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ベンチに座り

わたし達はカフェを後にしてから地図で確認していたとある場所へ向かっていた。薄曇りの空は少し前よりも青が透けて見え、昼前のこの時間にもなると車も人通りも多くなってくる。移動中、前日の激しめのランニングによる筋肉痛はあったけれど、怜とは違って比較的ゆったりと歩く茜音に合わせていると視覚に余裕ができるのか街の中に色んな色を見つける。看板の白、クリーニング店のピンク、飲食店の黒、すれ違った男性の赤みがかった髪の色。それが当たり前と言えばそう。でもその一つ一つには何かの意味だったり理由がある。そして何より、そこから何を感じるのかも千差万別なのだろう。


<茜音さんは今、何を感じているのだろう>


そう心の中で思ったことは訊ねてみても良かったのかも知れない。ただ、しっかり前を向いて目的地へ進んで行こうとしているかに見える彼女の表情に、わたしは少し見惚れてしまっていたような気がする。


「どうかしましたか?」


「いえ、もう少しで到着すると思いまして」


できれば屋外が良いと思っていた。果たしてイメージしていた通りの空間が辿り着いた場所に広がっていた。そのまま「広場」と呼ぶに相応しい、憩いの場。手前に芝生の面、そして奥に木々が植わっている広々としたそのスペースには、既にちらほらと人の姿が見える。それは子連れであったり、何かの運動が目的であったり。



「とてもいいところですね。気のせいか空気が美味しいような気もします」


茜音さんのその感想に同意するように頷いて、


「こういう場所もあるんですね。奥の方に行ってみましょうか」


と提案してみる。よく見ると木々のあるところにベンチが設置されているのが分かったからだ。季節的に芝の状態は素晴らしく、踏み締めてみるとクッション感が心地よかった。


「やっぱり緑を見ると落ち着きますね。わたし達の故郷では当たり前の色ですが、時々恋しく思うことがあります」


「確かにそうですね。よく子供の頃に連れてったもらった場所を思い出します。怜も一緒だったこともあります」


「そういえば怜さんとは今もお会いになられてるのですか?」


「はい。近くに住んでいて、実は週末にランニングしていたりします」


「それは素晴らしいですね。ランニングってもしかして最近も?」


「はい、昨日も走ったばかりで…だから今もちょっと筋肉痛だったりします」


茜音さんに伝えたら思わず照れ笑いを浮かべてしまった。彼女もそれに微笑んでくれて、


「何となく香純さんの歩き方に違和感を覚えたので。時々太腿とか触っていたり」


と教えてくれた。無意識だったので彼女の観察力に驚かされた。


「茜音さんは運動とかはなされているんですか?」


「いえ、そちらの方はそこまで。一時ヨガにも興味を持ったのですが、ちょっと体が硬いみたいで」


苦笑いの茜音さんを見て、何となく安心してしまった自分がいる。何よりその表情が可愛らしかった。木々の向こうのベンチに辿り着いて、二人で示し合わせるように同時に座った。そこで「ふぅ」と息を吐いて、一旦気持ちを落ち着かせる。茜音さんに訊きたいことは沢山あったけれど、何から訊いてみようか改めて考え始める。彼女の表情はずっと穏やかではあったけれど、わたしが話あぐねていたからなのか彼女の方からこんな風に話し始める。


「たしか『マギカへの誘い』読んでいただいたんですよね。もしよろしければ感想を聞かせていただけませんか?」


「あ、そうですね。はい。わたし元々語彙が多い方ではなくて、いつも拙い言葉になってしまうのですが、それでもわたしなりに感じたことがありました」


茜音さんは静かに、けれど何かを期待しているような視線を向けている。


「こんな風な事を初対面の人に訊いていいのかどうかとは思うんですが、でも、『茜音さんはどうして魔法を探しているのかな』って、それが素直な疑問でした」


「魔法を探す…」


彼女はわたしの言った言葉の意味を静かに考えているみたい。ややあって、


「その通りかも知れませんね。確かにあの本の中にはわたしが魔法にこだわる理由、書いていないことがあります」


「書いていないこと?」


「というより、とても個人的な事なので本には記せなかったのです。直接的には魔法には関係のない話かも知れませんし」


躊躇いのような気持ちが伺える茜音さんのトーン。でもわたしはその話をとても聞いてみたいと思った。


「もしよろしければお話ししてもらえませんか?」


じっとわたしの目を見つめる茜音さん。それから少しどこか遠くを見つめるような視線になる。


「そうですね。もしかしたら今日ここで話すタイミングなのかも知れません」



☆☆☆☆☆☆☆



大学生の頃の話です。理学部の数学科に入学したわたしには研究者になる夢がありました。女子生徒が少ない分野の学科でしたし、元々あまり友人と連んだりしないタイプの人間だったので必然一人黙々と本を読んで勉強して、時々気晴らしに絵を描いたりするのがその頃の趣味でした。



ーそうだったんですかー



当時は恋人を作ったりといった事は考えていませんでしたね。どうしても自分を冷静にみている自分がいて、ちょっと気になった人がいても本気にはなれませんでしたし。数学は難しい学問ですが、学年が進むに連れて証明された定理を『味わえる』くらいになって、本当に奥深い学問の道を自分は進んでいると感じられました。



ー数学ができる人はすごいなって思いますー



気付いたら考えているんです。これが本当だとしたらどうしてあれがあんな風になってしまうのだろうと。同級生の事はあまり意識していませんでしたが、一人だけ大学の図書館でよく見かける本当に数学が好きなんだというオーラを出しているような人がいました。自分も似ているのに最初は何となく近寄り難く感じていましたが、たまたま数学用ソフトウェアを使った講義で隣になったとき、最初入力の仕方に戸惑っていたわたしに丁寧にアドバイスしてくれて。そこから自然にある講義の課題のこととか、難しい問題の解法とか、話し合うようになりました。



ーいいですね。そういうのー



趣味のこと絵の事とかも彼に話してみて、ある絵を見てもらったことがあります。夕暮れの街を描いたものでした。それに対してその人は「こういう時間はしみじみした気持ちになるよね」と言ってくれて、彼と何かを分かり合えたような気がしました。



ーそれであの陸さんの絵を購入したんですね…ー



でもそんな時間は長くは続きませんでした。



(ここで少し茜音さんが息を吐く。わたしはその続きを静かに待っていた)



記憶喪失ってご存知ですか?ドラマなどでよくある設定でもありますが、実際にそうなった人を見ると頭では分かっていても信じられない気持ちになります。彼がバイトしていた配達のスクーターで転倒して頭を強く打って命に別状はなかったのですが、数日入院して退院して、講義に出席したときに教授から連絡があって「記憶喪失」という言葉を聞きました。だとしてももしかしたら記憶が戻るかも知れないと思ってその後彼に話しかけてみたのですが、「ごめん。覚えていないんだ」と。とてもすまなそうに思っている彼の表情がずっと記憶に残っています。



ーそんな事があったんですね…ー



実は彼がバイトに行く前に、大学のキャンパス内のこんなベンチに座って二人で話していました。「来年どこのゼミに入る予定?」と訊かれて、「○○研」と答えたら「自分も同じ。一緒に頑張ろうな」って。その時の笑顔が眩しくて気付いたら「あの、○○君、」とわたしは彼に何かを伝えようとしていました。でもその時「どうした?」と彼が言った時に、わたしは「その言葉」を躊躇ってしまったんです。



ー茜音さん、好きだったんですねー



今こんな風に思っているのも、そういう感情があったからなんだと思います。今でもあの時その言葉を言えていたら「違う未来」に居たんじゃないかと。けれど運命はそうなっていなかった。彼はその後一度授業についてゆくのが難しくなり休学しました。その時から数学よりも人間の心、人という存在について自分の興味が移っていきました。文転して心理学の学科に編入したのはそんな何かを知りたいと思ったからです。そうして一年後、キャンパス内で偶然彼の姿を見つけた時、その隣に誰かの姿があったのを見て彼の人生の中に自分はもう場所が存在しないという気持ちになりました。多分彼はあれから必死に努力したのだと思います、どこかの研究機関に就職したと同級生から聞きました。



ー茜音さんはー



元々考える事が好きという意味では心理学でも相性が良かったようで、それから色々な研究を知りました。でも何故だかわたしの心が求めているものは、わたしの心の行き場はその向こう側に向かいました。偶々古書店を巡っていたときに出会った魔法について記述された本を読んで、不可能なことを可能にする力に魅せられてしまったのです。当然それは現代の科学の常識からすれば荒唐無稽であり得ないような話ではあるのですが、「運命」について考えて行ったときに「因果」を超えてゆくにはどうあっても魔法しかないとわたしは感じたのです。

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