花魄姫 2-2
広子は確かに東の方向に向かっていたが、二人のように走ったわけではない。
彼女は森の上、空にいた。
「わぁー!」
まず前を向いた、その次に下を。 喜色満面で広がる景色に感嘆する。
緑の海がうねりをあげていた。森が吠えていると思った。景色を見下ろす実経験が少ないだけに、新鮮さを楽しいものに感じられるた。
飛行はゆっくりした速度で、のんびりと続く。
おかげで堪能できる。
「凄い凄い!」
麦わら帽子が飛んでいかないよう抑えて、広子が楽しそうに言う。
「はい」
後ろから妙齢の女性の声がした。
そこには彼女のリュックを掴かんで空を飛ぶ、肩に透けるように薄い羽衣を掛け、鮮やかな赤い柄の着物を着た女性がいた。
山本五郎左衛門と同じように、能楽で使われる若い女を現した増女という面を被っていた。肩まで伸びた黒髪が穏やかに揺れ、睡蓮の飾りがついたかんざしを差している。
増女は空を身近に感じ、どこまでも続く森にはしゃぐ広子へ、続けて語り掛けた。
「私は今日のように、明るい空を飛ぶのが好きです」
嬉しそうな口調だが、宙を飛び、右手一本で広子のリュックを掴んでも動じていないことから、間違いなく妖怪の類いだろう。
「うわぁ! 空を飛べるって良いなぁ! 羨ましいなぁ!」
「そ、そうでごさいましょうかっ?」
たまたま出た称賛の言葉に、増女の顔が熱くなった。
普通ならもっと泣きわめくか、慌てふためくところだ。増女の方が当初は困惑していたほどである。
何度も言うが、見鬼の力を持たない広子からはその姿が見えていない。声も聞こえていないから、勝手に宙を飛んでいる風にしか見えないので、驚きはもっとあって良いはずだ。
しかし生まれつき魔縁を持つ彼女は様々な経験を重ねているので、この程度では動じない胆力がある。
その人間離れした胆力を持つ広子の影響で、増女は頬がにやけていく。
誰かに喜んでもらえるのは何百年振りだろう。胸から暖かい感覚が湧き上がって、初めて自分も捨てたものじゃないな、と思えた。
そうしていると。
「あぁ、そろそろでございますね」
少し残念そうに、増女はゆっくり高度を落としていき、木の間に広がってる広場のような空間に降り立つ。
地面は木の葉が敷き詰められている。周囲をキョロキョロ見ても当てはないが、一つ何かを見つけた。
「池?」
木々の間の向こうに、木漏れ日に照らされた池がある。
そういえば花魄姫は白詰池の主だと聞いた。もしかしたら目に見えない妖怪が、自分を運んできてくれたのではないか。
「ありがとう妖怪さん!」
どこにいるかわからないので、八方に向けて頭を下げた。増女は恐縮して、ご武運をと言って礼を返す。
「よぉし!」
広子は気合いを入れるつもりでリュックを背負い直し、意気揚々と大股で歩き出した。薫や美咲を待つつもりはないようだ。
池の周りには白詰草がたくさん顔を見せている。白詰池はこれに由来するのだろう。
「クローバーだぁ!」
花魄姫のことは忘れて、広子は明るい笑顔を地面に向けた。
屈んで見てさらに驚く、すべての白詰草が四つ葉だったのだから。
「わあっ、凄いみんな四つ葉のクローバーなのっ?」
荷物を置いて、あちこちに幸運が咲いているのに不思議がる。
「どうしてこんなに四つ葉ばっかり咲いてるんだろう?」
首を傾げるが答えは出ない。
とにかく不思議だとしか言えなかった。
似たような経験はたくさんしてきた。高熊山では雪が成っている木や、製花通りでは食べられるお菓子の石、岩川では人の手足が生えた魚と話をしたことがある。
これくらいなら、見つけた当初は驚いても時間が経てばすぐに飽きる。それにこんなに四つ葉のクローバーがあるなんてつまらない、と広子は退屈で不満だった。
逆に三つ葉のクローバーはないか探すことにしたが、中々見つからない。
そこに。
「俺様の領地でお主は何をしておるのじゃ、無礼であろうっ」
偉そうに飾られた幼く舌足らずな声が降ってきた。
ちょうど目と鼻の先にある池に、十二単を着た童女が立っている。
髪の色は燃えるような紅。長さは水面に垂れて、二メートル先まで伸びている。肌は雪のように透き通り、他の妖怪と違って能楽の面は被っていない。
幼いが、人形のように整った顔立ちの美しい少女だ。炎のように苛烈な意思が宿った大きく赤い瞳に、長円形の眉は機嫌が悪いのかぎゅっと寄せられている。
何枚も重ねられた十二単の、もっとも表に見えている唐衣の色は純白で、その下の表衣には四つ葉の白詰草が描かれていた。
「俺様が花魄姫と知っての狼藉かっ、控えるのじゃっ、人間!」
目を見開くと、どこからともなく突風が吹いた。水面が激しく波を立て、木の枝がザワつき、白詰草たちが騒がしそうに揺れていた。
「きゃっ」
広子は目をつむって、その場に伏せる。
現れた妖怪は、幼い容貌や声音に反し、威厳を感じさせる口上を述べた。
「我が名は龍神花咲夜風之魄風雷姫! 白詰池の主であるぞ!」