プレゼンス
それは思ってもみないメッセージだった。週の前半に気合が入り過ぎた事と低気圧の通過でなんとなくゆったりしたい気分になっていた木曜の昼休み、普段はわたしの側からメッセージを送っている陸さんが
『突然なんですけど今度どこかで会ってお話してみたいのですが、どうでしょうか?』
というメッセージをわたしに。視認して一瞬思考停止しかけたわたしは何かの間違いかも知れないと思ってもう一度確認して、紛れもなく陸さんからのメッセージである事を確かめたとき、色んな想像が頭を駆け巡った。職場だったので動揺を悟られないように辺りを見回してから、
「どうしよう…」
と小さく呟いてしまった。怜との事も結構自分としては楽しいけれど『一生懸命』というタイミングで、陸さんの事も同時進行で進んでゆくと軽くキャパをオーバーしそうになる。ただ、なんとなくだけれどこの誘いを断ったらそれ以上親しくなるのは難しいかもと思い、
『わたしだったら是非』
と送信して様子を伺ってみた。思いのほか返事は早く、
『それだったら都合の良い日にちを教えてもらえるとありがたいです。場所は近場のカフェでと思っています』
『土日は大丈夫です』
『そしたら土曜日の10時に『プレゼンス』というカフェで。ご存知ですか?』
『場所は分かります』
という風にとんとん拍子で予定が決まった。そのお店は2年前の夏にオープンしたと記憶している。外装が洋風で目を惹くのでオープンしてすぐに一度入店してみた事がある。ハンナが家に来る直前で、今は家に居る事も多くなったけれど当時はカフェを始めとして外食もよくしていた。カフェに行く事もわりと久しぶりになるから、少しだけワクワクする気分。今週の土日については怜の都合でランニングはお預けになっていた事がある意味で丁度良かった。
<何を話せばいいのかな>
素朴にそう感じたわたし。実際対面でなくともメッセージ上でやり取りする事に慣れてしまっている面があって、いざ直に会うと話そうと思っている事が浮かばなかったりするもの。というよりも、陸さんがわたしとどんな話がしたいと考えているのかは気になる。メッセージ上で訊ねてみることも出来るけれど、それだと何となく味気ない気もする。窓辺に立って空模様を確かめ、その後階下を見下ろすような格好で少しぼんやり想像していた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
予定を楽しみにというモチベーションで週を乗り切って土曜日の朝、ハンナはわたしがソワソワしている様子だからなのか頻りに足元に近寄ってくる。
「ちょっとだけ出掛けてくるね。じゃあ今おやつあげよう」
気温は暑くもなく寒くもない好天に恵まれた日で窓からもスッキリした青空が見える。その日のハンナにあげたおやつは『類似品』の方にすり替わっていていたけれど、実は数日前に夢の中で『おやつ違うの食べたい』と突然要求されたのがその理由。人間と同じでときどき違うものを食べたくなることもあるのかなと思う。そういえばハンナの能力を信じたらしい怜が、
『ハンナの能力を活かして何か彼女の為になることが出来るだろうか?』
という質問をわたしに送ってきた。新しい職場で相当多忙になったらしいけれど、その上ハンナの事も考えようとするのは頭が疲れるだろうと思うけれど真面目な性格なのでたぶんまた色々考えているに違いない。黒い長毛のハンナは尻尾が細く長いので類似品を必死に舐めとっている姿は『お猿さん』を想像させる。身体は小さいけれど明らかに俊敏で、ビックリしたりするとバタバタと動き回る。能力があろうとなかろうと愛らしい事には変わりない。
そんなハンナにはしばしの間お留守番をしてもらう。10時前に家を出て、そのコーデで良かったかなと少し不安になりつつも浮かれ気味に店まで歩いた。早めに着くようにと家を出たのが幸いしたのか、なんと途中で道の角から曲がってきた見覚えのある姿とばったり。
「陸さん!」
「うわ!ピッタリですね」
どちらにしても店はすぐ近くなのだけれど、こうやってタイミングが偶然一致すると嬉しかったりするもの。
「家そちらの方なんですね」
「そうですね、そこの通りにあります」
さり気なかったけれど陸さんの自宅の位置が分かったのでこれも嬉しい。
「ハンナちゃんはお留守番ですね」
「そうですね。陸さんも猫好きだとは思ってなかったです」
「今日は猫の話もしたかったので」
そう答える彼の表情はとても爽やか。今日は黒のコーデでクリエイターだからなのか服選びのセンスを感じる。
「今日は華やかな感じですね。おしゃれでとてもいいと思います」
服装を褒めてもらったのでちょっと自信が出ている。そんな話をしている間に目的地に到着。『プレゼンス』は開店が10時きっかりなので、少しだけ店の前で待った。あんまり人の顔をじろじろ見るのも良くないとは思ったけれど、その時目元をチェックして前みたいに疲れてそうではなかったので安心した。開店して入店後、記憶の中にある内装と比べてみて、そんなに変わったところは無さそうだと感じた。窓側の席について、
「ここネット環境も整っているので、ちょっとした作業をすることもあります」
と教えてもらう。わたしの方からもオープン当初に訪れた時の事を話した。
「ハンナちゃん、ネットで飼い主募集してたんですね。猫は本当にそういう話が多くてその度に自分も飼いたいとは思うんですけど、飼うとすると『責任』を感じてしまいます」
「そうですね。わたしは実家にも猫が居るので、ある程度の事は対応できると思ってたのが大きかったです」
「この世界は人間だけのものではないですし、作品の中にもそういうメッセージは時々入れてみたりしています」
直接この話をしてみて感じることだけれどその時の彼の真面目な表情や声のトーンはある意味でネットでのイメージ通りでほんの少しだけ身構えてしまったというか、どう表現したらいいものかわからない感情を抱いた。
「あ、でも今日はそういう話だけをしたいんじゃないです。なんというか、香純さんとメッセージのやり取りをしているうちに、どういう人なんだろうと思う部分が強くなっていった感じです」
「わたし変でしたか?」
話しながら一緒に店特製のブレンドのコーヒーを注文する。前に来た時に感じていたであろう穏やかな雰囲気をその場所に感じながら会話はますます弾んでゆく。
「ぜんぜん変じゃないです。どちらかというと安心しますね」
「安心ですか?」
わたしは『安心』という言葉をすこし不思議に感じていた。自分が人にどういう印象を与えるのかあまり考えてこなかった事もあるけれど、そう見られているのだとすると…
「なんだろう。桜を一緒に見た時もそうだったんですけど、同じものを見て感動し合っているのって素直にいいなぁって思うタイプなんですよ」
「そういえばわたしもそうかも知れないですね。自分で言うのもなんですけど、わたしあんまり個性が無いっていうか…友達に比べると『普通』だなって感じてたんです」
陸さんを前に自分の思っていることを自然に話している。
「『普通』っていう言葉も難しいとは思ってるんですが、今は『普通』の人の方が珍しいとか、ちょっと感じる事があります」
「じゃあわたし珍しいんだ」
そう言うと陸さんが微笑んだ。自分なりにお道化たつもりだったので、ちゃんと微笑んでくれたことが嬉しい。
「でもわたし、今月から友人と『ランニング』始めるつもりなんですよ」
「え!?」
そのときの彼の驚いた様子は結構レアだったんじゃないかと思う。
「そんな風には見えませんか?」
「いや、意外だなって思っちゃいました」
そこで中学から同じ陸上部だった親友がいること、たまたまこちらに引っ越してきたことを説明した。
「凄いですね。僕はあんまり運動をしてこなかった人間ですがアスリートは尊敬の眼差しで見てます」
「わたしは『アスリート』っていう感じではないんですけど、ただ走るのは好きだったんです」
「走る事ですか」
そう言ってからしばらく何かを考えるような表情になった。眼鏡の印象も強いけれどそこからでもぱっちりした瞳が澄んでいて、なんとなくその視線からも気持ちが読み取れそうにも感じる。
「格好いいなって思いました」
一瞬耳を疑ったのはその言葉を聞いたとき。
「格好いいですか?」
ただ訊き返すだけになってしまったけれど、その後も「はい」と言われただけ。そこでわたしは怜がわたしの目の前を走っている姿を思い浮かべていた。
<確かに怜は走っている時、格好よく見えた>
見た目とか、スタイルとかの良しあしもあるけれど、前を向いてひたむきに走る姿は純粋に素敵だった。コーヒーが運ばれて、店員さんは「ごゆっくりどうぞ」と温かく伝えてくれる。その後陸さんは好きな映画だったり音楽だったり、わたしに訊ねてわたしも同じことを訊ねるというかたちで会話が進んで行った。久々に飲んだ本格的なコーヒーの味は少し甘味があるように感じて以前よりは自分がコーヒーを味わえるようになっているかもなと感じた。会話を続けて行って、確かにお互いがどういう人物であるのか理解は深まる。ホラー映画が好きだと言った時には意外だと思ったりもしたけれど、音楽の趣味も結構近いと感じてわたしとしても『安心』できる。
ただ何故か『知りたい何か』は少し別の所にあるような感じがしている。それをどう切り出していったらいいのか自分でも分からないまま時間は過ぎてゆく。ゆとりのある空間は窓からの明かりでますます心地よいものに。
「『Pearl』という作品、幻想的な世界ですね。異世界を描いたものですよね」
今度はわたしの方から陸さんのある作品について感想を伝えた。
「あれは結構上手く行きましたね。異世界の夜景を描けないかなって思って想像が膨らんで。でも『異世界』って不思議な言葉だと思いませんか?」
「不思議ですか?」
「異世界があるのかないのか分からないけれど、異世界って言われると本当にそんな世界があるように思えてくる」
「確かにそうですね。異世界ってどれくらいあるのかも分からないですよね」
「なんなんでしょうね。それを見た時に沸き立つ心って」
「ロマンチックですね」
その後、こんな事をわたしに言った陸さん。
「でも、異世界に猫とかが居なかったら魅力は半減するかもなぁ。やっぱり貴女みたいな人がいて欲しいかも」
「えっ?」
「僕、この場所も好きですし。こうやって誰かと過ごす時間はやっぱりいいです」
陸さんがわたしに伝えた事の意味とその曇りない笑顔はわたしの心を満たすようにも感じられた。




