Loved one
起床したカオリ・グリンデマンの視界を覆うのは眩いほどに美しく、そして忌々しい朝日であった。時刻は9時半頃。予定通りジュンイチが訪れるのであれば、着替えを行う猶予はあと30分ほど。
ジュンイチにとって、カオリは叔母にあたる。幼少期から母親を失った彼のために、カオリは進んで面倒を見るようにしていた。互いに年を重ねていくうちに多少疎遠になりつつあったが、彼が都心部へ越して来てからは度々顔を合わせ近況を報告し合っていた。
しかし、大きな問題がジュンイチの身に降りかかった。結果として彼は実の父親を看取る事すら出来ず、心身共に深い傷を負い、カオリは自身の左脚を切断するという悲惨な現状を招いた。
ベッド脇に立て掛けた松葉杖を手に取ったカオリは、寝惚けた手付きでよたよたと歩き出しクローゼットへ向かう。
彼女が片足を失ってからそこそこの期間が経過するものの、未だに幻肢痛は癒えない。
両手に残された当時の感覚が蘇る。己の右手で突き刺した刃物、引き延ばされる皮膚と筋肉、ぶちぶちと音を立て、赤黒い液体がこぼれだし、鋭利な刃が骨を削り出す。
全身に力がこもっていた。カオリ自身、自分にあれ程の腕力があったとは、今となっても信じられないことである。彼女の脳裏に焼き付いた凄惨な光景は一生消え去ることは無い。
やっとの思いで着替えと洗顔を終えたカオリは、ウェーブのかけた頭髪を頭頂部付近で束ね、鏡に映る自身の瞳を見つめながら物思いに耽る。
(前はもっと、綺麗だった気がする。彼も私も)
〈ding-dong〉
ドアベルが鳴った。カオリは回転したままのカセットテープを無理矢理抜き取るようにして、思考回路の歯車にブレーキをかける。
松葉杖を手にした彼女は、忙しない足取りで玄関扉へと向かった。
「どなたですか?」
カオリはマイク越しに問い掛ける。
「ジュンイチです」
低く、そして重みのある肉声が返ってくる。聞き覚えのある声調に、カオリは安心感を覚えた。
ドアモニターに映るのは間違いなくジュンイチの姿。以前ならば特に確認する事なく施錠を解いていたところだが、一部の不用心な行動について、カオリはジュンイチから忠告を受けていた。
ほど無くして、扉はぎこちないリズムで押し開けられる。
「おはよう、ジュンちゃん……それ、どうしたの?」
カオリはジュンイチの手に握られたトートバッグを一瞥する。中には生活に欠かせない日用品に加えて、ありとあらゆる食品が詰め込まれている。
入れ物の鞄と品物は全て、道すがら購入して来たものであった。
「差し入れです」
ジュンイチはバッグを差し出すような動作をしてそう言った。ただ、運び入れるのは自分の役割だと言わんばかりに、彼の手はハンドルを強く握って離さない。
「本当に?こんなに貰っていいの?すごく助かるけど……それ、全部で幾らしたの?$100で足りる?」
「お金は要りませんよ。俺じゃ使い切れなくて……これ、余り物なんです」
「嘘ばっかり」
カオリは笑みをこぼした。ジュンイチも、柄に似合わぬあんまりな口実であったと反省し、自嘲を込めた笑みを浮かべる。
「ありがとうね。ほら、早く入って」
カオリは扉を更に押し開けると、おぼつかない様子ながらも器用に松葉杖を動かし、室内へ戻っていく。
「お邪魔します」
ジュンイチは彼女の後に続いて入室し、扉の施錠を行った。
ジュンイチはトートバッグの中身を可能な限り冷蔵庫にしまい、残りの生活用品などは居間の適当なスペースに置いておく。そうこうしている間に、カオリはお茶を二人分淹れてテーブルに並べていた。
二人はダイニングテーブルを挟んで向かい合い、木製の椅子に腰をかける。
「メッセージで言ってた、会って話したい事ってなに?」
「カオリさんの脚のことです。それと、差し入れもそうですが、これを渡しておきたくて」
会話の最中、ジュンイチがテーブルに置いたものはTOMITA industryが発行している高機能義足シリーズのパンフレットだった。
「あぁこれ、テレビで何度か見たことある。ご老人や、身体障害の人が使ってた。人間の脚はもう要らない時代だって……そう言ってたよ」
「ええ。今ではかなり実用性の高い代物だとか。要望に合わせて、デザインも考えてくれるそうですよ」
「ジュンちゃん。もしかして……買うつもりなの?」
「はい」
「……本気?」
カオリはパンフレットからジュンイチの目元へ視線を移す。
「……っ」
彼女は驚きのあまり、暫し言葉を失ってしまう。
カオリが記憶している限り、ついこの間までジュンイチは、『生ける死体』のような眼差しをしていたのである。
そんな事を思ってしまうのは随分心無い事だと彼女は理解しているが、どうしてもそう感じてしまう程に彼は生気を欠いていたのだ。
玄関で会話を交わした時から随分元気を取り戻していると感じた彼女であったが、『元に戻る』のとは少し類が違うものだとカオリは察する。何か、瞳の奥底で滾らせているのが、彼女には分かる。
それは平穏な日常を送っていた頃のものとは、あまりにもかけ離れた『執念の塊』であった。
「本気です。今すぐには難しい事ですが、将来的には必ず」
「言いたい事はわかるし、気持ちも有難いけど……でも、$15万もどうやって?」
「俺が工面します。これ、使用者の体格に合わせて設計する事になるので、製作にはそれ相応の時間がかかるそうなんです。予め、色々決めておいてほしくて」
「……よく聞いて、ジュンイチ」
カオリは悲しげな声を発した。ジュンイチは彼女の思いを察し、口をつぐむ。
「私ね、貴方には貴方の人生を歩んで欲しいの。私なんかの為に、貴方の貴重な時間を割かなくていい」
「そう言ってくれるからこそ、俺はカオリさんの為ならなんだって出来る」
「……」
カオリは再び言葉を失う。僅かに間を置いたのち、ジュンイチは続けた。
「同じ事をカオリさんにも思っているんです。カオリさんは俺の為に、あの弁護士を探して、お金を出して、そして今の体になった。自分も、もう大人だ……お礼をさせて下さい」
ジュンイチが発する一つ一つの言葉には、底知れぬ誠意が込められているとカオリは感じる。
「気持ちだけで充分だよ、ジュンちゃん。確かに、前の体の方が便利だった……当然ね。でもね、今のままでも別に、私は生きていられるの。それで良いの」
「カオリさん、俺は……」
これでは水掛け論になると考え、ジュンイチは言葉を押し込めた。伝えたい事は伝えられたのだから、これ以上の言葉は必要ないとも思う。
凍結した空気を解凍すべく、ジュンイチはコップを口に運び苦肉の策に出る。
「その……お茶、すごく美味しいです」
「ふふふ……そうでしょ。実はね、これ、そこら辺のコンビニで$5だったの」
「あぁ……どうりで」
二人は他愛もないジョークでしばし談笑する。
服役以前と変わりなく、不器用ながらも心優しい一面を垣間見たカオリは、先程の悪寒は気の所為であったと一蹴し前向きな気持ちになる。
二人の間に流れる時間は、非常に穏やかかつ緩やかなものであった。
「これから用事があるので、俺はこの辺で」
「そっか。今日はありがとう。楽しかった」
ジュンイチはカオリと歩幅を合わせながら玄関まで向かう。
「また、時間があるとき会いにきます……お元気で」
「うん。ジュンちゃんも元気でね」
二人は別れの挨拶として、短いハグを交わした。
〜
ジュンイチはカオリの自宅を後にして間もなく、携帯端末を起動し、協力者と連絡を取る。
「初めまして、Mr.アータートン。Mr.スヴェン・シジマからの指示でご連絡致しました。ジュンイチ・サイトウです。落ち合う場所については……了解しました。これから向かいます……え、口調が硬い?えっと、はぁ……そう、ですか……」
//to be continued……