其の弐
「なんだか、お前さんたちを見るのも久しぶりじゃな」
「この辺りの山に、もう獣たちは居ませんよ」
「そうか。どうりでなぁ」
兎と翁は縁側に隣り合って座り、村を囲む山々を眺めていました。
冬支度の最中なのか、いささか山たちは寂しそうでした。
「もう少しして雪が振れば、ここも良い景色になる」
「そうだ。お土産を……」
兎は縞模様の外套の隙間から笹の葉の包みを覗かせました。
「道中にて、羊羹を買って参りました」
「ほほ、こりゃこりゃ」翁は恵比寿顔で受け取ると、
「さっそく茶を淹れようかね。湯を沸かしてくるからね」
と言って、立ち上がり土間へと消えていきました。
兎は縁側を歩きながら家の中を見渡しました。
畳の間には、中央に色褪せた卓袱台が淋しそうにあるだけで、
そこに物はほとんど無く、小綺麗と言うより寧ろ生活感の無さが目に付きました。
さらに奥にある仏間には質素な木組みの台が置かれており、
それが嫗の仏壇であると位牌を見つけた兎は悟りました。
左右にある和蝋燭はすっかり溶けて人の子の小指ほどの長さも無く、
供え物の米や魚の干物には薄くホコリが被っていて、
となりの熟しきって潰れた柿には蟻たかっています。
「これのせいか。いやまさか」兎は鼻を細かく動かして言いました。
かち、かち、と火打ち石の音がして、翁が土間にある竃に火を点けました。
「手伝いますか」
「結構結構。くつろいでなさい」
兎は、再び縁側に腰掛けました。
翁の家は他より数段、高い丘の上に建っているので眼下の村が一望できました。
村の男たちは木を切り、薪を割り、田を耕し、
女たちは着物や履物を洗ったり繕ったりしているのが見えます。
「ささ、準備が出来たぞ」奥の方から翁の声がしました。
翁は二人分の湯呑みと小皿を乗せた丸い盆を足もとに置き、
「よっこらせ」と、自身も並んで縁側に腰掛けました。
「栗羊羹だ。ほう、こりゃあ美味そうだ」
切り分けられた羊羹は見事な山吹色で、横から黄色い栗が顔を覗かせています。
「合羽ぐらい脱いだらどうだ」翁が笑いながら兎の纏うそれを指すと、
「これが無いと落ち着かなくて」と、兎は苦笑いして答えました。
「無宿人の真似事かね」
「こうして生きてきましたから」
「お前さん、どうして帰って来たんだい?」
「狸を討ち取りに」
翁が湯呑みをすする手を止めました。
遠くの人々の唄の詞が聴き取れるほど深い沈黙が二人の間を通過して、
「この近辺では、神隠しが多いそうですよ」
「そうなのか」
「老若男女を問わず、一夜にして一家が忽然と消えた件もあるそうですよ」
「悪いことは言わん。もう奴のことは忘れなさい」
翁は湯気立つお茶を啜り、白く重たい溜息を吐くと、
悔しさや憎しみといった表情を顔に出すようなこともなく、
静かに淡々と、微かに幼さの残る兎を諭すかのように言いました。
「復讐なんぞ、何の得にもなりゃせんのだ」
「損得の話じゃありませんよ」兎は遮るように言いました。
「長い間、諸国を駆け巡り、わたしは奴を追って来たのです」
「あんな化け狸に拘って自分の人生を棒に振るでない」
翁は嘆くように呟くと、羊羹を口に放り込みました。
兎は俯き、湯呑みに映る自分の顔を見て寂しそうに微笑みました。
「…天が討らねば人が討る。人が討らねば……」
突如、翁は身体を硬直させて動かしていた口を一旦止め、
味を確かめるよう数度、口を動かすと、ゲェゲェと咽せ出しました。
「な、なん、なんだ、なんだコリャッ」
彼は眼を引ん剝いて兎と羊羹を交互に睨みつけながら、
自身の頬や喉、胸元を爪を立てて掻き毟り始めました。
「はぁあ、はぁ、はぁ、か、辛いっ、辛いからい辛ぃぃ!」
兎はそんな翁を眺めては肩を揺らして大声で笑っていました。
「い、いい芋羊羹じゃ、ねっ、ねェじゃねえかっ!」
「芋羊羹だなんて誰が言った。そっちが勝手に早とちりしといて」
「なん、ななな、何だとぅ」翁は慌てて茶を飲み干したものの、
それでも治らないのか兎の持つ湯呑みにまで手を伸ばそうとしたので、
兎は立ち上がり、湯呑みを庭先に叩きつけて粉々に砕いてしまいました。
「ギエエェェ!」と、その光景を目の当たりにした翁は甲高い奇声を発し、
縁側から庭へ飛ぶと茶の湯をタップリ吸った地面に顔から突っ込みました。
今や、翁の肋骨の浮いた身体は前も後ろも腫れたように真っ赤になり、
そこら中を掻き毟ったせいで脂汗の混じった血を顔から滴らせながらも、
彼はそれを気にする素振りも見せず、庭の土を口の中に詰め込むのに夢中でした。
「特製の辛子羊羹。お味の方は聞くまでもないみたいだね」
なんと、羊羹の山吹色はサツマイモでなく“からし”だったのです。
翁はそんなことなど露知らず、大口を開けてカラシの塊を頬張ったのでした。
すっかり騙された翁は、泥まみれの口をパクパクとさせながら目を血走らせ、
「オマエ、なんちゅうモンを…ッ!」と、怒鳴ろうと息を吸い込んだのも束の間、
兎が外套の前部分を翻し、そこに収まっていた脇差が抜かれました。
白刃の一閃で翁の首は宙を舞い、ボトッと数回地面を跳ねて転がりました。
此方を向いた翁の両眼は、しっかりと兎を捉えていました。
「な、なん…どうして……」
「アンタ右で湯呑み持ってたろ。左利きだよ、あの人」
兎は抜き身の血を振り払うと、流れるような動作で鞘に戻しました。
「それに臭いがね。するんだよ。腐った外道の臭いがね」
事切れた翁の首は、みるみる内に血の気を失い、青ざめて、
目の周囲は濃い黒ずみが滲み、犬歯は異様な成長を遂げ、
毛穴という毛穴から茶褐色の毛がニョロニョロと蚯蚓のように這い出ては、
あっという間に、口の端から伸びきった舌を覗かせる狸の顔へと変化しました。
斬り離された翁の身体は、断面と下半身から土石流の如く糞尿を噴出させ、
すっかり水気を失うや縮んで髭のついた干し柿のような姿になってしまいました。
兎は畳の間に上がると奥の仏間の前に立ち、仏壇に手を合わせました。
目を瞑ると、在りし日の記憶が蘇りました。
父と母は生まれて間もない自分を抱えて、翁と嫗のもとを訪れました。
おお、コリャなまらめんこいウサギさんだこと。ほんにほんに。
翁は、赤ん坊のうさぎの頭を、左手で優しく撫でました。
名前は。それが、まだ決めてないんだ。是非、お二方にと。
ええっ。そんな大仕事を。きっとこの子も喜んでくれます。
翁と嫗は顔を合わせました。そうかい。したら、そうだねぇ……。
「今のアンタは、一度も俺の名を言ってくれなかった…」
兎は縁側に座る、首をなくした翁の身体に語りかけました。
「それとも、もう思い出すらも亡くしてしまったというのか?」
牛蒡のように痩せ細った翁の身体は、なにも答えませんでした。
兎は目尻を拭うと振り返り、脇差に手をかけて抜刀の構えをとりました。
どこからか現れた村人たちが、すでに翁の家を包囲しているのが感じ取れるのです。
「知ってんだよ。あんたら人間じゃねいってのは」
鎌や鍬、鋤を携え、虚ろな目で佇む彼らに言いました。
「赤ん坊の一人も居ないクセして、陽気に子守り唄なんか唄いやがって。人攫って皮剥いで、その中に汚ねえ身ィ隠してんだろうが!」
にじみ寄る村人の一人が縁側に足を置いたその瞬間、
兎は跳躍し、広い畳の間をまるごと飛び越え、
旋風の如き怒涛の“太刀振舞い”にて相手を斬り刻みました。
四肢を失い、独楽のように空中を回ったあと地面に落ちた男たちは、
背中が背骨に沿って縦に裂け、灰褐色の毛並みの狸たちが、
さやから押し出した枝豆のようにズルリと外へと飛び出てくるのでした。
間もなく畳を押し上げ、天井を蹴落とし、竹槍で武装した村人たち、
正しくは人間の皮を被った狸たちが、肉食獣の眼を向けて兎を取り囲みました。