ノスタルジーと
あの日の母に茜音さんの事について丁寧に説明したついでに、最近のこちらでの生活についてとか、実家の様子がどうなのかという事について会話して、だいぶ長話になってしまった。母は茜音さんの事について相当気になっているらしくネットなどで調べてみたという情報をわたしに伝えてくれて、母の推理によると茜音さんの実家も市内にあるらしい。
「うーん」
電話越しに聞いた母の弾んだ声の印象で半日くらいはなんとなく実家の様子を思い浮かぶ。ハンナがやって来てからはまだ帰省できていないのはちょっとした悩みでもあり、不摂生になりがちな父親のこととか高齢になってきた茶トラの雄猫『テン』の事も意識し始めるとこの上なく気に掛かる。データの編集作業が結構大掛かりなので、少し気が抜けた瞬間にノスタルジーに囚われてしまう。
<あ…漬物たべたい…>
極め付きは実家で同居しているおばあちゃんが作る白菜の『漬物』。祖父は小学生の頃に他界したけれど、おばあちゃんは今でも庭で畑仕事をするくらい体力がある人。その畑で取れた野菜作ってくれた漬物はまさに『実家の味』。なにより母がパートで共働きの家庭なのでわたしはおばあちゃんと過ごす時間が多くて、学校から帰って来たら『テン』とおばあちゃんが出迎えてくれるのが毎日だった。
一度意識し始めると郷愁の念で収拾がつかなくなることもある。こちらでの生活は結構充実しているけれど、心のどこかではそういう気持ちもあるのだと思い知らされる感じ。とは言っても目の前のことを片付けてゆかないといけないのは今も同じ。先輩の姿とか、同僚の様子をすこし見渡してみて気持ちを切り替えた。
とは言っても『心』というのは『完全』に切り替わるという事は無いのかも知れない。
帰宅時、商店街の通りを西日を浴びながら歩いていると何となくどこかに立ち寄りたい気分に。自分でも何を求めているのかはっきりしないけれど、その何かを探すように入店したのがドラッグストア。そこまで必要でもないけれど化粧品のコーナーで商品を眺めながら数点を選んでカゴに入れる。そしてハンナのおやつにと猫用の『乾しカマ』を選んでみる。翌日の朝に食べようと思ってパンのコーナーに移動した時その少し背の高いシルエットを目にしたわたしは柄にもなく『運命かも』と感じた。
「香純さん」
わたしと目が合った陸さんはとても嬉しそうだった。わたしも多分同じ表情をしていたのだろうと思う。
「陸さん、やっぱりその栄養ドリンク買うんですね」
「最早これがないと作業に支障が出ます」
陸さんは何故かカゴを持たずに栄養ドリンクを数本手に抱えて照れくさそうにしている。会おうと思えばすぐに会える筈なのに会う為にまだ理由を探してしまう今の自分にとっては、こういう再会は本当に心強い。ただその時彼に何を伝えたらいいのかすぐには浮かばず、とりあえずパンを選び始める。
「香純さんってパン派なんですか?」
「『どっちも』派です。地元のお米が美味しかったので」
「そうなんですね。僕は時期によって変わりますね。パンが良い時と、米に戻る時とか」
そう言って微笑む陸さんを見ているとなんだか不思議な心地がしてくる。
「じゃあ、明日は僕もパンにしようかな」
わたしが選び終わってから同じように選び始めた。最初に手に取ったのが『カレーパン』だったことを記憶しているけれど、本当に何でもない事をしている時間でもなんだかいい時間に感じていた。そのまま二人でレジに向かって、順番に会計を済ませた。わたしは商品をバッグに詰めて、陸さんもマイバッグに。
そしてやっぱり外に出るとどうしたらいいのか分からなくなる。前はこのまま公園に向かったけれど。
「じゃあ…」
陸さんが言いかけたところで、わたしの口をついて出たのは思いもよらぬ言葉だった。
「ハンナに会いませんか?」
「え…?」
唐突にそう言ってしまった事の意味をわたしは理解していたと思う。
「香純さんの家にって事ですか?」
訊ねられて「はい」と答えていた。
「そうか…そうですね。今日は丁度いいのかも知れませんね。じゃあお邪魔させていただきます」
いざ二人で自宅に向かい始めると、部屋の中に見られてマズいものがないかどうかが気になり始める。というよりも本来はもっと色んなことを考える必要があるのかも知れないのだけれど、その辺りの思考は自分にも分からなくなっている。




