Action.04 帰還と困惑
私と男の子の周りに集まっていた人達の話から、段々と今の状況が分かってきた。
どうやら私はガードレールの間から車道に飛び出した男の子、マサル君を車に轢かれる直前に助け出して共にこの歩道に倒れ込んだ……。
という流れらしいんだけど。
――もちろん、そんな訳ないのは私が一番よく知っている。
立っているので精一杯な疲労感と、今も左手首にしっかりと着いている腕輪が自分の経験した事が嘘じゃないと物語っていた。
「嬢ちゃん、何処も怪我ないか?」
「は、はい。大丈夫、です……」
だけど、みんなはあの現実離れした町や出来事に関する事には一切触れない。
「あら、手にすり傷があるじゃない。ちょっと待っててね」
年配の女性がそう言って自らの手提げカバンをゴソゴソと何やら探し始めた。
……みんな本気で私達の事を心配している。この人達全員が、その目で飛び出すマサル君と私を見たとしか思えないリアクションだった。
「あった。はい、ちょっと手を出してねぇ」
おばあさんが取り出したのはウェットティッシュ。慣れた手つきで二枚重ねると、私の手のひらを拭いてくれる。
「あ、ありがとうございます」
「ふふっ。ちょっと沁みるけど、我慢してね」
ちょっとヒリヒリするけど、大した事はない。おばあさんの触り方はすごく優しかった。
――――あったかい。
手のひらには濡れたティッシュの冷んやりとした感触。
だけど手の甲に添えられた人の温もりを一番に感じて心が安らぐ。
少しだけ落ち着きを取り戻してやっと、あの怪物以外何も無かった世界から帰って来たんだという実感が湧いてきた。
……でも、これって結局どうなってるの?
差し出した手をされるがままに拭われつつ、改めて浮かんだ疑問に答える声があった。
《異界剥離によって起こった現実との齟齬 。その修正の為、事象と記憶の擦り合わせが行われた結果です》
「ひゃっ!」
いきなり脳内に直接響いた声に思わずビクッとしてしまった。
「あら、痛んじゃったかい? ごめんねぇ。もう終わったから安心してね」
「あっ、いえっ! 違くって……。大丈夫です! 本当にありがとうございました!」
謝られてしまった私は大慌てで釈明しながら手を引っ込める。
おばあさんの言う通り、手はすっかり綺麗になっていてすり傷の後もはっきりと分かった。これくらいなら放っておけばすぐ治るかな。
私が声出さなくても会話出来たんだ。
心を読んでるの?
それも気になったけど、それ以上に今の発言が引っかかった。
現実との齟齬。記憶の擦り合わせ。
じゃあ、あれは現実じゃなかったって事?
まさか、そんな……。
「お、目を覚ましたぞ!」
マサル君を囲んでいた人達の内、若い男性のその言葉を聞いて私の意識はそっちに向かう。
おばあさんを含む、私を診てくれていた人達に頭を下げその輪の中へ入っていくと、マサル君が目を擦りながら辺りをキョロキョロと見回している所だった。
「あれ……? 僕……」
キョトンとした表情。
「マサル!」
そのマサル君を抱きしめた一人の女性。
軽くウェーブのかかったロングヘアー。きっと普段であれば落ち着いた、大人の雰囲気を感じさせるであろう整った顔立ち。
その顔が今は不安や後悔、そして安堵、色々な感情が混ぜ合わされたようにクシャクシャに歪んでいた。
瞳からは涙が流れ落ち、目元の化粧が崩れている事に気も止めずマサル君を強く抱きしめていた。
この人はきっと……。
「ママ……?」
「マサル……大丈夫?! どこも痛い所はない?」
マサル君のお母さんは肩を掴んだまま身体を離すと、怪我の有無を調べるために小さな身体の全身に目を走らせ始めた。
「いたい……」
「っ! どこ? どこが痛むの?!」
「ママの、手……」
「えっ?……あっ」
シャツに深いシワが出来るくらいの力で掴んでいた手を、お母さんは慌てて開く。
「ご、ごめんね……他には? 痛いとこ、ある?」
何が何やら、といいたげな顔をぶんぶんと首を横に振るマサル君。
少し眉を寄せた表情が可愛らしくて、私は知らない内に笑みを浮かべていた。
腕輪の声を疑っていた訳じゃないけど、それでもやっぱり不安はあった。
無事そうなマサル君を見て、少し気が抜けちゃったみたい。
親子の様子をしばらくは見守っていた人達。その内の一人の男性が見かねたように母親の肩に手を置いた。
「俺ぁ直接見てたけど、車とぶつかったりはしてないから落ち着きなよ。その前にあの子がしっかり助け出してたからさ」
急に顔を向けられて思わず硬直してしまった私へ、まわりみんなの視線が一斉に集中する。
「ぅ……」
その眼の多くに賞賛の光が見えてとっさに顔を伏せてしまう。
全く身に覚えがない事で受けるその視線は、正直居心地が悪かった。
「ご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません。
あの、本当にありがとうございました。もう、なんといったらいいのか……」
いつの間にかマサル君親子が目の前に来ていて、お母さんは私に深々と頭を下げていた。
「あ、いえそんなっ! 無事で何よりでしたっ」
焦ってそんな当たり障りのない返答しか出てこない。
後ろめたさにいたたまれなくなる。
助けた、それは事実かもしれない。
けど、それはこの腕輪に力を貸して貰えたから。
素の私は、感謝されるような事なんて何一つ出来なかった。
それどころか、危うく彼の事を見捨ててしまう所だったのに……。
「ほら、マサルもお姉さんにお礼を言って?」
「おねえちゃんっ! ありがとうっ!」
マサル君はやたらと大きな声で、がばっと頭を下げる。
……あ、これはあれだ。学校で先生から挨拶なんかを求められた時の言い方。
私も小さい時はこんな感じだったかも。
「ううん、怪我が無くって良かったねっ」
無理もない、きっと状況なんて理解してはいないはずだ。
勢いよくおじぎをするマサル君にちょっと和んで、自然と笑顔を返していた。
「全く、自分の子供くらいしっかり見ておかなきゃ駄目じゃないか」
口を開いたのは老年の男性。お母さんへ向けられたその目線は険しく、言葉には明らかな棘があった。
「……はい。返す言葉もございません。もっとしっかりと、この子と手を繋いでいれば……。皆様、この度は私の不注意でご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
「ママ……?」
集まっていた人達へ再び頭を下げた母親を、マサル君が不安そうに見上げている。
事態を飲み込めずとも、何か自分のせいで母が責められていると察してしまったのかもしれない。
……子供こそ案外、そういった部分には敏感だって事を、私は経験上知っていた。
気がついた時には半歩、おじいさんと母子の間に自分の身体を割り込ませていた。
「それよりもマサル君、早くお医者さんに診てもらった方がいいんじゃないですか?」
マサル君を介抱していた人達からは救急車を呼ぶ必要はないと判断されていた。
それでも、気を失っていた事に対して頭を打った可能性がある、病院には連れて行った方がいいという話が出ていたのはうっすらと聞こえていたのだ。
おじいさんは、なおも何か言おうとしたけど一度口をつぐんでから、
「そうだな、すぐに連れて行ってやりな」
そう言い直してくれた。
ほっと胸を撫で下ろして軽く会釈する。
やっぱり、おじいさんだって悪気があって厳しく当たった訳じゃない。
子供が危険な目にあったんだから、誰かが注意するのは当然だ。
それがもし、単なる親の不注意が原因だとしたら。
――でも今回マサル君が巻き込まれたものは、そんな次元の話じゃなくて……。
もっと得体の知れない、理不尽の塊みたいな何かだ。
もどかしいし、悔しい。
それを知っているのは私だけなのに。
あれ程取り乱して我が子の身を案じていたお母さんは、きっとその手を離してなんていないのに。
証明出来ない事が悔しかった。
そんな胸の内は表に出さないよう意識して笑顔を作ると、二人の方に向き直る。
「お母さん、あんまり騒ぎが大きくなる前に行ってあげて下さい」
見回すと、最初は十人ほどだった周囲の人達が段々と増えてきてる。
道路脇に出来た集まりに、何事かと足を止めて人だかりが大きくなる、その循環が既に始まりつつあった。
本音を言うと、私も早く立ち去りたい。
全身に感じる疲れもある、だけどなにより。
多分、人を待たせてしまっている。
私のせいで、きっと困らせてしまっているはずだ。
「――さっちゃん!?」
聞き馴染んだ声。
そして、ずっとずっと聞きたかった声が耳に届く。
私をそのあだ名で呼んでいるのはただ一人。
「――文香?」
たった今、思い浮かべたその人がいた。
私達を囲う人達の肩と肩の間からひょこっと顔を出している文香は、背伸びでもしているのか少しふらふらしながら、騒ぎの中心にいる私を見て眼鏡の奥の目を丸くしている。
「すみません! 予定があるので、私もそろそろ失礼しますっ」
少し声を張ってそう告げると、幸いにもみんな何も言わずに道を空けてくれた。
一礼してその場を後にしようとした私を呼び止める声が一つ。
「あの、差し支えなければ最後にお名前を教えて頂けないでしょうか」
そう尋ねたのはマサル君のお母さん。
一瞬だけ迷ったけど、特に隠すような事でもない。
「えっと。私、白宮沙月っていいます」
「沙月さん、この恩は決して忘れません。重ねて、今日は本当にありがとうございました」
真っ直ぐに私を見つめる目に応える言葉が見つからない。
私は、そんな事言われる資格なんてないのに。
困った果てに弱々しくかぶりを振るしか出来ない私のすぐ近くまで、いつの間にかマサル君が近づいてきていた。
「おねえちゃん、大丈夫?」
不思議そうな顔をしてそんな事を言う。
大丈夫……? 私が?
私は今、どんな顔をしていたんだろう。
もしかしてこんな小さな子に心配されるような顔を、していたんだろうか。
――――それは、ダメだよね。
屈み込んで片膝をつく、丁度マサル君と同じ目線。ポンと頭に手を置いて、めいいっぱい明るく答える。
「おねーちゃんは大丈夫! でもそろそろ行かなきゃいけないんだ。またね、マサル君」
「そうなの? じゃあ、バイバイ! おねえちゃん」
「綺麗で優しいお母さん、大切にしてあげてね」
母を褒められた事がよほど嬉しかったのか、マサル君の顔がパッと明るく輝いた。
その様子を見下ろしていたお母さんの目も優しげに細められている。
「うん!」
良かった、やっぱり小さい子には笑っていて欲しいもんね。
私は二人に手を振って、随分と待たせてしまった親友の元へと向かった。