Action.05 次の一歩を踏み出す前に
私がバスを出て行ってから、十分程度しか経っていないと聞かされた。マサル君達とのやり取りを踏まえると、あの無音の世界に居た時間はまるっと無かった事になる。
……不思議と驚きは少ない、少し感覚が麻痺してしまっているのかも。
人混みを後にして、文香と一緒にとりあえずバス停の方へと歩いていく。 もうバスは行っちゃったみたいだけど。
人っ子ひとりいなかったはずの通りでは今や沢山の人々が、思い思いに自分の時間を過ごしている。
いつもどおりの町の風景。
「もう、本当にビックリしたんだよ?」
顔を合わせてから平謝りを繰り返す私に対して、そう言ってこちらをジッと見つめてくる文香。私より少し背の低い親友の上目遣いは明らかに不服といった様子だった。
「バスが開いたら急に飛び出して行っちゃうんだもん。私、何事かと思っちゃった」
「……あー、はは。えっと……」
いや本当、何事なんだろう。それは客観的にどう取り繕っても奇行としか言いようがないんだけど……。
これも記憶の擦り合わせとかいうやつなんだろうか?
それにしたってなんかこう、もっと上手く誤魔化せなかったの?
「慌てて追いかけようとしたのに、料金払って降りた時にはもう見えなくなってるし……」
私は天下の往来をどれだけ全力疾走したんだろうか。変人度合いが加速する。
「ちょっと迷ってこっちかなって行ってみた所には、すっごい人が集まってるし。輪の真ん中にさっちゃん居るし」
「うぅ……」
「突然イリュージョニストにでも目覚めたのかな、って思った」
「そんな奇抜なパフォーマンスしないよ……」
皮肉なのか天然なのか判断に困る。
基本的には見た印象の通りに理知的な女の子なんだけど、たまに本気で今みたいな事言うからなぁ……。
ただ眉間の小さなシワと、ほんの僅かにむくれた頬から怒っているのは確実だ。
……うぅ、そう、すごく怒ってる。話を聞く限りじゃ、当然だとは思うけど……。
「――そしたら子供を助けたって周りの人達が言ってるんだもん……それが一番ビックリしたよ」
「それは……」
違う、とも言えない。
本当の事なんてどう話していいのかもわからない。
「助けようと思って飛び出したの?」
「えぇ?」
交差点を曲がった先で起きかけた事故、位置的にも時間的にも、バスの中から確認出来たはずがない。
にもかかわらず文香の瞳は妙に真剣だった。
「さっちゃんみたいなヒーロー大好き人間には、困ってる人発見センサーみたいな? そんな力があったりして」
「あーはは……そう、かも……」
突拍子のない話であると自覚はあるのか、少し茶目っぽくは言っているけど、割と真面目な顔でそんな考察をする文香に曖昧に同調する。これは多分、天然で言ってるかな。
「やっぱり。虫の知らせってよく言うもんね。人一倍正義感が強い人は誰かのピンチにも気付ける事があるのかも」
「うん……」
「だったら凄いよね。さっちゃん、本当のヒーローみたい!」
ヒーロー……。
そんな事ないよ、とか。
そうかもね、なんて。
軽く言ってしまえばきっと、文香もそんな事もあるんだと納得してくれそうだ。
「違うよ」
でも私の口をついて出てきたのは、そのどちらでもなかった。
「違う。私そんな人間じゃない……そんな人間じゃ、なかったんだ……」
言いながら歩みを止めていた。
ヒーロー大好き人間だなんて文香は言った。
自分自身、そう思っていた。
だから、心のどこかで思っていたんだと思う。いざって時には誰かの為に動く事が出来る、そんな人だと信じていた。
でもそれはただの思い込みだったんだ。
「ごめん、上手に説明出来なくて。でも、あの子が危ない目に合っていたのを見た時、私――逃げなきゃ、って……思ってた」
英雄願望なんて持ってた訳じゃない。
それでも彼等を好きな自分には、少しくらいその心意気が宿っていると思っていたのに。
作り物だって知ってても、それを愛する事は確かに私の誇りであるはずだった。
結果はあの有様だ。そんな自分、知りたくなかった。
「さっちゃん……?」
俯く私の顔を、文香が心配そうに覗き込んでくる。
「一言にヒーローって言ってもね、色々なタイプの人が居るんだ。どれもみんな違った魅力があるけど、私はやっぱり誰かの為に頑張る、優しいヒーローが一番好き」
目線を地に落としたまま言葉を紡ぎ続ける。それはもう会話ではなく、ただの独白だった。
「なのに私は、誰かが困っている時でも自分が一番かわいくて、一歩も動けなくなっちゃった」
右手の指先が無意識に、左手首の腕輪に触れる。
「自分からちゃんと手を伸ばして助けた訳じゃなくって……偶然なんだよ。偶然、近くに居ただけで……」
この腕輪がなかったら、何も出来ないままだった。指先が腕輪の溝を軽く撫でる、本当に最後、踏み止まれたのは全部白き盾という力のおかげだ。
「だから私は、全然ヒーローなんかじゃないんだよ」
最後の言葉は自分でも分かるくらい、自嘲の篭ったものだった。
また、あの影は襲ってくるのかな。
そしたらまた、誰かが危険な目に合ってしまうのかもしれない。
……もう逃げない。その気持ちは今も揺るいでいない、だからこの告白は一つのケジメみたいなもの。
――――つまりは『変身』って事なのかな。
友達の安否を知る事を恐れて、か弱い子供を見捨てる所だった。そんな私の弱さに見切りをつけて、前に進む為の禊。
意味のわからない話に一方的に付き合わされる文香には、ちょっと申し訳ないと思うけど。
「ごめんね、変な事言っちゃって。そろそろ――」
「変なの」
「えっ? ああ……だよね! 急にこんな話、困っちゃうよね」
「そうじゃなくって……だって、人助けしてこんなにくよくよしてる人、初めて見たから」
文香は不思議そうに目をパチクリさせている。
伏せている私の顔を覗き見てから、その表情を曇らせた。
「なんでそんなに泣きそうな顔してるの?」
「泣きそう……?」
そんな顔してる?
マサル君にも、似たような事を言われたけど。
――――そんなはず無い。
確かにちょっとはヘコんだけど、今はこれから前に進もうって、覚悟を決めた所なんだから。
だって、私は弱かったから。あんな自分は嫌いだから。
だから変わらなきゃ、駄目なんだ……! 今なら力も持っている。あの時みたく情けない事にはもうならない。
……心臓がギリギリと締め付けられる感覚がする。
痛い――胸が、苦しい。息が苦しい。
内臓全部が鉛に置き換わってしまったみたいに、身体が重くて潰されてしまいそう。
でも大丈夫。これはきっと決意の証なんだ。
大丈夫。次にアイツが出てきても、今度は最初っから立ち向かって、私がやっつけてやるんだから。戦って、勝って、みんなを守ってみせるから。
だから、お願い――――。
「許して………………」
戦っている時は必死だった。その後も状況に振り回されっぱなしで……今やっと。
ずっとずっと止めていた息をやっと吐き出すように、そんな言葉が溢れた。
逃げようとして、立ち向かえなくて、見捨てようとしてごめんなさい。
それは誰に対する謝罪なのか。親友か、目の前で消えかけた小さな命か、私が信じていた者達に対してなのか、あるいはその全部か。自分の気持ちがよく分からない。
私は、ヒーローが好きなんじゃなかったの?
彼等の生き様を、尊いと信じていたんじゃなかったの?
なんで……。
「なんで私が、あんな、目に……」
次いで出てきたのはそんな泣き言。
巻き込まれなければ、ただただ好きでいられたのに。画面越しにかっこいいって、次どうなるんだろうって、楽しみにしていられたのに。
少しだけ、勇気や優しさを受け取っていると思えていたのに。
あの自分を知ってしまってはもう、今までみたいにはいられない。
今や右手は、ドライアイスにでも触れてしまっている様に腕輪から離れない。感覚すらもなくなっていた。
――でもこの腕輪が力を貸してくれた時、そんな私でも少しは勇気を出せたんだ。
だから変わらないと。そう、これからこの鎧を使う為にも。
あの声が呼びかけてくれる前までの、惨めな自分なんて捨てて――――!
「泣かないで」
「……泣いてないよ」
文香はそれ以上なにも言わず、ポケットからハンカチを取り出すとそのまま私の目元を拭う。
「強がりさんなんだから」
「あ……」
拭き終えたハンカチは濡れていた。
気づかなかった……。私、泣いてたんだ。
「強がってた訳じゃ……」
「それに、さっきからさっちゃんの言ってる事全然わからないよ。あの男の子は無事だったんでしょ? なんでそんなに辛そうなの? ……嬉しくないの?」
「そっ、それはっ……」
別れ際、元気よく手を振ってくれたマサル君、涙ながらに息子を抱きしめていたお母さん。
その光景と、自分の胸のうちに暖かいものが広がっていく感覚を覚えている。
「――嬉しかったよ。当たり前でしょ……!」
「だったら」
「でもっ……さっきも言ったでしょ? 私、何も出来なかった……」
「偶然、近くに居ただけ?」
「そう、だよ……」
「自分から動けなかった」
「うん……」
「だから自分が許せないんだね」
文香の手が私の右手に重ねられてはっとする。張り付いたように腕輪から離れない手を、優しく包み込むみたい。
「自分が……」
それは――それこそ当たり前。決まってる。
あんな私のままじゃ……。
「一つ訂正しないとね。さっちゃんはヒーロー大好き人間じゃなかった」
「……」
その通りだと思う。
今まで愛してきたものに何も応えられなかった自分には、そんな風に呼ばれる資格はない。
「ヒーロー馬鹿だったんだね」
「……ばか?」
「……お馬鹿さん?」
「いや、敬称が引っかかった訳じゃなくって」
ヒーロー馬鹿って……。
「だって、結局さっちゃんはヒーローみたいに振る舞えなかった事が悔しいんでしょ?」
「――っ! それは」
「難しく考え過ぎちゃってるんだよ。大事に思い過ぎて、普通の人じゃ悩まない事でショック受けちゃってる。だからヒーローお馬鹿さんがぴったりかなって」
「何も出来なかったのはただの事実だよ」
「ううん、違うよ」
重ねられていた文香の両手が私の右手を掬い上げると、腕輪から容易く剥がれたその手を包み込んだ。
その指先から少しずつ、鈍くなった感覚が戻ってくる。
「この手があの子を助けたんだよ。偶然近くに居ただけなのかも知れないし、手を伸ばす事が出来なかったのかも知れない。でも最後にあの子の手を掴んだのさっちゃんでしょ?」
「でも、私怖くて……逃げたいって……」
「そんなの誰だってそうだよ、それが命に関わるようなことなら尚更、怖いのなんて当たり前。だって怖いって思えない人が、助けたいなんて思える訳無いんだから」
握られた手に力が入る。
「だからややこしく考える事ないよ、もっと簡単。偶然、そこに居たのが――さっちゃんで良かったねって、ただそれだけの話だと思うな」
「私で、良かった?」
「そうだよ、だってあの子は無事だったんだから。さっちゃんだからきっと掴めたんじゃないかな」
変な感じ。本当の事なんて何も言えてないのに、その言葉は確かに私の胸中に溢れるモヤモヤした気持ちを解きほぐしていく。
「……見てきたみたいに言うんだね」
「うーん、見てはないけど。でも分かるよ、だってさっちゃんの事はずっと見てきたから」
「なにそれ……わかんないよ」
私の手を包んだままに、文香は両手を胸の高さまで持ち上げるとにこりと微笑んで。
「怖くても、逃げたいって思っても……きっと一生懸命頑張ったんだよ、さっちゃんはそんな優しい人だって、私は知ってるもん」
「……っ」
その一言でやっと……ぐちゃぐちゃで澱んでいた自分の気持ちを理解する事が出来た。
自分の事が許せなくて。
でもそんな自分に許して欲しかったのも……私自身だったんだ。
あの出来事の全てを知っているのは私だけだったから、誰の感謝も受け取る訳にはいかなくて。
結局私は、許して欲しいと思う自分を切り捨てる事で自身を納得させようとして。
目を逸らしただけなのに、前に進むだなんて誤魔化した。
そんな考えで自分を変えるなんて、出来る訳もないのに……。
それが心に差す暗い影の正体。
酷い話だ。全部私の一人相撲で、間違った答えを出したままで完結させようとしていた。
――そこで考えるのをやめる所だった。
「完璧にこなせなくったってしょうがないよ。あの子は助かったんだから――――お疲れ様。あそこに行ったのがさっちゃんで……幸運だったね」
そんな私が否定した自分自身の事を、受け入れてくれる友達がもしも居なかったら……。
自分が、優しい人だなんて自惚れる事は出来ない。こんなにも、暖かな優しさを受け取った直後ならなおさらだ。
でも、
――――もしも己の無力を呪い、自らの手で道を切り開こうと願うなら――――
あの時真っ先に何を思ったのか。
助けたいと、今も私に温もりを伝えてくれるこの手を失いたくないと思ったんだ。
そしてそう思わせてくれたのは紛れもなく。
――――画面の向こうに合わせる顔がない。そんな自分にだけは、なりたくない! ――――
私の心の奥底に根付いていたもの。
愛したみんなの魂の一欠片。
受け取っていたものは――あったんだ。
そうだよ。弱くったって、私は私なりに……頑張った。今はこれで良かったんだ。
これから『変身』するんだったら……今の自分を受け入れて、そこから進んで行かなきゃ駄目なんだ。
「私は、私でいいのかな」
「さっちゃんは、さっちゃんだからいいんだよ。落ち着いた?」
「うん……」
「じゃあそろそろ行こっか、いつまでもこうしてたら目立っちゃう」
握っていた手をパッと開いて文香が笑いかけてくれる。
「え?」
ふと周りを見回すと、歩いている人達が訝しげに時折視線を向けている。立ち止まる事なく過ぎ去っては行くけど、なんで…………あ!
――――私が泣いちゃってたから!?
かぁっ、と目の下の辺りが熱を持つ。どうしよう、周りの人達なんて全く目に入ってなかった!
「う、うん。はやくいこっ……!」
多分赤くなってしまっている顔を伏せて歩き始める。私の都合で散々立ち話させた癖にこの言いよう。
自分の事ながら酷い。
でも今は許して欲しい。恥ずかしさのあまり、言葉も態度も選ぶ余裕はなかった。ごめん……。
少し歩いてようやく落ち着きを取り戻してきた頃、文香が不思議そうに話し始めた。
「それにしても、さっちゃんは悩み方が斜め上過ぎるよ。最初なんの事かと思っちゃった」
「うぅ、ごもっともです……ごめんなさい」
「別に謝る事じゃないけどね」
あそこであった事を正確に把握してるのは私だけだから当然だよね。
それでも文香がしっかり話を聞いてくれたおかげで、私は自分の事をちゃんと認める事が出来た。
「文香――――ありがと」
ずっと一緒に居てくれて……なんて言葉までは流石に照れくさいけど。
私が胸の内に抱え込んでいた黒いモヤを晴らす事が出来たのは文香のおかげだ。
ずっと私の事を見てきたって言ってくれたけど、まるで本当に私の事を全部理解しているみたいで、ちょっとこそばゆい。
「お礼もいいよ……でも不思議。そんなに思いつめてたなんて。だってそのブレスレット、絶対人助けした後にノリノリで着けたんだと思ってたから」
「全然違うよ」
いやいやそんな子どもっぽい……。
え? まさかそんな事するイメージ持ってるの?
前言撤回。
文香の目に映る私の理解は、精神年齢的に正しくない。上方修正が必要みたいだ。
「私もう高校生だよ? そんなはしゃぎ方しないって」
「え、じゃあなんで腕に着けたの?」
……それもそうだ。でも説明のしようなんて……。
「ひ、必要に駆られて仕方なく……ね」
嘘は言ってない。
「ふぅん」
ふむふむ、と納得したように頷く。
「そういう事にしといてあげる」
「あっ、絶対信じてないでしょ! っもう! ホントだってばぁ!」
「はいはい――――似合ってるよ、かっこいいね。それ」
「えっ? そうかな……えへへ」
やっぱり? ……実は私もそう思う。いや元々気に入ってるアイテムではあったけど、角張ったフォルムもクールだし、何より色。『白』っていうのがいいよね! 『白宮』的に。
「ね、せっかく神永通りで降りたんだし、お昼ここで食べよっか。絵を観に行くのは、また今度にしよ」
「え、そんな悪いよ。私は別に……」
「ちょっとここの本屋さんも見たかったし、今の展示は来月までだから――だからまた今度。もし、さっちゃんがまた付き合ってくれるなら……だけど」
正直、体力はかなり限界……戦いの最後に使った技のせいなのかな。長距離マラソンを走りきった後みたいに身体が重い。
なので文香の提案はすごくありがたいものだけど……。
「……うん、じゃあ今度。今度は絶対、一緒に行こっ!」
私の返事に、文香は笑顔を返してくれた。
気を遣ってくれたのかな、そんな気がする。
「私、今日はファミレスがいいな。 CMでやってた新メニュー、気になってたんだ。あの野菜パスタ」
「ああ、私あの豚肉のやつが気になるなー」
疲れ切った筈の身体、だけど歩みは軽やかで。ようやく私は正しく一歩を踏み出せそうだ。
私は、私。
――特別な力を手にした所で、やっぱり私は文香には敵わないみたい。
――――それがなんだか、すごく嬉しかった。