新年度
4月に入り、その日を境に気持ちは切り替わる。週末の楽しい余韻をほんの少しだけ引きずったままでいたい気持ちもあったけれど、やっぱり職場では一層気を引き締めて新しい気持ちで進めてゆきましょうという訓示が与えられたりすると雰囲気は変わってくる。大きな会社ではないけれど近年業績を伸ばしている為にモチベーションの高い同僚も居てその人から見習うことも多く、
「友達とちょっとランニング始めようと思ってまして」
なんて話してみたら『それはいいね!俺も筋トレの効果がだんだん出てきたよ』とバイタリティーのあるスマイルで応えてくれた。ただ何だろうか、いわゆる『筋トレ』と微妙にモチベーションの質が違うと感じてしまうのは。自分を鍛えたいというより、純粋に『走りたい』という気持ちの違いというのか。それでも新しいことを始めると生活に張りが出るのは間違いないこと。出社する方向が大きく違うために朝一緒になることはなかった相棒の怜は一体どういう新年度を迎えているのか、実はあんまり想像できていない。とにかく責任が重そうということだけは想像できる。
それ以外の心境の変化らしきものがあるといえば、やっぱり陸さんのことになるだろうか。平日でもスーパーだったり、ドラッグストアだったりに立ち寄った際に「もしかしたら」と思ってしまう自分がいる。それは淡い、もしくは甘い期待だったりするのかも知れないけれど、彼との出会い方からして何か特別なことを感じてしまったからなのか何かの巡り合わせで偶然出かける時間帯が合ってちょっと話ができたりする機会がありそうと感じて、だからなのか近場を歩いているだけでもソワソワしてしまう時もある。久々に走った影響で太もも辺りに筋肉痛をわずかに感じていた日の夕方に再びドラッグストアに寄って、ハンナのために今度も『正規品』を購入しようとしたとき、念のため店内をぐるっと見回ってみたけれどお目当ての人の姿は無く、そのときふと頭の中でニヤニヤしている誰かのイメージが、
『そんなに気になるんだったら連絡すればいいんだよ』
とわたしに語りかけてきた…ように感じた。正直自分がここまで「飢え」に似たものを感じているとは思ってもみなかった。変な意味ではなく、いざ気持ちが前向きになったら押さえ込んでいた何かが噴き出してきてしまったようで、ときどき妄想めいたことを考えてしまう自分が恥ずかしい感じ。でもわたしの方から積極的にできるのは連絡先を聞くのが今のところ限界だったみたいで、あとは何か「運命」の導きのようなものに任せているような気がする。
けれど「運命」というのはそれほど分かり易くはできていないようにも感じる。
また別の日楽しみにしていた漫画の新刊の発売日で、せっかくだから少し大きめの書店を覗いた。漫画だけではなくて、やっぱり自己啓発系の書籍も合わせて買った方が何となくバランスが取れているように感じる今日この頃、目的の漫画といくつか自分の心に留まったフレーズが載っている書籍を選んでみて、そのほかに何かあるかなと店内をうろうろしてみたところ、普段なら気に留めていなかった隅の方の棚であるものを見つけた。
<あ、イラスト集ってここに揃ってるんだ!>
陸さん繋がりで、いわゆるネットで活動している絵師さんの具体的な仕事についても個人的に調べ始めていたところ、ある人が自作の「イラスト集」を宣伝している投稿を見てそれに興味を持った。イラスト集を買う人はどういう人なのか自分はあまり想像はできていないけれど、少しその場にあるものを眺めていると幻想的なものから、美しいもの、少し奇妙なもの、と色んな画風のバリエーションがあると分かって、ちょっと違う世界を知れた感じ。わたしは特に人物、キャラクター画だけではなくてどちらかというと陸さんのように背景がしっかり描かれて人物は少し素朴にも見える感じのイラストが好きだということに気付いた。特に見た瞬間に『際立っている』と感じられる雰囲気のある表紙の画集を手に取ったとき、純粋に「欲しい」と感じてしまった。
『こんな世界は存在しないのかも知れない』
一言でその感想を言い表せばそうなってしまう。でも、胸がときめいてその世界をもっと見ていたくなる。夢とも現実ともちょっと違う、何か幻想的な世界。でも、日常にも入り口があるような気さえする、そんな世界観。その一角で思いの外自分の感じている内容の豊富さに感動しつつ、その人の画集はそのまま棚に返すことはしなかった。
自宅に帰って機嫌がいいのかカーテンからはみ出して丸くなって眠り始めたハンナの姿を見届けてから、購入した画集を一度手早く眺めてみた。描き込まれているものをじっくり眺め始めると永遠に終わらない感じがして、わたしはとにかくその本の中で自分が何度も見返したくなるシーンが絵ががれているページを探した。
「海!」
それは夜の海と星空の世界の絵だった。星が何かの模様のように、夜の世界を取り巻いて海は静かに佇んでいるかのよう。穏やかな世界で、人の姿がない本当だったら少し寂しいようにも思えそうなのに、全然そういうことはなくて、世界を見つめる「温かい眼差し」がそこにあるような感じがした。美術の成績が壊滅的だったのに、大人になってこういう感じ方ができるようになっていることに驚いた。こんな絵が描ける人はどんな人なんだろうと思ってネットで検索してみたところ、その人はある意味ではかなり知名度が高くこの画集の他にも作品集が存在しているらしい。
少しどうなのかなと思ったりもしたけれど、
『わたし今日、この人のこの作品を買いました。すごく有名な方の作品みたいで』
と陸さんに勢いでメッセージを送ってしまった。その時はすぐに反応があって、
『その方、僕の『憧れの人』なんです』
という返事に一瞬ドキッとしてしまう。そのあと続けて、
『自分の作品その人をリスペクトしてて、背景とかしっかり描き込むのはその人の影響です』
と届く。どういう風に反応したらいいのかとても迷ったけれど、
『わたしはこの人の作品凄く好きですけど、でも陸さんの河津桜の絵もそうですし陸さんは人物の表情や仕草が、、なんていうんでしょうか、わたしは好きです』
と素直に思っていることを伝えてみた。
『そう言っていただけて嬉しいです。僕はまだ正直スタイルを確立できてはいないんです。だからこれからも変わってゆく可能性がありますし、そうなると仕事の内容も変わってゆくかも知れない。この人しか描けないというものを持っている人は強いですね』
その言葉はわたしの胸に刺さるというか、何か強いものを感じてしまった。この辺りの話になってくると軽はずみなことは言えないと思ったので、
『何かわたしがお手伝いできることがあれば、ぜひ』
と。『香純さんと話していると発見があります』というその後のメッセージでこのまま続けていても良さそうに感じた。アーティストとしての陸さん、つまり「Asita」さんに対してのメッセージ。そのつもりだからその返事で十分なのだけれど、何故だか。
そんな微妙すぎる想いを抱えたまま眠ったからなのかその夜は特別に変な夢を見た。前とは違う若々しい魔女っぽい姿をしたお姉さんが現れてわたしに指とアイコンタクトで何かを伝えている。上の方に向けられた人差し指、そしてわたしが何故か股の下に抱え込んでいる「箒」。
『飛んでいいんですか?』
というわたしの問いに嬉しそうにうんうんうなづいている。それに従うように思い切って地面を蹴飛ばしたわたしの身体は宙に…浮かぶことなく、ただその場でジャンプしただけだった。あまりに勢いよく飛び上がったものだから着地後転倒してしまって痛がっているところに、ハンナの姿があった。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
『大丈夫じゃない。痛い』
夢の中でも痛いと感じてしまうのは完全にバグだと思うけれど、少しハンナにぺろぺろと頭を舐めてもらって慰めてもらった。
『ありがとうハンナ。そういえば、この前「怜」あの『いい匂いのお姉ちゃん』がきた時、二人きりになって一緒に何してたの?』
運よくハンナに確かめたいことを思い出して質問したところとても想定外の答えが返ってきた。
「アタシただお姉さんに撫でてもらってただけだよ。だからお姉さんも舐めてあげた」
『え?それだけ?』
「うん。嬉しかった」
翌日おかしいなと思いつつも朝起きてすぐその夢の中での会話の内容をそのまま文章にして怜に送りつけた。すると怜はこんな長文を送り返してきた。
『なるほど。わたしはその言葉でハンナの能力を確信しました。何故かというと、わたしは実験と称して【特に何もしなかったから】です。香純を疑っているわけじゃなくて、香純だったら多分わたしが何か特殊なことをするはずだと思っていたことを逆手に取れるでしょ?そしてハンナが言った通り、わたしはハンナとしっかりスキンシップを取っていた。そしてその『情報』が香純から伝わってきたということは、ハンナの能力は疑いようがない』
朝っぱらからいきなり脳がフル回転しているなと感心してしまったけれど、とにかく怜には満足の結果だったらしいことが分かる。相変わらず、怜らしいといえば怜らしいのかも知れない。




