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(旧)Laid‐back  作者: アバディーン・アンガス
一章 One good turn deserves another. ―情けは人の為ならず―
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1話 ジュンイチ・サイトウという男

 鉛のような雨雲が高層ビル群の頭上を覆い尽くし、物々しく存在感を誇示している。薄灰色の水彩絵の具に何やら汚い色味を加えたような空は、『第二の眠らぬ街』と呼ばれたTokyoでさえ閑散とさせ得る。

 故に、都市の中央部から外れた閑静な住宅街はいつにも増してひと気は無く、まるで静止画のように乾いた空気が漂っていた。


 鬱々しい雲煙(うんえん)を掻き乱すかのように、けたたましい音を立てて黒塗りのセダンが路地裏に入り込む。

 車一台がギリギリ通過できる程度の幅しかないものの、人目を避けるにはうってつけといったところか。


「ちょっと待ってくれ。これをやらなきゃ、動悸が治まらない」

 そう言って、助手席に座る男が席の下から取り出した物は、赤黒く錆びついたキッチンバサミであった。

 数年前に娘と大喧嘩して以来、ハサミは変色したまま醜い姿を保っている。モーリスにとって、これは単なる凶器ではない。彼の思い出を具現化した写し鏡、或いは掛け替えのない免罪符。

 乾ききった血痕は全て、元は男の体を駆け巡っていたものである。


 2、3年前であれば、クーラーの効いた事務所で悠々自適にデスクワークに励んでいたであろうこの男、モーリス・ディビリーは、二度と戻る事のない平穏な日常への羨望を抱いていた。

 定期的に車内に設置された家族写真を眺めては、白目を剥いて体にハサミを突き立てる毎日。しかし、何度傷つけ抉り取ろうと、左腕に浮かび上がった謎の文字列が消えることはない。これは最早モーリスの日課ですらあった。

「気は済んだかモーリス」

 運転席に座る赤茶色の頭髪をした男、バリー・ハートレイが嫌味のこもった口調で言った。

「お前には分かるまい。このキチガイめ!」

 モーリスが怒鳴り返す。キチガイという単語がツボに入り、バリーは堪らず笑い声を上げた。

「ハハハッ! お互い様だろ!」


 何の縁だろうか、モーリスが職を失ってから運命的に出会ったこの男は、モーリスに生きる術を与え、そして泥沼に引きずり込んだ。

 今やモーリスはバリーと共に強盗を生業としている。よもや賊に成り下がってしまったのだ。


 時刻は夕暮れ時といったところだが、灰黒い雨雲は時間の感覚を狂わせる。ポツポツと雨粒が車のフレームを打ち始め、乾いた空気は湿り気を交えた息苦しいものに変わっていく。

「降り始めちまったぜモーリス」

「もう少し……大丈夫だ……好都合だろう……姿を眩ませる……うっ……あぁ……」

「やっぱ、お前は見てて飽きねぇや」


 ――――――――――――――――


[梅雨の時期に入りました。Tokyoは週末まで雨が続くでしょう。雨具は手放せせせせせすさせしジジジジジ]

 純喫茶バートンの店内に設置されたアナログテレビは、10年以上も働き続ける大ベテランである。

 故に思い入れ深く、機械に疎いのもあって交換を先送りにしている。度々こうしてストライキを起こすのも最早ご愛嬌であった。

「そろそろ、交換の時期ですかね。いやはや嫌な季節になりましたな」

 白い髭を蓄えた初老の男、ドミニク・バートンは厨房裏にある大量の傘を横目で見ながら、カウンター席に座る女性と会話を行う。

「私は好きですよ。音が好きなんです」

 女性は物静かに言葉を返す。

 彼女の頭髪はクリーム色に近いブロンドヘアーをしていて、顔付きは年端もいかない少年のような幼さがある。


 女性の名はミア・アスクウィス。彼女にとって、たった今降り始めた雨粒の音色は演奏開始の合図といったところだろうか。

 ミアは甘めに味付けしたヨーロピアンブレンドのコーヒーを口に運びながら、自身のショートヘアーを撫で付けるようにして整える。


 ドミニクは気さくな人柄をしているが、高い洞察力を有する彼は話しかけるべき客とそうでない客の判別を行った上で接客をしている。

 ミアは常連客であり、来店する度に

暫し談笑を交わす程度には見知った間柄である。


 店内にはカウンター席の他にも幾つかテーブル席が用意されており、古臭く、こじんまりとした外装とは裏腹に、内装は清潔感に溢れ、尚且つ適度な広さを有している。

 使用されている備品はどれも小綺麗な新品同然の代物であり、木材特有の心地よい香りが空間を満たす。


 少数の職員と、店主であるドミニク・バートンの手で『純喫茶バートン』は経営されており、客前で腕を振るうことが出来るのはバートンのみ。

 淹れたての珈琲を振る舞うに限らず、珈琲豆の販売も比較的安価で行われている為、そちらを目当てとして訪れる客も多い。

 この知る人ぞ知る名店に一度足を運び入れれば、豆を挽く音と独特の香りに包まれた至福の空間にたちまち虜になる事だろう。


 時刻は夕暮れ時を過ぎ、曇天の空模様が追い打ちをかけて光を遮るせいか、街灯は早々に明かりを灯す。

 降雨の勢いは強まるばかり。店内の客は暫し雨を凌ごうと席を立とうとしない。

 出歩くには不都合であろう黒々しい天候とは裏腹に、出入り口の開戸に設置されたベルは景気良く揺れ動く。

「いらっしゃいませ」

 入店した男は傘をたたみ、レザージャケットに付着した雨粒をハンカチで手短に拭い取る。

「アメリカンコーヒーで」

 低くこもった声で男は言う。

「かしこまりました」

 男はレザージャケット越しからでも分かるほど屈強な体格をしているが、存外にも丁寧な手付きで傘を縛ると、別の雨傘に水滴が触れないよう注意を払いながら傘立てに挿す。

 そうして、彼は冊子置き場に最も近いテーブル席へと向かい、落ち着いた様子で腰を下ろした。店内の角、そして入り口側に位置する『特等席』を男は特に選り好む。


 新聞を手に取った彼は静かに紙面を広げる。目を通すのは近頃急増している行方不明者の名簿と、アルバイトの募集広告。

 記載されている名前を、上から順に確認していく。

 ……

 カルロス・ガーランド

 アナベル・エーメリー

 マサキ・ナガサワ

 ……

 覚えのある名前があった。それはマサキ・ナガサワ。大学の講習で、同姓同名の男とグループワークを行った記憶がある。


 男は眉間にシワを寄せた。鼓動が微かに早まる。男はマサキ・ナガサワの名前を、薄型携帯端末のメモ機能を使って書き残しておく。名簿の確認を終えたのち、男は紙面をめくり、募集広告へと目を移す。

 次々と要項を黙読していた男であったが、あまりの給料の高さに視線が急停止を行った。

 募集先の名は、イーグルトン邸。

 山林を含む広大な土地を、Tokyo郊外に所有する元財閥の家系、エイブラハム・イーグルトンが建てた豪邸である。

 観光客向けに私有地を公開し、高額な見学料を搾取している事で有名だが、その為の職員補充が目的だろうか。記載スペースが小さい為詳細は書かれていない。


「どうぞ。アメリカンコーヒーです」

「ありがとうございます」

 ウェイトレスがコーヒーを男の元に運ぶ。その時、ふと男の視界に入ったのは店の入り口で立ち止まる2つの人影。ガラスに付着した雨粒で姿は歪んで見えるが、なにやら覆面らしきものを装着しているのは視認できる。


「俺が金を詰める。エリア・ジャミングの電源を確認しろモーリス」

「元気一杯だ」

「よ〜し……楽しい楽しい、お仕事を始めよう」

 バリーの口角が釣り上がる。まるで純朴な少年のように、彼の薄灰色の瞳には眩い光沢が宿った。


 喫茶店の扉が勢いよく押し開かれ、ベルは大仰な程に揺れ動き、物々しい入店音が穏やかな店内に響き渡った。

「動くな」

 入店したのは覆面をつけた二人の男。そのうち、一人は覆面から赤茶色の頭髪がはみ出ている。

 頭髪を覗かせた強盗が、消音器を付けた拳銃でテーブルを数回撃ち抜き客を威嚇すると、銃口をドミニクへと突き付ける。

 客は皆両手を上げて微動だにしない。

「金を出せ。全部だ」

 ドミニクは両手を上げたまま、慎重にレジへと近づいて行く。


 一方、片割れの強盗は出入り口に立ち塞がり、他の客が動き出さないよう見張りの役割を担っていた。

 しかし、『赤茶色の頭髪』と比べ、入り口で待機している強盗の所作は何処か不慣れな様子が見受けられる。

 更に、袖の隙間から見える手首には注射痕と、生々しい瘢痕(はんこん)。覆面から覗く瞳孔は不自然に揺動し、焦点がおぼついていない。


 ドミニクがレジに手を付けたその時、店内の奥に設置されているトイレから、何も知らない一般客が用を終えて戻ってきた。

「動くな! そこで伏せろ」

 入り口で待機していた強盗は反射的に銃口を向け、威圧的な口調で言い放つ。


 直後、右手に激痛が走った。銃を握る強盗の手には、深々とバタフライナイフが突き刺さっている。

「ッ!」

 あまりの痛みに、強盗は拳銃を手放してしまう。


 ナイフを握る手、その手首、そして腕をなぞるように見上げると、ナイフを突き刺した張本人は、入り口付近に座っていた、柄の悪い顔付きをしているレザージャケットの男。

 彼は床に落ちた拳銃を踏み付けると、強盗の鼻先を目掛け肘打ちをかます。

「ぶっ」

 無様な呻き声と共に、鼻先のへし折れる鈍い音が店内に響いた。


「どうした?」

 金を鞄に詰めようとしていた矢先、『赤茶色の頭髪』は異変を察知して振り返る。

 その瞬間、彼の顔面には淹れたてのアメリカンコーヒーが降りかかった。

「うあああああ‼︎」

 どうやらコーヒーが目に入ったようで、『赤茶色の頭髪』は目元を抑えて崩れ落ち、のたうち回る。

 覆面にもコーヒーが染みたのだろう。強盗は片手で目元を抑えながら堪らずそれを脱ぎ捨てた。

 レザージャケットの男は手元から離れた拳銃を抜け目なく蹴り飛ばす。拳銃はカウンターの奥へと入り込んでいく。


 ミアはここぞとばかりに鞄から携帯端末を取り出し、警察への通報を試みたが、端末の画面左上には圏外の表示が。

「どうして圏外なの⁈」

 男は脇目でその様子を確認していた。


 彼は床に伏した覆面の強盗へと腕を伸ばし、首根っこを掴み上げる。そうして、襟から覗く胴体をしばし観察する。

 見えたものは激しい生傷の痕跡。コートの袖を強引にまくりあげれば、文字列の如く規則的な形状で並列した、謎めいた傷跡が姿を表した。


 男が視線を向けた瞬間、強盗の右手から溢れ出た鮮血が腕を昇り始じめ、手首の注射痕を中心とし、円状に象形文字を描き始める。


「……っ!」

 レザージャケットの男は目を見開いた。彼は強盗の手に突き刺したナイフを更に奥深くまで押し込むと同時に、ポケットから取り出した物体を付着させる。

 加えて、男は力任せに刀身を根本からへし折ってしまう。

「あああッ!」

 覆面の男は狼狽する。彼は手に突き刺さったナイフを引き抜こうと試みるが、それは一寸たりとも微動だにしない。


「無駄だ」

 レザージャケットの男は強盗の首筋にバタフライナイフを突き付ける。

 なんと、たった今へし折られた筈の刀身は寸分の狂いもなく原形の姿を取り戻していた。


「一生、片手に飾りを付けたままというのは不便だろう。これ以上増やしたくなければ質問に答えてもらう。一本で済めば、お前だけこの場から逃がしてやる……天上へ登る方法を試した事はあるか?」

「Leaven for giving wings……そうだろ? 売人の謳い文句だった。あ、あんた……何が目的だ」

「いいか……次は顎の下からお前の舌を串刺しにする。何処で、誰から手に入れた?はっきりと答」

〈Crash!〉

 交渉はそこで打ち切られた。『赤茶色の頭髪』が不意を付き、床に転がっていたコップを男の後頭部に叩き付けたのである。

「失礼します」

「なに?」

 更に、強盗の不意を突いたのはドミニクであった。

 彼は拳銃のグリップ部分を『赤茶色の頭髪』の首筋目掛け、全身全霊を込めて叩き付ける。


 ドミニクが所持している拳銃は、先程足元に滑り込んできたものである。

 『赤茶色の頭髪』は気を失い、足先から崩れ落ちた。


「大丈夫ですか、お客様」

 ドミニクは忙しない足取りで男の下に駆け寄る。

「ええ……しかし、逃げられました」

 男の拘束から逃れたその隙に、強盗の片割れは逃亡に成功していた。


「構いませんよ。皆さんご無事でしたから。それに、今日の売り上げもね」

「それはよかった……」

「あ、圏外直ったよ!」

 ミアが声を上げる。彼女は端末の通話機能を起動し、警察の対応窓口に繋げた。


(本来、小型化された『Area Jammingエリア・ジャミング』は現場に残しておくものだが……奴はそのまま持ち去ったのだろう)

 レザージャケットの男はしばし思考を巡らすと、懐から携帯端末を取り出しGPS受信機能を起動した。

 しかし、これといった反応は見られない。

(妨害電波か、あるいは……)

 ナイフを押し込んだ瞬間、刀刃に小型のGPS発信機を付着しておいたのだが、現在は機能を発揮していない。


 ドミニクは独りでに考え込む男を不思議そうに見つめている。

 やがて男は視線に気付き、慌ただしく携帯端末を懐にしまい込むと、ドミニクに向けて深々とお辞儀を行った。

「コーヒー、ご馳走様です」

 男はレザージャケットから財布を取り出すが、ドミニクは手を横に振り、男を制止しようとする。

「代金は必要ありません。飲み直しますか? サービスします」

「……お言葉に甘えます」

「そうだ。お名前をお聞きしても?」

 男は暫し躊躇う様子を見せるが、やがて寸分の間を置いて口辺を開き、重々しく、そして低くこもった声で自らの名を口にした。

「ジュンイチ・サイトウです」


 ――――――――――――――――


「ちくしょう! これから俺はどうすればいいんだ……」

 モーリスは息を切らしながらも歩みを早める。狭い空間に反響しつつも遠のいてゆく雨音は、彼の救いようの無い生き様を甲斐甲斐しく見送るようであった。


 ここはTokyoの地下に張り巡らされた古い用水路である。もしもの時、ここに逃げ込むようバリーから教わっていたのだ。

 気がかりなのはバリーの安否、そして現場に残していった車と、車内に残された物品である。

 車の鍵はバリーが所有していた為に、その場に残していく以外に選択肢は無かった。


 様々な懸念が彼の思考を塗り潰し、奥へ奥へと押し込んで行く。

(行くところまで行くしか無い……なりふり構ってはいられないな)

 後戻りが出来ないのはとうの昔に知っていた。しかし、有事の際に裁かれる覚悟が出来ていたかと言えば、それはまた別の話であった。モーリスには既に正常な思考を働かせる理性が残されていない。


 暗闇に目が慣れた頃、モーリスは足元の斑点模様に気がつく。模様を作り出していたのは、何らかの液体であった。


 正体不明の液体を辿るようにして目線を動かすと、その先に見えたのは吊り下げられた謎の物体。液体はそこから滴り落ちている。

 目を凝らさずとも、それが何かはある程度察しが付いた。携帯端末の懐中電灯機能を起動し、照らし出された物体の正体は……案の定、人間の死体であった。それも一つでは無い。

 モーリスは、乾いた笑いを上げる。

「ハハハッ……抗うのはもう辞めにしろと。そういうわけかい? 神さま」

 モーリスは眉間を抑えて天を仰ぐ。背後から忍び寄る何らかの気配に気が付いてはいたが、彼はこれといった行動を起こそうともせずに立ち尽くす。

「こう、考えてみるとさ、面白い人生だったなってね。生への執着ってのは客観性を失くすんだな」

 聞こえているのか否か、背後に忍び寄る『何か』は反応を見せない。ただ、ゆっくりと接近してくる。

「殺してくれ。無残に、残酷に、跡形もなく!」

 背後に迫る者は歩みを止める。モーリスとの距離は拳一つあるか無いか。

「頼むよ……もう沢山だ」

 モーリスが言葉を発した直後、巨大で鋭利な刃が彼の腹部を貫いた。溢れ出る血と湧き上がる激痛がモーリスを満たす。

 モーリスは満足気な表情を浮かべると、白目を剥いて吐血した。

「フハ……ブハハハッハハ……」

 無意識のうちに口角が釣り上がっていく。命の灯火が消えていく実感、それはこの上なく求めていたもの。

 抗いようのない極上の死が、安らかに全身を包み込む……モーリスは堪らなかった。

 彼にとって、久しく心の底から笑顔になれた瞬間だった。


//to be continued……

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