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奥のほう

懐かしいお菓子が手のひらに載っていた。いかにも着色料が付いているようなカラフルさと、この上なく素朴なカタチに見惚れるように一粒つまんで口の中に持ってゆく。ガムのようなグミのような触感のあと、甘酸っぱいフレーバーが口の中に広がって



<ああ、これだ>



とわたしは思い出す。だけどどこか物足りなく感じてしまうのは何故だろうか。なんとなく食べている実感が薄いような。ふと周りに目を遣ると母が机で家計簿をつけていて、茶トラの『テン』がその手元をウロウロして何かをアピールしている。



「テン、お母さんの邪魔しちゃだめだよ!」



と注意すると『テン』がこっちを向いて「なーお」と鳴いた。そんな「ごくごくあたりまえの光景」がなんだかとても心地よく何かを忘れているような気もしたけれど、そのままぼんやりと過ごしていた。






『ハンナ』が登場しなかったわたしの実家の夢。目が覚めるとハンナは胸元で寝息を立てている。寝ぼけてはいたけれどそこで違和感を感じてしまったのは、『この状況』でハンナがわたしの夢の中に出てこなかったからだ。ハンナと同衾すれば必ずと言っていいほど夢の中に出てきていたので、その『例外』とも言える状況にわたしは一瞬混乱する。ただ見た感じハンナの様子が変というわけでもないのでその時はあまり深く考えず、いつも通り出社して、普通の一日を過ごした。




その夜はわたしがベットに入るのと同時にハンナが潜り込んできたのでやっぱり夢の中に出てきてもいい状況になったからなのか、いつものスーパーに買い物に出掛けている夢の場面でごくごく普通に『ハンナ』が後ろから現れて、



「おねえちゃん待って!」



と河口エリスさんの声で呼び掛けられた。



『ハンナ!今日は出てきたんだね』



その瞬間に目覚めないように頭部を圧迫するように意識して夢を継続させる工夫をする。なるべくハンナとの会話に集中すればいいらしくて、周囲の様子を気にし過ぎると目覚めてしまいやすいという経験則があった。



「きのうのおねえちゃんは『奥のほう』に行っちゃったから」



『奥の方?』



その時、意味深な言葉を伝えてきたハンナ。



「おねえちゃんが『奥のほう』に行っちゃうとあたしその中には入れないの」



『え…?どういうことなんだろう』



その意味を考え過ぎたのか、そこで目が覚めてしまう。部屋の中はまだ暗い時間帯、ハンナのスースーという寝息に耳を澄ませながら先ほどのハンナの言葉をスマホのメモに入力してみる。自分の想像力ではわたしの夢の中にもハンナが入ってこれる夢とそうではない夢があるという整理ができたくらいだけれど、これを怜に話してみたら何か分るのかも知れないなと感じた。





☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




6月に入った最初の土曜日。うっすらと曇った空の下で怜とのランニングで、その日怜は面白いものを腕に巻いてきていた。



「『ウェアラブル端末』って言うんだよね。この間『ランニング雑誌』読んでたら、こういうものを利用したランニングがとても効率的だと知ってね」



「うわ、すごいね」



漠然とした知識で心拍数とか測れるのがいいのかなという認識だったけれど、小さい画面ながらも『地図』アプリを立ち上げてよりスムースに走れるようになったり、タイムやカロリー消費など様々なデータを見れば走りの研究にもなるそうだ。陸上部時代にはまだこういう商品は無かったけれど、もしかしたらランナーには必須のアイテムになってゆくのかも知れない。基本的にわたしも怜も練習には『走り込み』の量が大事と思っていた節があって、意外とランニング雑誌に書いてあるようなアプローチは参考になるのだそう。



「ランニングが健康に与える影響とか、ポジティブな内容を読んでいるとモチベは上がるよね」



「あ、それは確かに。最近ちょっと身体が軽くなってきて、通勤時間もちょっと早くなったんだ」



「それはいいことだね」




休憩地点に設定した公園が近付いてきた時、怜は何故かやたら周囲を気にしていた。「どうしたの?」と訊ねてみると、



「いや…『あの人』がまたいるんじゃないかと警戒っていうか…」



「『警戒』なの?」



「この前香純がリンク送ってくれたから彼の『動画』と過去の動画をとりあえず見させてもらったんだよ。」




成田さんに「どうしても」とお願いされて怜にも彼の『筋トレ動画』のリンクを送っていた。「別に見なくてもいいんだけど」と添えていたので見ていない可能性もあったけれど律儀な性格の彼女はしっかり視聴していたらしい。



「で、どうだった?」



周囲にそれらしい人が居ない事を確認して二人で公園の中に。奥の方で60代くらいのおじさんが体操をしている。



「面白かったよ。というか面白くなるように編集してあるから所々笑わせてもらいました。だけどね、」



怜はわたしに真顔で向き合った。



「大事なのは『彼が何を目指しているか』によると思うんだよ、わたしは」



結構強めの主張だったので少し面食らってしまったわたしは、



「成田さんは、筋トレするのが純粋に好きなんだと思うよ」



となんとなくフォローをしていた。実際、会社での成田さんはいつも笑顔で悪い印象を与えない。前にすごく嬉しそうに飲んでいるプロテインの話をしていた時には、<こういう充実のさせ方もあるんだな>と何かを見習いたいと思ったくらい。



「ただわたしの見立てだと、彼はどこか『称賛』を欲しているように見える。動画に対してのコメントにも自ら『いいね』をつけているようだし」



「まあ多少はあるかもね」




すると怜は少し表情を崩して困り顔で言う。




「わたしはそれが『悪い』と言っているわけじゃないんだ。ただ何となく、何かを言いたくなってしまうんだよ」




「なるほどね」




この会話は怜の心の中が伺い知れるような気がする。それから端末を弄ってデータを分析し始めた怜。わたしもスマホを取り出して、何か忘れていた事は無いかと思ってメモを確認した時に、ハンナが夢の中で用いた『奥のほう』という言葉が気になり始める。「そういえば」と前置きして、怜にあの前後の夢の事について説明してみた。




「ほおー!それは凄い『情報』だ!」




思いがけず感嘆の声を上げた彼女。そこから怜がその場で浮かんだ解釈を教えてくれた。




「『奥のほう』っていうのは、例えば『洞窟』のようなものなのかもね。深層心理で言えばかなり深い部分。ハンナちゃんが夢に入ってくる場合には比較的意識の『表層』と呼ばれる浅い部分だと入り込みやすいんだろうと思う。本当にプライベートな部分は『バリアー』があるのかもね」




「それじゃあわたしがハンナに対してバリアーを張っているって事?」




「そうじゃないとは思うよ。でもやっぱり幼少の頃の香純の意識は『お母さん』とかそういった存在と結びつきが強いんだよ。これは多分わたしでもそうさ」




「そうなんだね」




「ただもう一つ『可能性』が考えられる」




「どういうこと?」




「もしかしたらハンナちゃんの方も香純に心を開かないと香純の『奥のほう』には入って行けないんじゃないだろうか」




「…なんかそれって『恋愛』みたいじゃない?」




「あくまで『仮説』だけどね。でもそう考えた方がシンプルかもね」




確かにその『仮説』は正しそうだとわたしは直感する。ハンナも最初は『わたしの夢を見ているだけだった』という証言をしているし、ある時からわたしの夢の中で動けるようになっている。もしかしたらハンナとの絆が深まれば夢の中でもっと多くのやり取りが出来るようになるのかも知れない。




ただ思うのは、わたしはハンナの何を知りたいと思っているかという事。ただ一緒にいるだけでも分かってくることは沢山ある。もしかしたらハンナもわたしの何かを知りたいと思ったから、夢の中に入れる能力を得たのだろうか。

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