Action.12 燭台の照らす世界
暖かな光が照らす、下刻の一を過ぎた頃。
広がる草原。
その中に、一つの城が建っていた。
まるで童話の絵本にでも登場しそうな、灰色の岩を積み上げた居城。
あくまで『お城』という括りでいえば、随分と質素な作りに見える。
出入り口なのだろう、土が顔を出した一本道が伸びる場所を除いては、城を取り囲むように樹木が生えている。
人の脛程の高さの草が生い茂る草原の中で完成されたその光景は、明らかに人の手によって作られたものだった。
――城から伸びた道の脇に、一人の少女が佇んでいる。
一本の樹の幹に背を預けて腰を下ろしている少女の歳は十代前半辺りだろうか。小柄な体躯に愛らしいという評が相応しい、幼さの強く残る顔立ち。
赤みを含んだブラウンの瞳は、さも楽しげに細められている。
だが最も目を惹くのは銀色に輝く頭髪だろう。
前髪は眉に掛かる位置で整えられている。
肩甲骨に届く長めの後ろ髪、シルクと見紛う艶を持ち、木漏れ日を受けた箇所が金色にきらめいていた。
着衣は白いワンピース。
肩紐に縁取られた刺繍が、簡素な服をささやかに彩っている。
ざあぁ、と風が草木を揺らす音に耳を傾けながら、くすくすと何か思い出したように小さく笑みを漏らす。
(ふふっ、やっぱりです。 わたし……魔術の才があったのですね)
当然ですけど。とひとりごちた銀髪の少女はふふん、と一人得意げに胸を張る。
かなり機嫌が良いようだ。
少女の名をノアと言う。
今日は待ちに待った魔術講習の初日。
先程その記念すべき最初の日程を完了したばかりだった。
とはいえ今日はまだ適性を見定めたのみ。しかも結果は後日追って伝えられる、つまりまだ何一つ確定していない。
――にもかかわらず、ノアが上機嫌なのには理由がある。
(見逃しませんよ、わたしの水晶玉を覗きこんだ時の、あのクリスのびっくりした顔!)
魔術適性の鑑定。
その方法は至極単純であり、特殊な水晶玉に手をかざせどんな魔法が得意であるのか、推し量る事が出来るというもの。
ただし方法こそ簡単でも、その鑑定を行なえる魔術師は限られている。
『クリス』とはそれが可能な数少ない宮廷魔術師であり、今後はノアの師ともなる老年の男。
普段から柔和を崩さない彼の珍しい表情を目の当たりにした時、少女は内心で(やった!)と歓喜の声を上げていた。
――きっとすごい才能が視えたに違いない! と一瞬で断じたのだ。
「――ん? やあ姫様じゃないか、講習が嫌で逃げ出したのかい?」
幼さゆえの万能感に浸っていると、その背後……城から出てきた女性に声を掛けられた。
振り返れば一組の男女が並んで、ノアの方へと近づいてくる。
両者共、年齢は二十代前半といったところだろうか。
女は健康的な褐色肌に耳の辺りで揃えられた黒髪のショートヘアー。
女性としては高めの身長を包むのは豊かな胸元と腰に巻かれた布のみで、しなやかさを残しつつも鍛えられた肢体を惜しげもなく晒している。
切れ長の目は気の強さを感じさせるが、ノアに微笑みを浮かべる今は彼女の美しさを引き出していた。
「適当なこと言うなよ、リデア。そんな訳無いだろ……御機嫌よう、姫」
『姫』に対するものとは思えない不躾な挨拶に眉をひそめながら、男はノアに一礼する。
短く刈り上げられた茶髪に精悍な顔つき。
リデアと呼んだ褐色の女性より目線一つ分高い背を支える、若さと強さを同時に感じさせる引き締まった肉体をシャツの上から革鎧が覆い、ノアの身の丈にもなる大剣を金属の鞘と共に背負っている。
「あらごきげんよう。リデア、ディック。今日は適性を視てもらっただけ、もうおしまいです。そもそも待ちに待った魔術のお勉強、嫌がる訳がないでしょう?」
応じたノアに、リデアの軽薄な口調を非難する響きはない。その顔と声音には、むしろ親しい人に予期せず会えた喜びの色が見て取れた。
「二人こそ、どうしてわたしの家に? 村でなにかあったの?」
心の中では今日の魔術適性の話がしたくてたまらないノアであったが、ひとまずグッと堪える。
今彼女達がたむろしている一本道、この道なりに進んだ先が村であり、城の主であるノアの父が治めている。
村の警備に属するディックとリデア。二人がこの城に訪れた事への関心が勝ったのだ。
王の一人娘として村の異常は見逃せない、という責任感に似た意識は生まれた時から持ち合わせていた。
――それが先程までの根拠のない自信にも繋がっているのだが。
「いや、姫が心配する事は何もない」
「ちょいと魔物が出たんでね。退治しましたよーってなご報告をしたまでさ」
「魔物? この前やっつけたばかりじゃなかったかしら」
魔物とは澱んだ魔力に侵された獣の総称であり、体から立ち昇る黒い瘴気と、魔力を持つ者全てに襲いかかる狂乱がその特徴に挙げられる。
だがその脅威は年に数えるほどしかなく、またディックやサラ等の手慣れた魔術師であれば対処は容易。
村周辺の警備さえ万全であれば被害と言えるものは滅多にない。
「ああ、多分はぐれ者だろうね。なぁに、もう片付いた話だよ」
「そうだといいんだけど」
「……ほぉ〜、なんだいなんだい。アタシらの仕事が信用ならないってかい?」
リデアは座っていたノアの前にしゃがみ込むと、ずいっ、と顔を寄せてさも楽しげにそう言った。
「や、違、って……顔っ! ちーかーいー!」
みるみる迫る褐色美人の顔面を、がしっと掴んで引き離す銀髪の少女。ほっぺが左右に広がって、整った顔が目の前でみっともなく歪むと、思わず吹き出してしまった。
「人の顔見て笑うとはいいご身分じゃないかっ」
「そりゃ、姫だからな」
やれやれ、と肩を竦めて二人を見降ろすディックを尻目に、リデアはお返しとばかりにノアの頰を揉みくちゃにする。
「やーめーてー!」といいながらくすくすと笑う少女。いやいやと頭を振るたび、銀の髪がさらさら揺れる。
まるで主従にあるとは思えない光景。
奔放な姉と無邪気な妹のじゃれあいにしか見えない、そんな様子をしばし眺めていた兄貴役が口を開く。
「おいリデア、その辺にしとけ。仕事の途中だぞ」
二人のやり取りに、僅かに口元を緩めていた事は棚に上げてそう言った。
「ちぇっ、つまらない男だねまったく」
「仕事?」
もう終わったんじゃないの? という疑問を乗せて声を上げるノア、その頰に当てていた手をゆっくり外してリデアが応じる。
「陛下に報告が完了しましたって報告さ。まったく面倒ったらありゃしない、念話で済むだろうって言ってるってのに」
心底うんざり、とため息をつくリデア。
ディックが口を挟む。
「きっと我々では及びもしない考えがお有りなのだろう。第一、村から城まで声を飛ばせる魔術師など限られている。自分が出来るからといって――」
「こっちが飛ばせば会話はお互い出来るって説明しただろ? ったくこれだから脳筋は」
「そうだったか? とにかくここで言っても仕方がないだろう、行くぞ」
しゃがみ込んでいたリデアの腕を片手で引っ張り上げて立たせると、ノアへ向けて一礼する。
「あ、もう行っちゃうんですか……?」
その目は落胆を隠すことなく悲しみを持って揺れていた。
「ええ、また今度」
「待ち焦がれてた魔術のお勉強で涙目になるお姫様、見るのが今から楽しみだねぇ」
真面目な顔のディック。横で意地悪そうに笑うリデア。
幼い頃からよく面倒を見てくれていた二人は、すっかり大人になったようにノアの目には写った。
昔から自分より大きな存在ではあっても、一緒に遊んでもらっていた時はまだまだ彼らも自分と同じだと思えていたのに。
特にディックは、こんなにかしこまった話し方じゃなかった。
同年代の友人よりも長い時間を過ごしてきた二人が一足先に大人になっていくのに、ノアは寂しさを感じずにいられない。
(――ですが、私だって)
魔術とは、この世界で特別なものではない。
得手不得手はもちろんあれど、魔道具に魔力を通して使う事なら誰もが出来る程度のもの。
魔力の扱いを学ぶ事が即ち大人への第一歩だというのは、この世界の常識だった。
「あのですね、今日の鑑定で、わたしすごい魔術の才能があったらしいんです! だから、わたしもすぐにお二人に追いつきますから!」
今にも立ち去ろうとしていた二人を呼び止める。
早く大人になりたい、それが今少女の望む事。
「――鑑定初日じゃ、なにもわからないだろう?」
「あぅぅ」
勢い任せの発言だったが、手痛い所を突かれてしまう。
「む、そうなのか?」
「アンタは経験者だろうが」
「俺は『肉体強化』以外、興味無かったからな……」
「で、でも、ただごとじゃない感じでした! きっとすごかったんですよ!」
なおも食い下がるノア。二人はしばし顔を見合わせてから、銀髪の少女に向き直った。
「ま、楽しみにしとくよ」
「共に肩を並べる日を待っております」
「はいっ! 待っていてください、すぐにお二人のお仕事、なくしちゃいますから!」
満面の笑みで答えるノア、彼女なりの意思表明だった。
「……まぁ、期待してるよ」
「魔術師はともかく、戦士は切実に困りますがね」
苦い顔の二人。それが現実的でない事は承知の上だが、だからこそ返答に困る。無邪気な笑顔を見ればなおさらだ。
「……さて、今度こそ行こうかね。さすがに隊長にどやされちまう」
「ああ、姫様もそろそろ昼食の時間では? 先程まで講習だったのでしょう」
「ああ、準備が下刻の二くらいまでかかるって」
「ならもう過ぎてるじゃないか、ほら」
リデアが目元に手をかざしながら、もう片方の手で天へ向けて指を指す。
指し示した先にあるのは――。
――――蒼穹に浮かぶ、十二個の巨大な球体。
具体的なサイズは計り知れない、ただ見渡す空いっぱいに、円を描いて並んでいる。
十二の内二つの球体はガラスのように空の青を透過させている。
残りの球体は眩く黄色い光を放ち、この地上を明るく照らしていた。
これより先、順に光が失せていき、全ての輝きが無くなった後に、再び光を灯し始める。
それが天体など存在しない、この世界の一日。
そしてこの光の燭台が照らす範囲こそ、この世界の全てだった。
城を進んだ先の村。
村民の総勢はおよそ二百人程。
この世界に生きる『人類』の全てだった。
『村』や『王』、『姫』などは、あくまでこの世界でのものに過ぎない。
皆が一つの共同体として、ただ穏やかに生きている。
ノアのように幼い焦りを抱く者が居ても、その悩みさえ優しく包んで流れていく時間。
天より見下ろす燭台の光は、この世界に満ちる魔力そのものであり、常に循環され澱みが限りなく少ない環境を作っていた。
安定した魔力の中で、大きな発展も致命的な災厄も起こらない、小さく閉じた世界。
「あっ大変、本当ですね! ご飯が冷めちゃうっておばあさまに叱られちゃうっ!」
リデアに習って空へと目を向けると、ノアはその目を見開いた。
そして、視界の端に何かを捉える。
その色は、この時間、この空に見ることなどあり得ない無い色。
「……なにかしら、あれ」
眩しさに目を細めながら、見つけたそれに焦点を当てる。
それは黒い孔だった。
魔力の豊かな箱庭の楽園。
そんな世界こそ彼等にとって格好の餌である事など、ここに生きる者達の知るよしも無かった。
ノアにはその孔がなんであるか、一言では表せなかった。
しかしこの光景を見たものがその存在を知っていたのなら、こう表現しただろう。
――――空に、黒い太陽が現れたと。