ハンナの元に
こんな夢を見た。わたしは街中を走るバスに乗ってどこかへ向かっている。下車する人も居ないままほとんど同じスピードで運行しているせいか次第にうとうとしてくる。それでも目的地はまだだろうか、忘れないようにしなきゃ、とどこかで意識し始めるとバスが突然交差点を左折した。明らかに知らない通りに入り、
<あれ、こんな道通るんだっけ?>
と思っているうちに段々と焦り始めて右側の降車ボタンを探す。だがいくら探してもボタンが見つからず、おかしいおかしい、と思っていると急にバスが停まった。周りの乗客がゾロゾロと降車口に向かうのでわたしも流されるように立ち上がって前の方へ。そのままバスを降りるとそこは日本ではない場所のようだった。バスはそのまま道の先へ消えてゆき、一緒に降りたはずの乗客の姿はない。
『ここどこ?』
「おねえちゃん!」
『あ、ハンナ』
何故かハンナがバスの停留所で待ち構えている。流石に夢と気づき、
『何だか不思議な場所に来ちゃったね』
と半ば呆れるようにしてハンナに話す。周囲の淡い色合いに比べてハンナの色の解像度が高く、そのまま抱き上げるとほのかな温もりまで感じる。
『あたしここすき』
最初はてっきり胸に抱っこされるのが好きなのかと思っていたけれど、どうやら事情は違うらしい。ハンナはその外国の町ような風景にじっと見入ったまま静かにしている。ハンナの瞳とそんな表情を見ているうちにわたしの方も自分の夢に出てきた光景をじっくりと眺めてみた。そこは高台で向こう側には海が見える。建物はわたしの夢にしてはディティールがしっかりしていて壁の質感もリアルだと感じた。奥に広がる景色の中でも煙突のある赤い屋根のお家の形が不思議に見えて、それはまるで小さな頃に絵本で見たような姿だった。その家の扉が開いて一人の少女が現れたように見える。
その少女は幼い日のわたしとよく似ていたような気がする。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
7月某日。梅雨の合間の珍しく晴れたその日は外出にはうってつけ。自宅でソワソワしていたわたしの耳にチャイムの音が届く。玄関に現れた人物は如月陸さん。服装も薄手の半袖で段々と夏の装いに変わってきている。
「今日はありがとうございます。個展無事に終わってわたしもホッとしています」
「僕の方こそ香純さんには何かお礼をしなければと思っていたんです」
「ちょっと大きい買い物ですし、家具選びで失敗したくなくて」
「その気持ち分かります。僕も基本的に家具を見るのは好きなので何かアドバイスできたらと思います」
わたしはその日、陸さんと一緒に家具量販店に出向くことになっていた。目的の品は以前から欲しいと思っていた「アームチェア」。購入した場合に運んでこれないので配送してもらう流れにはなるけど、家具自体のサイズとか色合いとか、出来ればじっくり見て探したい。個展を終えて一段落というところでまだ色々と作業はあるらしいけれど、わたしの時間を優先してくれたことが嬉しい。
「ハンナちゃんは?」
「今猫ハウスで寝てます」
「え!可愛いだろうけど、行ったら起こしちゃうかもしれないですね」
「折角なので買い物終わったら戻ってきましょう」
「そうしましょう」
この日のわたしは積極的。陸さんが再び外に出ようとしたところで、
「あ、忘れてた!」
と言ってある物を取りに部屋に戻る。急いでバッグの中から取り出したのは茜音さんに貰ったアミュレット。その日はポーチだから忘れるところだった。首に通して身につけると陸さんが「それ素敵ですね」と言ってくれた。わたしはそのとき、少しだけドキドキしていた。移動中は個展を開いてみての感想とか、
一番人気があった絵は何だったかといった質問をしながらも、陸さんの表情とか仕草などをただずっと観ていたような気がする。陸さんもわたしのその視線に何かを感じたらしく、
「僕の格好変だったりします?」
と訊ねられたのは今となってはちょっとした笑い話。量販店に到着してエスカレーターで目的の階まで上って、正直言って久しぶりだったので勝手が分からなくて最初困惑した。陸さんが「こっちですよ」と誘導してくれなかったらもっと時間が掛かっていたかも知れない。店の中は家族連れも多く、それぞれ思い思いに欲しいものを見て廻っていて、時々「これ高くない?」などという声が聞こえたりすると何となく共感してしまう。陸さんに一応の予算は伝えてはいるものの多少オーバーしても構わない気持ちだった。場所を取る「アームチェア」は結構目立つところに展示されていた。高級そうなものから、比較的リーズナブルな物まで割と選択肢は多く最初は見ているだけだったわたしも、
「やっぱり座ってみないと分からないですよね」
とそれぞれの座り心地を確かめる。やはりというか、高いものの方がフィット感が高く、快適さも違う。ただ、わたしのイメージの中ではわたしの使用感だけではなく場合によっては「ハンナ」がそこに収まっているという光景もあると思い、その場合にはあまり大き過ぎない方がいいという考えだった。
「色的にはこの緑の色はオシャレですよね。ベルベットで結構丈夫そうに見えます」
「わたしのイメージにあったのはこういうのですね。値段的にはギリギリですね」
迷ってはいたけれど圧倒的に「安楽感」があるのはそのタイプの品で、座り心地も問題ないしハンナがそこに座っていても違和感がなさそう。
<どうしよう…>
困るような気持ちになってしまい、そのままの心境で再びそのアームチェアに腰掛ける。そのとき不思議な偶然が起こる。その時の店内のBGMが別の曲に切り替わり、聞き覚えのあるイントロが始まる。
「あ、この曲!」
「『Sound』ですね!」
陸さんも気づいたように、それは彼が『旅』というイラストのインスピレーションを得たあの曲だった。少し前にそのアーティストがテレビに出演したという情報もあり、曲の心地よさが次第に浸透しつつある。肩の力の抜けたボーカルの声が図らずもその体勢だったわたしにとっては「絶品」に感じられ、座り心地の良さと相まって一種の恍惚に。店の中でそんな心地になってはマズいと本能的に思い飛び起きたけれど、わたしの心はすっかりその椅子に取り込まれているのを感じた。
☆☆☆☆☆☆☆
「今日は天気に恵まれましたね。意外と早く決まっちゃったので、河川敷の前の広場行ってみません?」
アームチェアの購入を済ませ配送の手続きをして、都合を考えて午後に配送してもらうことにした。それから普段通る道まで二人で戻ってきても予定していた昼食まではまだ時間がある。
「いいですね。わたしも行きたいと思っていました」
「そういえば来ていただいた茜音さん、数日前ネットの記事になってましたね」
「わたしも読みました。新しい本を執筆しているみたいですね」
「いやー、最初に会った時にはオーラを感じました」
「わたしもですよ。わたしはあんな風にはなれないんだろうなぁって思ったりします」
そう苦笑したわたしの顔を何か言いたげな様子で見ていた陸さん。広場に到着した時、小さな子とその父親と思われる人がボールで遊んでいた。広場をゆったり歩いて、あの木の前で一旦立ち止まる。ここに来てその木を見上げると穏やかな気持ちになれるのは、思い出がそうさせるのか、もしかしたら「木の精」が見守ってくれているからなのかも。
そのタイミングで父親と思われる人が子供の手を取って河川敷の方へ歩いてゆく。わたしは「ここしかない!」と思い、胸にかけたアミュレットをしっかり握った。
「「僕と付き合ってくれませんか?」「陸さん、あの…」」
二人の声のタイミングが重なり、お互いに驚き合った。わたしは自分に聞こえた言葉が信じられない気持ちで、
「え…?陸さん今なんて?」
と聞き返してしまった。陸さんはバツが悪そうに「えっと…そのぉ…」と困惑している。ただわたしが聞いた内容に間違いなければ、わたしはもう迷う必要がない。
「実はわたしも今日陸さんに告白するつもりでした」
その時のわたしはどんな表情をしていたのだろう。陸さんは嬉しそうな表情を浮かべている。
「いやぁ、なんか、その…OKって事なんですよね?」
「そうですね。陸さんの方もOKって事ですよね?」
「はい」
確認し合ってからとりあえずしてみたのは手を繋ぐこと。そうしているうちに段々と喜びが溢れてきて、「この人で良かったんだ」という実感がやってくる。
「わたし陸さんのこと好きです」
順番は逆になってしまったけれど自分の気持ちを彼に伝えると「僕も香純さんのことが好きです」と言ってくれた。これからの二人の事を想像して、結構先の先まで自然に考えられたのは多分陸さんが相手だったからだろう。想像しているうちにわたしはある事に気づく。
「とりあえず、一度わたしの家に戻りません?」
「え?」
「ハンナに報告しなきゃ!」
「え?ハンナちゃん分かりますかね!?」
「陸さんが知らないハンナの秘密、もう秘密に出来なくなるかも知れないので!」
「どういう事なんですか?」
戸惑う陸さんの手を引っ張って家へと急ぐわたし。ハンナは今またあの青いカーテンの下にいるのかもなんて考えながら。ランニングで鍛えられた脚力と心肺機能が存分に活かされた日だった。
(完結)




