乙女の戦い
河川敷を走っていると散歩をしている人とすれ違う。太陽の位置はまだ低くて光背のようにも見える光から清々しさを感じ取り、川沿いの新鮮な風は走っているうちに火照りだした身体に心地よく馴染む。今回は怜と並んで一定のペースをキープしたまま、そのリズムを大事にするように足を弾ませ、次第に走っている事が意識されなくなると呼吸も安定してきた。
「そういえば桜花賞だっけ?本命決まったの?」
何気ない感じで訊ねてみると「うーん」と唸るような声を出して、
「枠も関係するんだ。内が有利な時もあれば、馬場の状態次第で外が良く伸びる年もある。今回は外の方になったけれど、15番の馬がいいんじゃないかなって思ってる。名前はツバサアスタリスク」
「ツバサアスタリスク」
不思議な響きの名前を確認してから「どういう意味なんだろう?」と訊ねてみたら、
「その馬主さんが馬の名前に『ツバサ』っていう言葉を入れるようにしているんだよ。ツバサハネムーンとか、ツバサなんとかって感じで名前を付けていって、その馬は『星』を意味するアスタリスクという単語を選んだんだね」
「へぇ~」
知らない文化なので名前について過去にも似たような事を説明してくれたような気がするけれど、そう聞くとなんとなくいい名前に思えてくる。すると怜はこの馬について熱く語り始めた。
「『ツバサ』のオーナーさんは実はわたし達の地元の県の人で、調べたところによると会社の社長さんだそうだ。彼には馬主をする上での拘りがあって『高い馬は買わない』。強い馬は基本的に血統が良くて、だから値が張る馬も多いんだけど彼の買う馬はほとんど血統が良いとは言えない。でも愛情をもって馬を大切に走らせるからか、不思議と馬主孝行の馬も多くて、ツバサアスタリスクはその母親がもともと彼の持っていた馬だから特に思い入れの強い馬らしい」
走っている間にこの説明をする怜は全く息を切らせない。現役時代同様、心肺機能が優れている証拠だ。
「そして、ツバサアスタリスクのこれまでのレースは全て『最後方』からごぼう抜きしてゆくスタイルだった」
「すごいね」
「競馬で『追い込み』と呼ばれる戦法なんだけど、やっぱり陸上でもそうだけど前が止まらなくて届かない時もある」
「陸上だとほとんど前の方にいないと上位にはいけないよね。前の方が有利だもん」
「そうそう。だから今回は前が速くなってバテたところを抜き去ってゆくイメージでその馬を応援するつもり」
「上手くゆくかな?」
「わかんない。だってレースだもん」
その時の怜が浮かべた困ったような表情にはわたしも共感する部分がある。今みたいに走るのではなく『本番』で走ることはプレッシャーもあるし、突然お腹が痛くなってきたり、力が発揮できない事も結構ある。怜はその辺りのコントロールも上手い方だと思うけれど、二人で同じレースに出た時にいつもと変わらない話していたのがスタート直前に一気に表情が変わって強張った顔つきになったり凄い集中をしていた時もあったから、そこで何かが嚙み合わないと崩れてしまうというのはきっとお馬さんも同じなのだろうと思う。
そんな話を続けている間にも前へ前へ進んで足も大分温まってきた。今なら少しスピードを上げることも出来る。
「ちょっとペース上げてみる」
そう伝えて怜を引っ張るカタチ。ジョギングだけでもいいとは思っていたけれど、ある程度筋肉痛になるくらいスピードを出してみたい気持ちはわたしにもある。時々テレビで中継している陸上競技やマラソン、駅伝などを見ていて
<わたしもあんな風に走れたらなぁ>
と感じた事を思い出す。走っている間はキツイと感じていても、イメージ通りの走りができた時にはやっぱり嬉しい。メンタルとフィジカルが上手く嚙み合って自己ベストを出せた時の達成感は、たぶんテストでいい点を取るのとは別の意味で自分の努力を認めてあげたくなる何か特別なものだと感じていた。スピードを上げても特に表情を変えないままスーッと着いてくる怜と自分を比べてもしょうがない事は初めから分かっている。それを悲しいと感じるというよりも、わたしの場合はこの『桑原香純』というメンタルとフィジカルの存在が分かり切っているからこそ、その分かり切っているわたしに何か凄いものを見せてあげたいという『気持ち』は大きいかも知れない。今も15分くらい緩やかな曲線と直線のコースを走ったところだけれど、長距離だからそんな『気持ち』がはっきりと足の運びに現れる。
『香純はハートが強いよ』
中学3年で怪我をして本調子でなかったある日の練習の場面で怜に言われた事。怪我にも負けずにその時できる最善を尽くしている怜の方がよっぽどハートは強いと思ったのだけれど、その時の怜はすこし気持ちが弱っていたのは確かだ。それまで怜を中心に回っていた長距離の練習が一時わたしが後輩の女子部員を引っ張るようなカタチになった時、それまでよりも一生懸命に取り組む必要が出てきた。実際のところは後輩の方が速いし能力もある。でもその時だけは『怜の代わり』になるように、先頭を引っ張って走ってみたりもした。そんな姿に対して怜がその言葉を掛けてくれた時、二人の間で一層何かが通じ合ったような気がする。そして実際、こうして同じ場所で走っているのだから、その時と同じような『気持ち』はどこかで見せていきたい。
「香純ちゃん!ちょっと待って!!」
そんな心境でちゃん付けで呼ばれて変だなと思ったら怜の姿が思ったよりも後方にあって、しかもしゃがんでいた。
「大丈夫?どうしたの?」
駆け寄ってみたところただシューズの紐が解けてしまっただけらしかった。
「いやぁ、流石にペース上げるとちょっと足に来るね」
紐を結びながら笑顔でおどけていた怜。
「そう?あなたのことだから余裕あると思ってた」
「なに言ってんの。わたしだって大分ブランク長いんだから香純と同じだよ」
「まあ確かにそうだね」
「というか、香純の方が余裕ありそうに見えたなぁ。あんまり運動してなかったんだよね?」
「『気持ち』だよ!」
「『ハート』ね」
そこから再び走り出してお互いに『もうそろそろよくない?』と思った辺りで引き返し最後はクールダウンしながら無事に第一回のランニングを終了した。思いのほか水分が欲しくなったり、ちょっとだけ『トイレ』の心配をする時間もあったのでその辺りは次に活かそうと言い合った。
☆☆☆☆☆☆☆☆
土曜の夕方まで自宅に怜を迎えてハンナとじゃれ合ったりしながら過ごしていた。怜曰く、
『ハンナと触れ合う時間を作っておけばハンナも喜ぶんじゃないかと思って』
だそうである。やはり前に浮かんだ怜の『入り浸り説』が有力になってきた。大体において、怜もわたしもほとんど気を遣わないで済むから、これだけ近くに住んでいたら自然と出向いてしまう。更に言えば、わたしの方がこの街は先輩だという事実を踏まえれば、怜にとってはわたしはなにかと便利な存在なのだ。ただそうは言いつつも、リサーチ好きの彼女から教えてもらったこの街の情報として、とあるネットの有名人がこの辺りに住んでいるらしいという話を聞いた時には、その調子で色々調べて行ったら立場がいずれ逆転するかもと。
その日は流石に泊りがけにはならず、日曜日は完全にハンナとの蜜月。要らないのにと言った『お土産』であるハンナの為の『正規品』は怜なりのカンパのつもりだそうで、その存在を察知しているせいか朝も早くからおねだりが始まって、ごはんとは別に袋から舐めとらせている自分がつくづく『甘い』と感じてしまった。
ハンナにはどうしても甘くなってしまう。それを愛情と呼べばそうなのだろうけれど、何故だろう、おねだりの視線と鳴き声が強烈過ぎて仕方なしにズルズルと与えてしまっているだけのような。一人暮らしも大分長いけれど、正直自分で自分を甘えさせるという事はなかなか難しく感じることもあり、スマホゲームの推しキャラに甘い台詞を言って貰った時に少し心が潤うような感覚は、誰かに与えてもらいたいという偽らざる本音だと感じることもあるけれど、一度恋愛で幻滅を味わっている身からすると理想はなかなか実現しないものと思ってしまう事もある。
ハンナが自分に向けてくれる気持ちは猫の事を知れば知るほどに、ただならぬものだと思えてくる。わたし以外の人の元にゆく世界線だってあったわけだけれど、夢の中で話もできるハンナのような猫は他に探しても絶対見つからない。偶然でありながらも必然。そんな出会いだったんじゃないだろうか。
昼を過ぎて、太ももに鈍く懐かしい痛みを感じながらストレッチやマッサージを施して疲労を残さないように心掛けていた時に怜が話していた『ツバサアスタリスク』という名前をふいに思い出した。
<レースは確か3時…>
レースの時間を調べてみたところ3時40分に発走となっていたので、あと10分程だった。急いでテレビを付け中継を観る。緊張感のある様子でアナウンサーが解説をしている。盛り上がっていったところでファンファーレと呼ばれるレース前の演奏が始まり、わたしでもドキドキし始める。実況の人が
『「ツバサアスタリスク」も順調にゲートに入りました』
と言って、スムーズに各馬がスタートの『ゲート』に入っていった。全頭が揃って一斉にスタート。ものすごいスピードで疾走する馬たちに圧倒されながら、わたしは必死に15番の馬を探した。怜が言っていたとおり最後方近くで前を見るカタチでレースが進んでいる、コーナーに入り、外側に膨れるように『ツバサアスタリスク』が上がってゆく。
<さあ、直線だ!!>
そこからは流石に大レースらしい盛り上がりで競馬場に来ていたお客さんの歓声と実況で気持ちがヒートアップしてゆく。
15番はまだ?ツバサアスタリスクは伸びるの?
と言っていたところ前で内側で一頭の馬が抜け出している。リードがあってそのまま行ってしまうのか?と思ったところで外からスピードを上げたツバサアスタリスクが一気に追い込んでくる。その疾走感は爽快でさえあって、前との差が一気に縮まってゆく姿を見守ったまま、ゴールに2頭が並んで入って行ったのを確認した。
え?勝ったの?負けたの?
しばらく画面を見つめていると、お客さんたちの「あー!」という声が響いて黒い電光掲示板には1着のところに「5」という数字が。2着のところが「15」という数字だから、おそらくツバサアスタリスクは2着という事らしい。あんなに後ろからでも2着に来たのは凄かった。残念ではあったけれどすぐに怜に、
『ツバサアスタリスク、2着だったね!惜しかった!』
と送ると、
『内も結構伸びたんだね。能力は勝った馬と互角だと思った』
と返事が来た。少し経って怜が応援していたとは言っても、ああいう風に負けるのはちょっと口惜しいだろうなと感じたし、全然関係が無いように感じていたわたしも『微妙』な心境になっていたあたり、怜から話を聞かされて感情移入のようなものがあったのかもなと感じた。あと、とにかくお馬さんが『綺麗』だった。




