5話 誘い
僕はスケッチブックと鉛筆を取り出した。下書きをするためだ。被写体の参考資料として、ここに写真がある。それを観ながら描くのも良い。ただ、僕が今欲しているものは鮮明で正確な情報とは違う。インスピレーションが必要なんだ。それは静止した世界の中から生み出される物ではなくて……脈動する君の中から生み出されるもの。僕が今描きたい物は、そういうもの。狭いキャンバスの中で、生きた君を描きたい。僕自身の手で。
鼓動、息遣い、瞬き、目線の揺れ、口角の微細な動き……
脳裏に思い描く。今日に至るまで、知っていること、観てきたこと、感じたことを……
食堂ですれ違った時、一瞬君と目が合った。コンマ数秒ほどの、ほんの一瞬。瞬きすれば、君の視線は何処か別の場所へ……それでも僕には充分過ぎた。君の瞳があまりにも綺麗なものだったから、残像が僕の虹彩に焼きついてしまったんだ。
君が持つトレーの上には、スープとパスタ。でも君は、それを空いた席に持って行こうとするわけじゃなくて、次に向かったのは厨房の隣にあるパン屋。僕は少しびっくりした。
君の後ろに並ぶ事はしなかったよ。僕はあまり食べられなくて……仮に君の後を付けたとして、カウンターで何を頼めば良かったかな?
ここ最近は寝ても覚めても雨音が止まなかったけど、あの日は珍しく慎ましい天気だったから、よく覚えている。横断歩道を歩いてくる君を見ていた。
水平線の向こうに君がいて、僕は岸辺に立ちつくすような。とにかく不思議な感覚だったんだ。とても、とっても遠く感じられた。絶対に君は僕の視線に気が付かなくて、僕は君を眺め続けていられる。
振り向いてくれだなんて、あつかましい事を望みはしなかったよ。僕の視界の中で、生きてくれさえすればそれで良い……そう思えたんだ。あの日の朝は
手を震わせながら、僕は筆先を走らせる。
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流されていくパノラマは次第に見覚えのあるものへと変化していく。それは規則的かつ緩やかな流れを経て静止した。
降車したマニカは運転手の男に向かって丁寧にお辞儀をする。
彼女の背後にそびえ立つは、美麗な塗装を施された高層アパート。
屹立する住屋というものは、しばしば富裕層と結び付けられる。しかしながらマニカの場合、それは財力の証明とは意を異にする。言うなれば、彼女が住まう快適かつ小奇麗な生活空間は、叔父からの熱烈な愛情が具現したものであった。
運転手の男、スヴェン・シジマはドアウインドーを降下させそこに肘を乗せた。
「お疲れ様。約束通り、これで送迎は最後だ。しばらく様子を見る……まあ、乗り心地は悪くなかったろ?」
[3週間、ありがとうございました]
「こちらこそ。これも何かの縁だ。助けが必要な時はいつでも頼ってくれ。奪われた君の所持品や、殺人鬼の件については引き続き捜査するつもりだ」
[とても心強いです。助かります]
「未だ見当も付かないが……警察が発見している可能性も捨てきれない。確認するといい」
[分かりました]
「それと、これを渡しておきたい」
スヴェンは何やら長尺物を手に持ち、運転席から降りてくる。
それは、傘だった。
畳まれた黒い生地には白い模様とレースがあしらわれており、一見すればそれはゴシック風のデザインとして見て取れる。しかし、実際はそうではないのだろう。
「君におあつらえ向きの品を用意した。プレゼントだ」
受け取った途端、マニカのか細い両腕にズシリと負荷がかかる。細身にそぐわぬ重量がこの傘にはある。
「特殊な機構を組み込んでいてね。生地は鉛の雨すら凌ぐほど強靭だがしなやかだ。手元を捻ると空気の吸収と圧縮が始まり、ボタンを押せば石突から放出される。老若男女問わず、プロのスラッガー並みに豪快なスイングをお披露目出来るぞ。下着泥棒と感動の再会を果たした時には、今度はそいつで挨拶してやれ。首から上が捻じ曲がるかもな」
マニカは小刻みにかぶりを振った。
スヴェンは大仰に笑い出す。
「ハハッ!冗談だよ。ただ、仕組みについては本当だぜ。力を必要とする時、そいつは必ず役に立ってくれる」
「……」
マニカは訝しげに傘を見つめる。
その間にスヴェンは一切の無駄を排除した動作で運転席へ乗り込み、別れの挨拶として右手をかざす。
マニカが応じて手を振ると、Mercedes-Benz 300SEL 6.3は重厚なエンジン音を奏で、颯爽と走り去って行った。
〜
映写機は霞んだフィルムを回し始める。存外にも、美しいレンズが搭載されている。
(「3週間は警察が大学を出入りしていると聞いた。下着泥棒の件でな」
「公共の医療機関ではなく、俺に連絡を寄越したのは賢い判断だ。あの左目は、普通の医者じゃ手の施しようが無い。ジュンイチの指示かい?」
「君は常軌を逸した存在を冷静に知覚し、合理的に対処出来ている。今、君が健康体である事がその証拠だな。実に素晴らしいよ」
「警察内部に協力者がいる。彼は強い権限を持たないが、頼りになる男だ。彼が言うには、組織内の精通した人間が意図的に情報を握り潰している可能性があるらしい。一概には言えないが、連中は君の安全ではなく私欲を優先する場合がある」
「仮面の男は芸術的分野に造詣が深いと見える。君を犯さなかったのも、殺さなかったのも、奴に何かしら拘りがあったからだろう」
「普通の子供ね。本質を指すならそれで間違いないかもな。ただ、専門的な用語で表現するなら……具象体だ」
「『Sacred offerings』という薬物に聞き覚えは?訳あって、この件はジュンイチに情報収集を手伝ってもらっている」
「君はどうなんだ?実は、俺も訳ありでね……色々とな」 )
閉塞的な空間、重苦しい重圧、全身を覆う無機質な駆動音。これらが不安を煽り立てる。故に、マニカは、エレベーターを好きになれない。
彼女の虹彩に内在する四方の壁面をスクリーンとし、ハンドルを握るスヴェンの後ろ姿は投影されていた。
あの男との会話は全て非現実的でありながら、それこそが紛れも無い真実なのだと、目の背けようのない現実を突き付けてくる。
こうして空白の時間が生ずると、自ずと思い起こしてしまう。
扉が開いた途端、映写機は動きを止める。フィルムには一寸の慣性も働かない。
昇降機から一歩足を踏み出せば、彼女の靴底はレッドカーペットの上にあった。夕刻の日差しは小窓を通り抜け、冷え切った廊下に絨毯を敷き詰めている。
マニカの踵が床を叩く度、シロフォンの音色が響き渡った。そう錯覚させてしまう程に、彼女を取り巻く空間は純度が高い。
限定的に満ち溢れた静寂は、いとも容易く生活感というものを消失させてしまうのだろう。
自室の玄関に立ち入ると、万物の時が静止したかのように思える。
ここは世界中において唯一自由の身になれる聖域であり、同時に要塞でもあった。
マニカは、傘を象った鈍器をそれらしく傘立てに挿し、念入りに戸締りを行う。
部屋の作りは丁寧だ。防音も完璧で、換気もしっかりしている。少し大きめの家具で室内を装飾したとしても、生活する上で窮屈さを感じる事は先ず無いだろう。
鞄を居間に置く。それから手を洗うなり着替えるなり、帰宅時に必要な行動を一通り済ましたマニカは、一目散に同居人が居る部屋へと向かった。
寝室に鎮座するベッドの上、そこに佇むは乳幼児に近い体格をしたテディベア。毛先は煤け、片目は歪に傾いている。丸みを帯びた臀部からはほつれたタグが背筋を伸ばし、そこには稚拙な字体で書かれた[Teby]という文字。
修繕を施したのはマニカだが、「私は手先が酷く不器用なのだ」と、そう自覚するには十分過ぎる出来栄えであった。
「ねぇテビー。私は、何だと思う?もしかすると……人間じゃないのかもしれない」
「テビーは鏡を見れば分かるでしょ?そうじゃないの。人の姿形って、あまりアテにならないの。知ってたつもりだったのに、最近知ったこと」
「シジマさんや、サイトウさんはどうなのかな?皆、知っているのかな。自分のこと」
「……テビーはいつも優しい言葉をくれるよね。そうだよね、私、テビーに沢山優しくしてるもの」
白く細い腕がテビーを抱き締める。
優しく、そして強く。
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黒塗りの風が寂れた住宅地を駆ける。吹き抜けた後に残されたのは空虚な静寂。騒々しい筈のエンジン音でさえ、『Benny Goodman』の『Sing Sing Sing』に聞こえてくるほどの静寂である。
建ち並ぶ洋風建築の民家は、どれも廃れた様子で人気が感じられない。
意外な事に、突風の如く過ぎ去るかと思われたドイツ製のヴィンテージカーは速度を緩め、やがて煉瓦造りの一軒家の前でその足取りを停めた。なだらかなカーブを描きつつ、車体はガレージの中へと吸い込まれていく。
車庫を出たスヴェン・シジマは近道である裏口から屋内へと入っていった。
蔦植物と白華にまみれた外観に比べ、室内は必要最低限の清潔さが保たれている。
留守が長引いていた割には特段掃除を必要とする箇所は見当たらなかったものの、いつの日か入れたブラックコーヒーが、ウッドデスクの上で今か今かとスヴェンを待ちわびていた。
コートハンガーにアウターと帽子を掛けたスヴェンは顎先まで伸ばした頭髪を後頭部へ流し、片手で撫で付ける。
もう片方の手に握られた携帯端末を耳に押し当て、水回りにある鏡を眺めながら彼は何やら会話を始めた。
「やあやあ、兄弟。お久しぶり。なーに、パーティに招待しようと思っただけの事さ。肩の力を抜きな」
「笑えない話だって?ああ、認める。コメディアンの才能は皆無だよ。そこで一つ、大爆笑必須のジョークを言わせてくれ。魔剣の噂は知ってるかい?なにせ、刀身が吸血鬼なんだってな。生きたまま純銀に変えられた、とか……錬金術だよ」
「その通り。馬鹿げた話だ。今のTokyo ってのは、その馬鹿げた何かで溢れてる。楽しまないとな、やっていけないぜ。ご一緒にどうだい?今なら特典が付くぞ」
スヴェンは一人目の通話を終えると、携帯端末内の連絡帳から数人を選び抜き、同様に電話をかけていく。
〜
幾人かと連絡を取り、更に次の番号へ。最後に残していたのは、スヴェンが最も期待を寄せている男。
「スヴェン・シジマだ。調子はどうだい、ジュンイチ君。差し支えないか?」
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重要な情報について閲覧する必要はない。ロックのパスコードを解くだけならば、その手の知識を有した人物に依頼すれば、あまり手間はかからなかった。
携帯端末の連絡帳から、それらしき人物名をピックアップしていく。アプリによる通信履歴、会話の内容。ありとあらゆる情報を手探っていく。
決めた。当選者の名は……
「『Misaki Lubeck』」
//to be continued……