其の壱
その地域は、いにしえの時代より獣と人の仲が良く、
一部には共通の言語を用いて、会話さえ出来る者もいたそうです。
種族の違いを弁えながら共存し、長らく平和が続いておりましたが、
山の向こうから一匹の狸が忽然と現れるや事態は急変します。
その狸は、話術と変化の術、天性の悪知恵でもって人獣問わず手玉に取り、
人家を襲い田畑を荒らし、巣穴に眠る卵や幼子を喰い荒らす始末。
それはそれは畜生にも劣る、外道の所業でありました。
村に住む翁が、そんな数々の狼藉に業を煮やし、
苦心の末にようやく狸を生け捕りにしたものの、
狸は翁の妻である嫗を、彼女の優しさにつけ込んで言葉巧みに誑かし、
縄を解かせた挙句、彼女を麺棒にて撲殺、身体を引き裂き、
本来ならば自身が材料にされていたであろう鍋の中へ放り込んでしまいました。
最愛の伴侶を、これ以上ない残酷な方法で辱められた翁をはじめ、
親しかった多くの人や獣が彼女の死を哀しみ、絶望を味わいました。
人と獣との関係に軋轢が生じかねない由々しき事態に、
我こそはと立ち上がったのは正義感ある一羽の兎でした。
兎は翁の古くからの友人であり、嫗の敵討ちを誓いました。
兎は得意の愛想の良さで狸に接近して行動を共にし、
狸に背負わせた薪に火を点けて大火傷を負わせ、
さらに特効薬と偽り、赤黒く焼け爛れた狸の背中に
特製の練りからしを塗り込むという、
大悪党さえも意表を突く方法で狸を追い詰めたものの、
最後の最後で、兎は最大の過ちを犯してしまうのでした。
背中の火傷の快気祝いにと、一緒に釣りへ行こうと誘い出し、
土で作った手製の泥舟に狸を乗せて沖に出たまでは良かったものの、
やがて泥舟が波によって崩れ、いざ狸が海の真ん中で溺れはじめると、
兎の心に、同情の念のようなものが沸々と湧いて出始めたのです。
彼は正義感もさる事ながら、善の心も人一倍、いや獣一倍でありました。
数多の悪事を働き、人間である嫗の命を奪ったことは疑いようのない事実ですが、
どんな悪しき心にも反省し、改心する余地はあると、兎は内心信じていたのです。
それに兎の心の中には、最初は確かに仮初めのものだったにもかかわらず、
いつしか狸との間に、友情じみたものが芽生えはじめてもいました。
きっとこの狸は、産まれてこのかた天涯孤独の身。
本来ならば親から教わるであろう、優しさや愛、慈しむ心を知らないのだ。
自分にはそれを教えることが出来る。いや、他に誰が彼に教えられよう。
村の人々や山の獣たちは、彼を畜生だ外道だと忌み嫌い、近寄りもしない。
しかし、それでは距離も縮まることなく、お互いの仲は益々悪くなるばかり。
言葉を交わせるモノ同士、分かり合えない者などいない。
今まで幾度も顔を合わせ、面と向かって話したからこそ自信を持って言える。
絶対に改心してみせる。正月の村の餅つきにも参加させてやるんだ。
みんなでたらふく食って飲んで、呆れるくらい笑い合おうじゃあないか。
「……狸や、金輪際、悪さはしないか?」
「しないしない。もうするもんかよォ」
狸は水面で四つの脚をバタつかせながら必死になって叫びます。
「今まで犯した罪を償うな?」
「償う。一生かけて償うよ。お願いだァ兎さん助けてくれェ」
それを聞いた兎は、木の舟の上から、持っていた艪を差し伸べて、
これ幸いと、狸は差し伸べられたそれを、やっとの思いで掴みました。
しかし、狸は途端に目の色を変え、力任せに艪を引っ張り、
あろうことか舟を転覆させて兎を水中へと引きずり込んでしまいました。
水中で馬乗りになった狸は、兎の首根っこを絞め上げました。
鬼の形相を浮かべた狸は、口の端から水泡を溢れさせながら叫びました。
「死んじまえ、ド畜生のクソ兎め!俺を揶揄った罰だ。婆ァのところへ逝け!」
兎は驚きと恐怖、そして哀しみの表情を浮かべながら、
もがき苦しみ、激しく抵抗しましたが、やがて眼は色を失い、全身が脱力し、
茶褐色の耳と体毛を優雅に揺らめかせ、彼は漆黒の海へと消えて行きました。
意識の消える間際まで、狸の罵詈雑言が耳を離れることはありませんでした。
ひと月ほどが経ち、波打ち際に兎であろう残骸が漂着すると、
改めて悪狸の悪名は、野を駆け、山を越え、遥か彼方まで轟き、
もはや手に負えないと、その地を離れる者は後を絶ちませんでした。
それから数年の時を経て、一匹の兎が、あの村に現れました。
旅人の装いに身を包んだ兎は、ある家の前までやって来ると、
「ごめんください」と挨拶をしました。
長い間があった後、家屋の脇から腰を曲げて窶れた様子の翁が現れました。
「なんだね、兎さんや」彼は鉈を片手に束ねた薪を抱えていました。
「お久しぶりです」兎は恭しくお辞儀をしました。
「ええと……何だね?」翁は首を傾げながら兎をじっと見つめました。
兎は臆することなく立ち尽くし、彼の反応を待っていました。
実際、翁はその顔立ちに見覚えがありました。
褐色の毛に、垂直にそそり立つ長い耳。底の見えない漆黒の瞳。
心の奥がざわざわと騒ぐ感覚は久しぶりでした。
「兎さんや、あんた様、ひょっとして、あの…」
「私、かの兎の息子に御座います」
「なに?」翁は震えた裏声を上げて、歳も忘れて息を弾ませました。
「あの兎の?」
「ええ」彼の眼前に立つ兎は、再び深く頭を下げました。