Action.13 いつもより早い夜が来る
十二の光に照らされた、小さく閉じた箱庭の世界。
それを見下ろす、人の形をした影があった。その背後には漆黒の太陽。
カラスに似た翼を、背中から広げ宙に浮いている。
全身闇色の長身痩躯、そのシルエットは燕尾服を身に纏い、剃髪をした男のようだ。
しかしよく見れば、服の襟や裾に似た部位も、男の身体から直接生えている。
『燕尾服を着た黒いシルエット』
それが一糸まとわぬ、彼のありのままの姿だった。
証拠に、男の表皮を駆け巡っている赤暗い血管じみた器官。
広げた翼にまで達したそれは全身に認めることができ、常にドクドクと脈打っている。
黒い顔には口や鼻や耳がある、人に限りなく近い作りをしていた。
だが瞳が異質だった。
巡る血管より鮮烈な赤色の眼球、爬虫類めいた黒く縦長の瞳孔。
焦点は定まっておらず、あろうことか、グリグリと不規則に動き回っている。
瞳孔が裏側まで動こうが、平然と地上を眺めていた。
『■■、――――』
男は何事か呟いた。
開いた口内は空洞で、歯や舌は存在していない。全身と同じ暗闇が広がっているだけ。
発した音は理解不能。少なくとも、この世界の理では解析出来ない言語であった。
『■■、■■■ッ! ■■■■■■――!』
何度も何度も口を開く。
まるで楽しげに唄っているように。
やがて。
『■■、ハハハハッ‼︎』
吐き出す音が言葉となった。
低い、高い。声音が幾重にも重なっている。
『何という幸運かッ‼︎』
もはや男は紛れもなく、人語を発して嗤っていた。
この世界の魔力を完全に読み終えた証だった。
内に生きる生物にとっての魔力が、大気、空気のようなものならば。
それを内包する世界にとっての魔力とは、血液であり、またDNAのような機能を持っている。
重ねた歴史、産まれた生命、その全て。
それを魔力を読み解く事で理解する。
本来魔力と同質である、彼等のみが持つ能力だ。
『ハ、ハハッ、まさか。こんな所にあるとはなぁ……! ほんの暇潰しに来ただけなんだが』
男は独りゲラゲラと嗤いながら、忙しなく動き回る両の瞳を一点へと向けた。
ギョロリと剥いた目玉の先には、黒い太陽と同じ高さで、天に浮かぶ十二の光球。
十二の内ひとつは光を失っていたが、それは『そういう造り』なのだと、男は既に理解している。
あれはこの世界の魔力を、循環させる装置だと。
であればアレを掌握する事で、彼の本命の目的を果たせるのだ。
『ク、クククッ! あぁ、遂に凱旋の時が来た‼︎』
男の目的はただ一つ。
かつて、自分という『個』を産み出してくれた、故郷へ再び帰る事。
侵略に必要な門を造るには、豊富な魔力が必要だ。この世界は実に容易かった。
その意味で、彼の故郷は実に厄介な構造をしている。なんといっても魔力が薄い。
あれでは、薄氷で出来た対岸に橋を架けるようなもの。強い存在は踏み込めない。
だがあの光さえあれば、その問題は全て解決するだろう。
『オレの存在に耐えられる魔力を、ここから流し込んでしまえばいいッ……その手段を今手に入れた!』
虚無と呼ばれる存在、その一端としては彼の執着は異常であった。自身にもその自覚はありながら、しかし一切の迷いはない。
親孝行は、しなくてはと。
――虚無からオレへと変えてくれた、『シロミヤ ミツキ』の世界だけは、この手に入れると決めていた。
高揚感に浸りきっていた男が、不意にその口を引き結ぶ。
自分へと向けられた、様々な感情を読み取ったからだ。それらは地上から発せられている。
恐怖、怯え、敵意、焦り――。
好意的なものは一つも無い。
ここに生きる人々のものだった。
『――あぁ、すっかり忘れていた。ここにもまだ、生き物は居たんだったっけ』
正確には、背後の門に対してのものだろう。
この距離では男の姿は見えないだろうし、まだ認識阻害も解いていない。
『安心してくれ、殺しはしない。人間ってヤツは、それですぐに壊れてしまう。駒として使えるのも居るかもしれんし、な』
聞かせるつもりも無い弁明を、男は虚空に吐き出した。
彼等が喰らうのは、知性体の持つ生命力。
そして感情とは、それを育て守る、心の鎧。
『喜』『怒』『哀』『楽』に、『愛』や『憎』。
どれを取っても変わらない。
全ては人の生きる力になる。
生命力を餌としか見ない彼等にとって、感情の正負に意味は無い。
『絶望』は、どの感情からでも辿り着く末路。
生きることを放棄した、守られる事の無い心の姿。
その絶望に堕とす事で、剥き出しの生命力を喰らう、食い尽くせば死に至る。
だからこそ、彼等は人を殺さない。
食い尽くしてしまう事などしない。
存分に貪りながらも、一握りの『希望』を残してやる。
すると、人は再び立ち上がる。
生きる為の力を、己が心に作り出す。
彼等への餌を貢ぎ始める。
抗う事こそ奉仕だと、気付かないままに生きてゆく。
人の全ての営みを、無意味とどこかで嗤う者。
それが、ある所では『ヴォイド』と呼ばれる存在だった。
無論、一個人程度などならば、気にも留めない誤差ではあるが。
『ただし、貴様はダメだ。シロミヤミツキの世界の守り手』
眼下の人々に対する興味は失せたのか、男は言葉をそう継いだ。
軽く指を鳴らす。
背後の門から、漆黒の闇が溢れ出す。
それは人型の影、鳥の姿をした影、猟犬のような影――――。
途方もない数の怪物が、世界を覆い尽くしていく。
『何故、あれ程に魔力の薄い世界で我らを退けられた。生意気にも認識阻害まで扱うとはな――』
指を鳴らす。
門と同等の巨体を持つ怪物が、ずるりと地上へ落ちていく。
『魔術など知らない筈だろう。お前さえ居なければ、とうにオレが、オレの世界を手にしていたのに』
指を鳴らす。
降り注ぐ怪物は更に増える。
『始末された霧の残滓には〈流動〉の、〈水〉の魔力が残っていた。あり得ない話だ。魔力と共に生きられない世界で魔力を使うなど』
指を鳴らす、指を鳴らす、指を鳴らす――。
『だが仲間は居ない。独りなんだろう、それは分かった。ならばお前は、お前にだけは、真の絶望を与えてやろう』
世界を黒く染め上げながら、男は独りで語り続ける。
『あるいはお前を希望としようか。シロミヤミツキが、そうなれなかった代わりとして』
いつしか世界は暗くなっていた。
照らしていたはずの光球は、いまや鳥の怪物にたかられて、光を大地に届ける事が出来なくなっている。
地上から伝わる人の意思は、絶望の一色に包まれて、群がる怪物に蹂躙されていた。
恐怖と痛みが、やはり最も手っ取り早い。
『ハッ、加減を違えて殺すなよ』
右の眼球だけがグルリと下を見て、興味なさげに吐き捨てた。
左眼もまた蠢いて、遠くに見える質素な石造りの城を睨むとぴたりと止まる。
『なかなかの抵抗だ。ではあれを、この世界の希望に据えよう』
やがて男は身を翻し、門を通って世界の外へと帰還する。
くぐり抜ける直前、最後の言葉。
『実際会ってから考えようか、まだ循環器の調整にはしばらく掛かる。それまで精々、世界を愛し、敵を憎んで生きるがいい』
それは終わりゆく世界でなく。
次なる世界、その守護者へ向けた言葉だった。