夕陽を背景に
怜が引っ越してくるまでわたし的にはソワソワが続く日々で、職場では年度末の月ということもあってちょっとバタバタしかけていたところだったのでよくわからない気疲れが起こっていた。ちょっとした休憩の時間に呼吸がいつもより浅いらしい事を自覚して、『これは気分転換が必要だな』と感じた。
仕事帰り。ハンナの待つ自宅に急ぐ気持ちもあったけれど、街は春めいて所々に桜のつぼみも見えるという話も聞いていたから「15分だけ」と決めて、一番近くの広場に立ち寄ってみる。川沿いで、夕陽に暖かな光包まれたその場所には河津桜が植えられていて、この時間でも愛でに来ているらしい人が集まっていた。桜といえば「ソメイヨシノ」の印象が強かったわたしも、この街に来てこの河津桜を見た時には、
<こんなに早く見れるなんて、なんか得した気分>
なんて思ってしまったけれどこの日も色鮮やかなピンクを咲かせていて、近くで同じような体勢で眺めていた男性から「綺麗だなぁ」という呟きが漏れる。その言葉で何気なくその男性の方を向いた時、わたしは一瞬不思議な気持ちに襲われた。
<なんだろう…>
その男性はわたしと同じくらいの歳に見えて、メガネを掛けた透き通るような白い肌をした線の細い人だった。メガネ越しからも綺麗で澄んだ瞳が印象的で、横顔だったけれどその人がまるで物語の登場人物のように見えてしまったのだ。その時わたしがそう見えてしまった理由を後で考えてみると、その人の服装にも関係があったかも知れない。明らかに仕事帰りというような服装ではなくて、全体的に清潔感があってその人の雰囲気に合った白を基調とした装い。どこか神職をイメージさせるようでありながらも、親しみが持てる愛らしさもあって、そんな人をこの辺りで見たのは正真正銘初めてだった。
「あ、」
少しその人と目が合ってしまい、変な声を出してしまったわたし。そこから動揺してしまったからなのか、
「桜、いいですよね」
と言わなくてもいいような感想をその人の前で述べてしまう。その人は全く変な様子にはならずに微笑んでくれて、
「ここに来たの初めてなんです。さっき【綺麗に咲いてる】っていう写真付きの投稿を見たんで来てみたんです」
という風に話してくれた。
「そうだったんですか。そうだ!わたしも写真撮ろうっと」
なるべく相手に動揺を感じさせないように、自然に振る舞ってみる。すると男性も同じように写真を撮り始めた。お互いに上手に撮りたい気持ちがあるからなのか、少し移動したり角度を変えたりして、わたしの方はこの時間帯にしてはそこそこ映える写真を撮ることができた。
「できた!」
そう言うと男性の方が、
「見せてもらっていいですか?」
と近寄ってきた。これには流石に動揺が隠せなかったけれど素直に応じて、その人の写真も見せてもらった。身長の関係でわたしよりも少し高い位置から桜が大きく映るように撮れていて、すこしばかり感動。
「そちらの写真もいいですね!ネットとかに上げるんですか?」
訊ねられたので「そのつもりです」と答えると、
「僕も投稿してみようかな」
と一言。こんな何気ないやり取りだったけれど、春先にとてもいい思い出になってしまった。ちょっと夢見心地で、<名前聞いたりした方が良かったのかなぁ…でも…>とすこし勿体無いような事をした気持ちのまま自宅に到着する。するとハンナが「待ちきれなかった」様子でわたしを玄関で出迎えてくれた。
にゃーにゃー
「ごめんねハンナ!ちょっとだけ寄り道しちゃったの!ごめん」
わたしの言い分にはほぼ耳を貸さない様子で、ただ部屋に入っても何かを懸命に訴えるハンナ。しばらくごめんね、ごめんね言いながら抱き寄せていたのだけれど、するりと腕の中から飛び出してバタバタと何処かに駆け出してゆく。追いかけたところ、冷蔵庫を見上げるようにまた鳴き始めている。
「あ、そっか。ゴハンか!」
普段だとこの15分前に帰ってきてハンナにご飯をあげているのだけれど、習慣で生きているハンナにとって15分ゴハンが遅れて我慢し切れなくなっていたらしい。
「わかったよ。待ってて」
いそいそと彼女の食事を用意すると、女の子とは思えない(必ずしもそうではないかもだけど)勢いでがっつかれて、その様子に思わず吹き出してしまうわたし。ほぼ小動物なので食べている姿はとにかく「必死」の一言。食べている姿を写真に撮ったときに、その野性味には少し引いてしまったりしたこともある。さっきまでの余韻などお構いなしに、どちらかというとコメディー視点が再開された。
その日の夢の中ではハンナがしっかり登場して、
「お姉ちゃん。アタシ、ゴハンもっと食べたい」
と要求されてしまった。子供の頃によく連れて行ってもらった遊園地の観覧車のゴンドラの中、夕陽を背景に向かい合ったハンナにこんな告白をされるのはシュールという他ない。




