『河口エリス』
自分より少し背の高い怜と並んで走っているとストライドの違いの関係でわたしの方がパタパタと回転数が多くなってしまって昔はそれがなんだか残念なことのようにも思えた。時折川沿いからの街並みに新たな発見をしながら、やっぱりパタパタと地面で音を立てるシューズがわたしらしく思えて、それが一つの個性なんだと改めて感じている。晴れてはいるけれど向かい風がやや強い日だったので、かえって怜の方が風圧に押しやられているようにも見えた。
「あそこだね」
「そう、あの橋を右に曲がって」
2回目のランニングにあたって、河川敷から途中一度橋を渡ったところにある公園をコースに取り入れようと提案してみた。中学時代の練習の時もそうだったけれどロードは基本的に自分達でコースを決めることが出来る。先輩達が選んでいたコースとは違う道に逸れてみた結果、地元なのに案外道を知らないという事を思い知らされた2年時後半の記憶はその後の人生でもちょっとは役に立ったらしく、行き当たりばったりで走らないように事前にマップで道の繋がりを調べておく癖がついた。橋の歩道を駆け抜け、少し行ったところに目的地を発見。画像で調べた限り、公衆トイレなどの設備も清潔そうだったという理由でその公園を選んだのだけれど、現地に来てみて思った以上の広さだったのがちょっとした朗報。朝なので人の姿はないけれど、木々も程よい感じに植えられていて癒しの空間になっている。
「街中を走ってみるのも良いけど徐々に開拓してゆくのがいいよね」
「怜は道に迷ったりする?」
「わたしは『野生の勘』で辿り着けるから」
「たしかに昔そんな事言ってたね。でも行き止まりだったりしたじゃん」
「あの時も方角は合ってたはずだよ。残念ながら先が無かっただけで」
その言い訳ぶりに思わず吹き出してしまった。一度ここで小休憩を取ろうという事になった。汗が額から流れて朝から爽やかな表情を浮かべる怜の姿に安心感のようなものを覚えていると、彼女が唐突にこんな事を言った。
「ほんとうに幸運だった。流石に仕事も大変になってきたけどリフレッシュできる」
ここにある僅かばかりの遊具は地域性なのだろうか。ブランコや滑り台はなく、動物を模した遊具が3つ程設置されている様子がなんとなく微笑ましい。怜は木々の間をゆったりと移動しながら、大袈裟に腕を伸ばして心地よさような表情を浮かべていた。怜の仕事については想像するくらいしかできないけれど、きっとあの人の事だから何でもほいほい安請け合いして一人で必死になっているに違いない。そして優秀さゆえにクールにこなしてしまえるからまたハードルが上がってゆく。その姿はほとんど…
「やっぱり怜はアスリート気質なんだと思う。尊敬するよ」
珍しく素直に褒めてみた。そう言われて照れくさいのか、
「いや、そんな格好いいもんじゃないよ。わたしだってダレたいときもある」
と笑って見せる。
「そうなの?」
「だから今日はハンナちゃんと床に寝っ転がるのが楽しみなんだ」
そんな事を言われてしまうと入り浸りの件について咎めることも出来なくなる。まあいいか、という心境になった。
「そういえば、怜は魔法ってあると思う?」
「え…?急にどうしたの?」
わたしはそこで先日の番組の内容を彼女に報告してみた。説明が拙いのでニュアンスを正しく伝えられたか怪しいけれど、聞き終わった怜は神妙な顔で「なるほど」と頷いていた。そしてふと何かを思い出したのか、
「『茜音さん』っていう人なのね?」
と確認してくる。
「何か思い当たることがあるの?」
「いや…まさかねって感じなんだけど、ちょっと調べてみようかな」
「そうなんだ。ところでわたしはハンナの能力が『魔法』だという説を考えるのも面白いと思ったよ」
「いやぁ…それはどうなんだろう。そもそもその前に『魔法』が存在するって事を証明しなくちゃいけない筈だよ」
そう言われると弱い。無意識に遊具の一つのお馬さんに近付いて行って「今週もレースあるの?」と大きめの声で訊ねてみると「皐月賞!」という声が返ってきた。GⅠだそうである。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
同じその土曜日、電車で2駅の所にある某書店へと赴いたわたしの心は次第に昂り始めてきた。これまでの人生で有名人とすれ違った経験は何度かあるけれど、完全に自分の『推し』と間近に触れ合える瞬間は無かったと言っていい。ランニングと移動で身体は少し疲れてはいたけれど、そんな事がどうでもよくなるくらいに高揚感と緊張でイベント開始まで待つ時間がとても長く感じられた。店内にはぼちぼち人だかりが出来ていて、男女比で言うと男性の方がやや多いという感じ。女性の声優さんで知名度もある人なので、もっと混雑してもおかしくはないと思っていた。今回のイベントが『河口エリス』さんの執筆した声優という仕事についてのエッセーの購入者へのサイン会という事で、ほぼ確実にエリスさんを目の前で拝める形式。もともとミーハーな部分がある自分にとっては望んでもみないイベントなので、
<この瞳に姿を焼き付けておこう>
とか、
<実物はどんな感じなんだろうか>
とか様々な事が浮かんできていた。13時を回るという頃になって、辺りが段々ざわついてきた。
「あっ」
思わず声が出てしまったのは、奥の部屋から『河口エリス』さん本人がとてもナチュラルに登場したから。イベント用に白い清楚さが感じられる装いで肌の色の白さも輝くように感じられる。少し離れていてもその『オーラ』が感じられて、店内は異様な熱気に包まれ始める。初めに司会の人が短く解説をしてからエリスさんがマイクで、
「本日は皆さん、集まっていただいてありがとうございます!」
と言うと会場からは拍手が上がる。声優さんの声はやっぱり普通の人とは響き方も全く違って、特にエリスさんの声は透き通っていて自分がこんな声を持っていたらと憧れてしまう。既に配られていた整理券を持つ人からエリスさんの座る長テーブルに並び始める。早めに来た方だと思っていたけれど番号を見ると真ん中くらい。それでも順番が近付くに連れて意味が分からなくなるほどにドキドキしてしまう。本人の前で挙動不審にならないように気を付けなければならないなと思って、あとは何を考えていたか思い出せない。気が付いた時には自分の番になっていて、目の前で本にサインをしてもらっているのにその実感がないというような不思議な感覚。一般論として声優さんはビジュアルではないとは思うけれど、美容にもこだわっているという話を聞いているエリスさんの透明感は異様で、同じ人類とは思えない程。カラーコンタクトではないと思うけれど、長い睫毛とはっきりしたブラウンの双眸で見つめられた時には視線を合わせるのが大変だった。そこで勇気を出して、
「応援しています!」
と声を掛けて、
「ありがとうございます!」
と言葉が返ってきた時がその日のピーク。手渡された書籍のサインを見つめながら足早に一度店を出た。そこで心を落ち着かせてから『ありがとうございます!』という言葉を伝えてくれたときのエリスさんの表情を思い出してみる。プロ意識の高い人だという事は何かで読んで知っていて、この書籍の中でも『心を込めて誠実に』という言葉がキーワードとして出てきている。集まったファンに対する温かい眼差しや、言葉の丁寧さを含めても見倣うべき事が多いと感じた。どの場面で見倣えばいいのかは分からないけれどとにかく。
夢心地のまま帰宅して、玄関で「はあ」と息を付いた。リビングまでゆくと、怜がハンナを膝の上に載せてテレビ(競馬)を見ている。
「おかえり」
「ただいま…流石に体力が切れた」
「どうだった?『推し』と会う心境は」
「挙動不審になりそうだった」
怜がからからと笑う。
「とにかく『準備しておく』必要があるんだなって思いました。迂闊に行くもんじゃないのかも」
「なるほど」
感心している様子の怜からはやっぱりフレグランスが漂っている。エリスさんと接近した際の様子を思い出しながら、
<エリスさんが使っている香水とか調べればわかるのかな?>
などとちょっとだけ変な事を考えてしまった。




