怜。早々に用意ができてしまったので呼び寄せて、そこからは前に怜が気になると言っていたアーティストのライブ映像などを流しながらあっという間に時間が過ぎていった。すっかり夜になったので、
「今日泊まってく?」
「そうさせてもらおうかな」
そんな確認をすると、
「実はさ、香純に一つ提案があるんだよね」
すぐに怜がこんなふうに切り出した。何だかそれが妙に真面目な表情だったから思わず身構えていると、
「一緒に走らない?」
と変なことを言い出した。意味を察りかねて、
「え…?今から」
訪ねたその問いに怜は「違うよ」と笑って、
「言い方が悪かったね。これから定期的に二人で『ランニング』してみない?って話」
「ランニング?」
「そう。わたし最近また走りたいなって思ってて、ちょうど堤防のロードってランニングにぴったりだし」
前に怜が堤防の事を訊ねてきたのはこの伏線だったのか、と気付く。社会人になってからは運動らしい運動をしていないわたしではあるけれど、走れと言われればまだ走れるくらいの体力はあるように感じる。ましてや怜とだったらモチベーションも上がる。そのときは、
「そうだね。確かにそれも良いかも」
に留めておいたけれど内心は二人で走るイメージが膨らんでいた。その後、
「あ、お酒まだ飲みたい?」
と冷蔵庫を中を確認して「チューハイとかはまだ飲みたい」という返事が返ってきたので近くのコンビニまで買いにゆくことに。怜にはハンナと一緒にお留守番をしてもらう。コートを羽織って外に出てみたけれど、ほろ酔い加減で風がかえって気持ちがいい。
<走ってみようかな>
当然ランニング用のシューズではないのだけれど、今の自分がどれくらい走れるのかちょっと確かめたくなった。ほとんど何も考えずにダッシュし始めて、最初に感じたのは足と身体の「重さ」。軽やかさはないけれどスピードは思いの外出ている。風を切って走ると、何かを思い出すような気がする。
<そうだ。この感覚。アスファルトを蹴る感覚>
アスファルトに押し付けられ反発した足が反射的に前に出てゆく。連続が推進力になって加速してゆく。紛れもなく自分の足が生み出したスピードではあるけれど、今はそのスピードを維持しようとすると何か違和感を感じてしまう。
はぁはぁ
幸いこの時間に道を歩いている人は皆無でコンビニまではなんとか息が続いた。でも現役時代とは全然違うという事を感じてしまった。たぶん、本当はこんなにいきなり走り出してはダメで、ちゃんと準備運動やストレッチがますます必要になっている身体なんじゃないだろうか。
はぁはぁ
それでも、走り終えて感じた懐かしくも「新しい感覚」は今だからこそのもののように感じる。あの時とは違う走り。どこかに行けそうな、そんな自由さがあった。




