さまになってる
朝方の少しひんやりとした空気で気付いたら起きていた、という具合。身体を動かすイメージが高まっているせいかベッドで横になっていても足がムズムズするというか、ウズウズしているというか。無意識にハンナの姿を探していたらちょうど猫用のトイレの中に居た。グリーンのプラスチック製の容器に入っている砂の上にちょこんと前足を立てている様子から察するに、いましがた用を済ませた気配。スコップを持って、
「ハンナ、大丈夫だよ」
と声を掛けるとバッとトイレから飛び出し、ささっとカーテンの中に戻っていった。コミュニケーションが上手く行きすぎているのかわたしが『ブツ』を片付けるまで伺っていることがあって、この日も上から砂も掛けないままで放置されていた。部屋の静けさもそうだけれど、いつもよりなんでもない事が意識されているような気がするその心境。
<なんだか懐かしい感覚>
漠然と何かに似ていると思われたところで、脳裏に浮かんだのは『大会』の朝。陸上の大会がある競技場までバスで遠征したりする為に休日普段よりも早めに起きて身支度を済ませる。レースに出場する日だったりすると、本番まで気持ちを高めてゆく必要がある。ソワソワしながら何となくテレビを付けてみて、特に興味があるというわけではない朝の番組の内容が妙に気になったりする。
その頃と同じような心境でスマホで天気や気温を確認してみて走り易そうなコンディションだなと感じた。春先だからそれほど暑くはならないけれど、晴れ女のお陰か快晴が見込まれる。たぶん、一人で走るだけだったらここまで意識する事は無かったと思う。
『先頭は○○中の△△さん、ラスト一周です』
小さな大会でも大会本部には実況を担当する人が居たという事思い出す。『星怜』という名前とわたし達が通う中学校の名前が何度も繰り返されていたレースは羨ましくもあったけれど、誇らしくもあった。今思うと『その世界』は日常からはちょっとだけ遊離していて見えていた光景も普通とは違っていた。それらを懐かしく思う反面、アスリートみたいな毎日を生きることはわたしが望むものではなかったようにも感じる。それでも『陸上』という世界を知らない誰かに、その独特な雰囲気を説明したいと思う事もある。あの経験が合ったお陰でオリンピックで競技を観る時にも今でも臨場感や緊張を感じることが出来る。
☆☆☆☆☆☆☆☆
「え…?めっちゃやる気満々ですやん!?」
怜を戸惑わせるほどにわたしは気合が入り過ぎていた模様。彼女を玄関で出迎えたわたしは既にトレーニングウェアに着替え、首元にタオルを巻いていた。
「なんか落ち着かなくって」
大きめのバッグを抱えてきた怜は比較的身軽な装い。靴だけはランニングシューズなので合理的。そしてフレグランスがいつもと違う気がしたのだけれどそれを指摘したら、
「ハンナちゃんがどんな反応をするのかなって思って」
と一言。ハンナと面会させるとカーテンから少しだけ動いて怜に撫でまわされていた。抵抗もせずに目を細めて喉をゴロゴロと鳴らしているところを見るとすっかり彼女に心を許している。人懐っこい猫だとは思っていたけれどここまでとは。そうしているうちに怜はボチボチ支度を始め、上着を脱いだ時にニヤっとしながらこんな事を言った。
「今週は『乙女の戦い』の週ですよ!」
何の事か分からずに、
「わたし達が戦うって事?」
と訊ねたらやっぱり嬉しそうに首を振って、
「明日は競馬の『桜花賞』というレースがあるんだよ」
という説明をした。UMAJOを自称する怜らしく競馬で「GⅠ」と呼ばれる大きなレースの週はそのレースの解説をする事がある。わたしは聞きかじった程度の知識しかないけれど桜花賞が若い女馬の為の大きなレースだと説明されて、しかも陸上競技ではそこそこ登場する『マイル』という言葉、つまり1600メートルの競走であるという事はすんなり理解できた。
「サラブレッドの1600メートルは人間の800メートル走ととてもよく似ているんだ」
ほぼ着替えが終わった状態で身体をすこしねじる様にして解説を続けている。万能選手でもあった怜は800メートルも1500メートルも良い成績を残しているけれど、わたしのスピードでは『地獄の800メートル』という印象しかない。
「じゃあスピードが大事って事?」
「いや、むしろ最近では直線の『瞬発力』じゃないかな」
「瞬発力?加速力って事?」
「近いけどちょっと違うかな。一気にトップスピードに持って行ける脚があるかどうかだよ」
「トップスピード…」
「例えばハンナちゃんは瞬発力がありそうだよ。一緒に遊んでるといきなり飛び出すからね」
「確かに、ハンナはすばしっこいの」
人間と馬と猫の間で話題は目まぐるしく動いてはいるけれど、現役時代にはあまり考えてこなかった『走る能力』について考察が深まる時間になった。
「それで桜花賞の本命は何ていう馬なの?」
「まだ考え中。今日走りながら考えようかなって思って」
話をしているうちに予定した時刻になったのでお皿にキャットフードを少し盛ってから、ご飯目当てに近寄ってきたハンナ抱き上げる。頬ずりしながら「お留守番お願いね」と伝えると、
にゃー
と一鳴き。その時怜が、
「ハンナは人間の言葉が分かっているのだろうか?」
と素朴な疑問を発した。本来なら『そんなわけないじゃん』で終わる疑問もハンナの不思議な能力のことを踏まえるとあながち雑には扱えない。
「どうなんだろうね?」
玄関から道路=ロードに出ると予定には無かったけれど河川敷まで移動する間も走ってみたくなる。怜に提案したところ同意してくれたのでその場で軽めに体操をして、通行の邪魔にならないよう気を付けながら住宅街の道をジョギングで走り始めた。休日で人通りは少なく、車もこぐ稀にという頻度。すれ違った人も特にわたし達を気にしている様子もなく、しっかり風景に溶け込めている。河川敷まではとりあえずわたしが道をよく知っているので先導する格好で、後ろに着いてきている親友の姿を時々確認しながらしっかり前を向いてフォームの確認をする。2週間前に走った時に感じた事だけれど、やっぱり足の運びは全盛期の頃と比べるとぎこちなく、スピードをある程度上げてしまったらすぐに息が上がってしまいそうな感覚。
「今日のコンディションはどう?」
後ろから声が聞こえたので、
「まだ硬いかも。身体温まってこない」
と返答したところ、
「リラーックス!」
という単語を伝えられた。そこからなるべく自然体を意識して『いい時の感覚』を思い出してみることにした。ある曲がり角までやってきた時不意に『陸さん』の事が思い出された。もしかしたらこうやって走っている時に偶然彼が通りがかる事もあるという事が意識される。恥ずかしい事をしているわけではないし彼にはわたしがランニングをする事を伝えている。想像が想像を呼ぶように、頭の中で色んなイメージが駆け巡ってゆく。
<そういえばロードを走っている時、色んな事考えたなぁ>
田舎の道では時々不思議な光景を見る事がある。思わぬ場所で犬の散歩をしている人とすれ違ったり、道端に持ち主不明の落とし物が見つかったり。基本的には田んぼだらけの『何もない』光景なはずなのに、だからなのかちょっとしたものでも目立ってしまう。この街はほとんど平らで走り易いし、道中に『怪しげな看板』があったりという事もない。
「そろそろ広場だね」
「走るとあっという間だ」
広場に着いて一度クールダウン。ランニング用のポーチに持ってきたドリンクがとても美味しい。
「まだ越してきたばかりだけど、この街はわたしに合うような気がする」
「どういうところが?」
「空気…かな?」
自分と同じようにドリンクを飲みながらタオルで汗をぬぐう姿を見て、
<わたし達って結構『さま』になっているかも>
などと思うのだった。




