敬愛
「明日、暇か?」
自宅の固定電話からそんな声が聞こえたのは、僕と優と純との会食から三日後のことだった。電子的に僕の鼓膜を震わせたのは、純のそれだった。
「暇だよ。どうしたんだい?」
「ああ。咲と連絡してな、明日会いたいと言われた」
「咲と?」
「ああ」
それは聞くに懐かしい名前だった。僕の古い記憶の中に色濃く残る大切な思い出。本間咲。別段優に隠していたわけでもないが、何を隠そう僕の彼女である。いや、今はもう元カノと言ったほうがいいのかもしれない。はっきりと別れの言葉を告げたわけではなかったが、だがしかし言葉なんかよりも明確な別れを遂げたのは紛れもない事実だったのだから。だから、今更になって彼女というのはもう間違っているのかもしれない。
「随分と急な話だね?」
「そうだな。連絡が取れたのが昨日の夜でな。急ぎ会いたいと言われたんだ」
「なるほど。僕のこと信じてた?」
「どうだろうな。お前じゃなくて俺が言ったせいもあってか、半部以上は信じてたな」
「そっか」
疑われるのも嫌な気分だが、しかし何の咎めもなく信じられるのも何かこそばゆい話だった。複雑な心境である。
「明日っていつごろだろう?場所とかは何か言っていたかい?」
「夜、とだけ言っていた。場所に関しては気にしなくていいらしい。直々にお前を迎えに行くってさ」
「それはそれは。大層なお持て成しで」
「腰を据えて待っているといい」
「わかった。そうするよ」
いつにもまして厚い待遇だった。僕は一瞬何かのお姫様にでもなったのかと思うくらいだったがそれはもう誰得なのかわからなかったからそっと思考を停止させた。
「君は、来るの?」
「行くわけないだろう。お前たちの話だからな」
「そっかわかった」
「おう。しっかり伝えたからな」
「ありがとう。伝わりました」
「じゃあな」
「また」
そういって純は電話を切った。つーつーと無機質な音が流れるのを確認してから僕も受話器を置いた。
「誰からだったの?」
「純からだったよ。古い友人と会うことになってね」
「彼女?」
「まあ、昔はそうだったね」
「へー。彼女ねー」
「まだ根に持っているのかい?」
「持ってないけど」
「けど?」
「別に」
「拗ねてる?」
「拗ねてない!」
「拗ねてる?」
「拗ねてない」
「拗ねてる?」
「拗ねてる」
「素直でよろしい」
僕に背を向けて座る彼女は顔だけこちらに見せて半眼を向けていた。それはまるで好きなものを買ってもらえずに駄々をこねる子供みたいに幼くてかわいいものだった。
「だって」
「だって?」
「言ってくれてもいいじゃない」
「たはは」
「教えてくれてもいいのに!」
「今度からはそうするよ」
まあ、その今度があるかどうかはわからないのだけれど。
「ということで、明日の夜は少し家を空けるよ」
「はーい」
気の緩んだようなだらしのない返事を聞いて僕は苦笑いをした。
「だから明日は夕ご飯自分でね?」
「えー」
ぶーたれた声が聞こえた。僕個人としてはそこは任せてよと言ってほしかったのだが何を隠そう初日以来夕ご飯は僕が作っていたのである。夕ご飯どころではなく、朝食すらも。まあ、僕は今何もしていないわけだからそれくらいするのが当たり前なのだけれど。
「ご飯、作る?」
「作れるよー」
「いや、そうじゃなくて。練習する?」
「練習?」
「そう。おいしいものをつくろうよ」
「する!」
夕刻、夕日も沈まって辺りは暗い。しかし、我が家のキッチンからは陽気な声が響くのだ。
☆
日をまたいで翌日。優が帰宅したあとの夕方から例にもれず僕は彼女に料理の手本を見せるため二人してキッチンに立っていた。
「作業自体は速いね」
「作れるときは作ってたから」
「とてもスムーズだよ。やり慣れてるんだなってわかるよ」
「そう?」
「うん」
僕は後ろから優の手さばきを覗き込んでいたが彼女の動きは素人のそれとは全くかけ離れていたので僕は素直に感心した。確かに、言っているだけのことはあって長年積み上げてきたものが垣間見える。
「誰かに振る舞ったことは?」
「純君にあるよ」
「ほう。彼はなんて?」
「いいんじゃない?って言われた」
「ああ」
至極微妙な反応だった。まあ確かに言葉通り何とも言えなかったのだろう。本人に言うことはないが心中お察ししますと言ったところだった。
「大丈夫。基礎はできてるんだから、あとは味付けだけさ。純だって美味しいって言ってくれるよ」
「うん。頑張る」
「その調子さ」
そういってしばらく僕たちは肩を並べ夕餉の準備に精を出した。といっても本当に彼女に足りないのはほんの少しの部分、もっと言えば最後の仕上げだけなので恐らくすぐに習得してしまうのだろう。必要なものは執刀でもなければ手本でもない。僕が最後にほんの少しだけ、言葉を添えるだけでいいのだ。
「純は割と、味の濃いものが好きだよ」
「知ってるー」
「僕の好みも参考にしてくれていいんだよ?」
「え?」
「いや、なんでもないです」
いいんです、此れが一般家庭の兄に対する扱いなんです。
すると不意に、チャイムの音が鳴り響く。時間を察するに、咲だった。
「ああ、来たみたいだね。行ってくるよ」
僕はぬれた手を拭いてから優にそう言って玄関へ向かった。準備は万端である。そのために今日は手を下さずただ後ろから眺めていただけだったのだから。
僕は玄関先においておいたバッグを拾い上げ玄関の戸を開けた。そこには酷く懐かしい、女性の姿があったのだった。
「やあ、久しぶりだね咲」
「ええ。久しぶり。本物なのね」
「うん、そうみたいなんだ」
「驚いたわ」
「そうだね。僕も驚いて、って、あれ、弥一?」
不意に僕はどうにも咲の背後にある違和感に気が付いた。それは違和感というより何らかの気配と言ったほうがいいのかもしれないが、それは想定外の話だったわけだからどうしようもない違和感でしかなかった。
「よう!」
「弥一!」
僕は思わず声を出してしまった。そこには思いもよらぬ客人の姿があったからだ。咲の後ろにいたもんだからすぐに気付くことができなかった。或いは、あえて隠れていたのかもしれないが。陽気に手をかざした彼は僕の旧友、坂部弥一だ。二人とも高校生の時に知り合い、それからも縁が続いている。まさか、二人一緒に来るとは思いもよらなかった。
「どうしたんだい!」
「咲から連絡があってよお。これは行くしかないでしょってな」
「ほうほう。うれしいね」
「素直に喜ばれるとなんか照れ臭いなこら」
「たはは」
弥一は頬をかきながら視線を逸らした。変なところで照れるところが昔そっくりで懐かしく思えてならなかった。
「積もる話もあると思うけど、とりあえずいきましょ」
「そうだけど、行くってどこに?」
「ゆっくり話せるところがいいと思ってね」
「思って?」
「私の家、いきましょ」
「実家?」
「一人暮らしよ」
「ほう」
「大学出てから一人暮らしし始めたのよ」
「近いのかい?」
「すぐよ」
「わかった」
そう了承してから僕らは咲の宅へと向かった。その歩みはまた新しく別の所へと向かう一歩であったのだ。僕が遅れを取った分の一歩だ。そんな束の間の時間でさえ、僕らにとっては貴重なものだった。ともに歩く光景など、到底見れるものではなかったのだから。
「歩いて十分かからないところよ」
「随分と近いんだね」
「まあとくに地元を離れる必要もないもの」
「どうして一人暮らしを?」
「実家離れしたかったのよ。大学卒業して就職もすれば、そう思うわ」
「なるほどね。ちなみに仕事は?」
「ただの事務よ。それくらいしかできないもの」
「立派さ」
僕は素直に感嘆したのだが、どうやら彼女はあまりそうは思っていないらしい。下手なところで自信を無くすのはいかにも彼女といったような様子だった。
「弥一は実家の仕事を継いだのかい?」
「あぁ継ぐつもりだぜ。俺がいないとなくなっちまうしな」
「たはは。そうかそうか」
彼の家は地元民に人気のしがない肉屋だった。徒歩で十分ほど行けば駅がありさらに二駅ほど行けば栄えた都市があるのだが、しかしそれだけ離れていればそこはもう閑静な住宅街でしかなかった。故にそういう庶民的な店が僕らの住んでいる町にはいくつもある。その中の一つが彼の一家が切り盛りする肉屋だった。僕も幾度となくお世話になったのは言わずもがな。友人ということもあってサービスしてもらったのは今ではすっかり懐かしい思い出だ。
「順調かい?」
「まあな。もともと手伝いはしてたのもあって問題ねえ」
「頼もしい限りだ」
「おうよ」
僕は彼の変わらない無邪気さに思わず苦笑いしてしまった。なんでも陽気に受け入れることのできる彼のそういうところは素直に長所だと思う。まあ悪く言えば短所でもあるのだけれど。僕は悪気のないその純粋さや屈託のない笑顔なんか見ると人として素敵だと思える。
「昔もそうだったけど、若い男って客には騒がれてるわ」
「いいじゃねえか、イケメンだろ!」
「はいはい」
「その反応適当すぎない?」
「はいはい」
「適当!」
「はいはい」
「ま、まあいいことなんじゃないかな?」
「そうやっていい気にさせると後で痛い目見るわよ」
「そうかな?」
「きっとそうよ。おば様にモテて婚期を逃すわ」
「ああ、そうかもしれないね」
「そんなぁ」
「だってほら、おば様にしかモテないじゃない?」
「否定はできねえ」
「でしょ?」
「うえぇ、何とか行ってくれよ~」
「ごめんよ、僕も否定できないや」
「ひっどい」
咲は昔から人を小突く人だった。それは勿論冗談の範疇だし面白おかしく言うものだから、僕等なんかものせられてあることないこと言ってしまうのがいつものことだった。彼女は口がうまいものだから、ありもしないようなことを言って弥一を困らせていた。弥一はなんというかもう、僕らのマスコットキャラクター的な立ち位置でしかなかったように思える。
「二人とも変わらないなぁ」
「そうかしら。一番変わってないのは貴方だと思うのよ」
「僕はまあ。多分あの日以来時が止まってるからさ」
「やっぱり?なんか全然変わってないと思ったんだよな!」
「うん。多分ね。僕もはっきりとは言えないけど」
「そうなんか?」
「僕自身よくわかってないんだ。現状も、状態も」
「なるほどなぁ」
「でも、見たところによると変わりないわ」
「そう?」
やけに自身気にそういう先に僕は思わず疑問の念を抱いた。
「私がわからないわけないじゃない?」
「ああ、確かに。確かにそうかもしれない」
「でしょ?」
「うん」
彼女はさも当然のようにそう言ったが確かにそうだなと僕は素直に思った。もしかしたら僕のことを僕以上に知っているかもしれないあたり、僕はあまり僕自身のことに興味がなかったのだと思い知らされる。
「にしてもよぉ」
弥一がたまらずといったように声を上げた。それは主に僕に投げかけられた言葉であった。
「変な話だよな」
「ん?僕のことかい?」
「そうそう。こんな不思議なことってあるかよ」
「確かに、非科学的よね」
「そういわれてもね」
僕だって全知ではないし全能でもない。それに恐らく人間でもない。
「細かいことはどうでもいいのよ。多分、ここにいるってことが大事なの」
「まあ、それもそうだな!」
「そうだね。ありがとう」
言葉をもってしては説明などできないのだ。それはあらゆることに言えるそれと全く同じ意味を持ったものだと僕は思う。
ほどなくして彼女は歩みを止めた。そこは特に特徴のないごく一般的なアパートだった。
「ここが私の家よ」
そう紹介されたのは三階の一部屋、広くもなく狭くもなくといったような一人暮らしをするには十分すぎる広さを確保できる物件だった。
「何かちょうどいいね」
「駅もそこまで遠くないからいいところよ」
「そうだね」
「ええ。上がって」
「おじゃまするよ」
「どうぞ」
中に入ってみるとまあまあきれいに整えられていて流石は女性の部屋と言っただけのことはあるのかもしれないと思った。テレビに収納にテーブルに。それに二つのクッションが添えられていた。僕の部屋と比べると、いや、今はやめておこう。
「適当に座ってて。飲み物だすわ」
「ありがとう」
「サンキュー」
「気が利くんだね」
「そう?普通だと思うわ」
「いいやつだろ?」
「僕は昔から知っていたけどね?」
「馬鹿野郎昔よりもってことだよ」
「まあ、それはそうなのかもね」
「何あほみたいなこと言ってんのよ」
「僕も一緒にされた」
「同じよ」
「言われてんの」
「弥一はもっとあほよ」
「ええ?」
「たはは」
弥一の素っ頓狂な声に僕は思わず苦笑いした。相変わらず弄られているとなんだか安心感を覚えるあたりもう彼の性なのだろう。お労しや。
ほどなくして咲が三人分のコーヒーを持ってきた。彼女は昔からコーヒーが好きだったのを覚えている。実のところ僕もコーヒーは好物だったりする。僕はブラックで彼女は微糖で。僕らが付き合っていたころはよくカフェに入っては雑談を添えて一緒に嗜んだものだ。
「はいこれ。どうぞ」
「ありがとう」
「ういどうも」
反して、弥一はあまりコーヒーを飲まなかった。飲めなかったわけではないが自分から飲むことは滅多になかった。或いは、飲んだとしてもいつも砂糖やらミルクやらを大量に入れるものだからいつも僕らにからからかわれていたのを覚えている。
しかし、弥一のカップに入っているのは紛れもなく黒いそれだった。どう見てもお茶ではなかったし紅茶でもなかった。すくなくとも水ではないことは確かだった。
「弥一はコーヒー飲めるようになったのかい?」
「ん?ああ、この通り余裕」
「おお、それはすごいね。何か心境の変化でもあったのかい?」
「さあな。なんとなく?」
「なんとなくって。すごいね」
「案外いけるよ」
「コーヒー好きとしてはうれしい限り」
「そうね」
彼女は小さく笑んだ。それを見て弥一は少しばかりうれしそうにしてはもう一度カップを仰いだ。僕はその光景を微笑ましく思いながら改めて彼の手元を覗く。多分、そんなに砂糖やミルクが入ってない。ほんとに飲めるようになったんだろう。
そこではたと、僕はあることに気が付いた。
「そのカップ。二人ともお揃いなんだね」
「ん?あ、ああ。うん」
「そうね」
黒と白。色は対照的ではあったがデザインは全く一緒だった。お揃いというかペアルックというかこういうのはなんというんだったろうか。よくわからないが一緒だった。
「面白いね」
「お、面白い?面白いか」
「何とも言えない感性を持ってるわね」
「そう?」
「そうだろ」
「何か変なところ時がたっても変わらないのね」
「まあそうそう変化できるところじゃないからね。もうあきらめてるよ」
「それでこそあなたよ」
「褒められてるのかな?」
「そうではないはね」
「ああ、そう」
どうやら見当違いも甚だしいと言ったところだったようだ。それは僕のいいところの一つとは数えてくれないらしい。
「反して、弥一は結構変わったのよ」
「そうなの?」
「ええ。こいつ、本を読むようになったのよ」
「ええ!」
「わかるわその反応」
近年まれにみる衝撃だった。昔の弥一といえばそういう文学的なものとは無縁な、もっと言えば感性に語りかけるような嗜好品とまるで接点のない男だったはずなのだが、そんな彼が読書を嗜むようになったとは。
「どうしたんだい君何があった?」
「何もねえよ酷いな。俺だって新しい扉を開きたいお年頃なんだって」
「それにしたってまさかね」
「まだあるのよ」
「まだあるのかい?」
「そう。お酒も飲めるようになったの」
「ええ!」
「わかるわその反応」
衝撃だった。彼はてんでアルコールには弱く飲酒を自重していたのだが、まさかそんな彼がお酒をたしなめるようになっていたとは思いもよらなかった。
「飲んでも大丈夫なのかい?」
「あまり強くはないけどな」
「十分さ」
「すごいでしょ?」
「ああ、そうだね!」
僕らが絶賛していると弥一は照れ臭そうにはにかんではすごいだろ、と調子のいいことを言ってごまかした。純粋に僕は感嘆を述べるに相応しい進歩だと思った。
「なんだかようやく僕らの趣向に近づいたような気がするね」
「そうね。読書は私たちの共通の趣味だったしお酒ももともと飲めたものね。これで三人で楽しめるかしらね」
「そうだね」
「ああ」
人の変化は多種多様である。苦手なものを克服するやり方もあるのだろう。それがいかなる理由であれそれはいいことだと僕は思う。
暫く僕らは他愛もない話に花を咲かせていた。それはいつもみたいに意味なんてなくて、だけど大事なものだった。僕たちの時間はいつだってそういうものだったんだ。
話を聞くたびに僕の脳裏には古い記憶が甦っては薄れゆき甦っては薄れゆきを繰り返してまるで時間遡行でもしたような気分に浸ることができた。古い話もあれば新しいものもある。僕の知らない彼と彼女がそこにはいたのだ。僕の知らないところで、或いは僕の知り得なかったものを、彼らは体験したのだ。
それは恐らく、人間関係だってそうなのだと改めて僕は思った。いつだって変わりゆき移ろい揺れる。人は失っては新しいものを得る。そしていずれそれも失うのだと僕は思った。古い記憶は新しい記憶へと塗り替えられる。それはまるでちょっとした壁紙のように。しかし季節ほど美しくはないのかもしれない。
僕はこの数時間で知ったのだった。
僕はすでに彼ら彼女らの中から消えていたのだと。消えていたというよりはなくなっていたのだ。ないものとして認識されていた。ごく当たり前の話だった。僕は存在していないし生きてはいなかったわけだから、当然僕は彼らの生活からすでに踏み外していたのだから。だから、僕のいない世界で、僕を除いて事象は回るのだと。悪く言ってしまえば、蛇足でしかないのかもしれない。それはあまりに悲観的な発想ではあったし誰も僕にそうは思っていないのだろうけど、結果だけ見てしまえば、そう思うのは酷く必然的な話だったのかもしれない。
例えば、彼と彼女の関係性の間に、僕は不要であるということも。
「君たちは付き合ってるの?」
「え?」
「それは」
鋭く反応したのは弥一のほうだった。僕の発したその単語を聞くや否や彼は僕に疑問の声をかけた。一方で咲はただごまかしてたじろぐだけで僕のほうを向くことはなかった。
「別に」
「そうね」
弥一と咲は互いに顔を合わせてそう何とも言えないような雰囲気で納得して見せた。
「間違ってたらごめんよ。でも、隠す必要なんてないよ。むしろ僕は応援したいくらいさ」
「いや別に隠すとかではないけど」
「そうなの?」
「ああ」
「勘違いだったかな。もし合っていたら、僕はいいことだと思ったんだけどね」
「そうか?」
「うん。当たり前じゃないか」
僕はさぞ当たり前だというように彼を見た。その言葉は勿論本心だった。それがたとえほかの人からすれば考えられないような行為だったとしても、僕は心の底からそう思うことができたのだ。
「違った?」
「いやそうじゃない」
弥一はそう呟いてから少しばかり押し黙った。刹那的な時間の中で彼は色々なことを思案しただろう。そうでなくても言うべきことを吟味していた。
「怒ってないのか?」
「どうして?」
弥一はまるで僕の機嫌を伺うみたいに覗き込むように、禁忌を犯してしまった幼児のように控えめに尋ねてきた。それは僕に対して罪の意識があったからだということは目に見えてわかった。
「だって俺は、お前の。咲を」
「いいんだ。それに咲はものじゃない。彼女の意見を尊重したい」
「それはそうかもしれねえけど」
彼にとって彼自身が行った行為は罪深き大悪であったのだろう。確かに、僕は咲が好きだったのだから、素晴らしいことであるとは思うけれどだからといって僕の深層心理のその先が必ずしも穏やかであるとは限らないのだから、そう思っても致し方のないことであるのだろう。否、それが必然なのだ。
「それに、僕はもう咲を守れないんだ。彼女と同じ時間を刻むことはできなくなってたんだよ」
「でも今は」
「僕が手放してしまったもの、或いは咲が失ってしまったものを君が守ったんだ。今更僕がでしゃばる話でもないさ」
しかしながら、僕は何を想っていようと、僕は恐らくもう彼女の横に立って並ぶ資格はないのだと思う。それはあまりにも無責任で、自分勝手なことなのだから。僕にはもう、傍観者でいる選択肢しか、残されてはいないのだ。
「それに、僕は今きっと人間じゃない。だから、どのみち無理なんだ」
「すまん」
「いいんだ。僕は応援してるよ」
「ありがとう」
弥一は少しばかり涙ぐんでは僕に頭を下げた。今、彼女の横に立つ資格を持つ者は彼を除いて他にはないだろう。僕という一ピースを失ってしまった咲を支えたのは紛れもなく、弥一なのだから。
反して、僕と弥一のやり取りを眺めていた咲はふと視線を下げた。
「咲?」
「何?」
「いや、浮かない顔してどうしたの?」
「何でもないわ。居心地が悪いだけ」
「あ、ああ」
はたから見れば咲を取り合っている場面にも見えなくないもんだから、その張本人からすれば確かに居心地は悪いのかもしれない。
「ありがとう、弥一」
「お礼を言われる立場じゃねえよ」
それでも、僕は礼を言わざるを得なかった。僕の取りこぼしてしまったものを守って救い上げてくれる人がいる。僕はそれだけで何か救われたような気がして、罪悪感から少しばかり解放されたような気がして、ただただ感謝の念しかなかったのだ。
「それにしても、人間じゃないってのは言い過ぎなんじゃねえの?」
「ん?」
「確かにそうね。なんだか話を大きくしてる気がするわ」
弥一が冗談半分で僕に尋ねる。まあ一見すれば確かに戯言めいた虚言にしか見えないのは明白ではあったのだが。
「そうでもないんだ。まんま、全くその意味であってるよ」
「なんで?」
「簡単な話さ」
「一回死んだからとかじゃないわよね?」
「確かにそれもあるけど、そうじゃない」
「じゃあ何が?」
僕はどう伝えれば的確であるか、しばし悩んだ。このありもしない偶像のような現実を彼らに指示すには一体どの言葉が適切なのか思考した。
「そうだなぁ」
彼らは僕の言葉を待った。待ち望んだ。それがくだらない冗談であれと恐らく願っただろう。或いは、僕の行き過ぎた勘違いか何かであるとたかをくくっていたのかもしれない。どのみちそういう現実にはありもしないことを僕の口から発せられることを想像しただろう。
「弥一。手を貸してくれないか?」
「あ?ああいいけど」
しかしながら、全く適切な言葉が見つからなかった。それが嘘に聞こえなくて、それでいてはっきりと理解できる方法が。だから、言葉ではなく、行動で示すことにしたのだ。それが一番的確でてっとり早くて。
「じゃあ、少しばかり拝借するよ」
だが、最も、残酷であったのかもしれない。
「おう」
僕彼の手を引いた。迷いなく、胸元に。それは何の他意もなく或いは他に何も感じ取れるものがないほどに純粋な情報だったと思う。もしくは、何も、感じ取ることのできないものであったかもしれないが。
僕は深呼吸した。深く息を吸う。しかしそれは、真似事でしかないのだ。人の形をした何かの、人間の真似事だ。
「お前、これ」
「わかったかい?」
「いやでも」
彼は目に見えてたじろいだ。それはあるはずのない真実だったからだ。
「何?どしたの?」
「咲も、確認してくれ」
「え?」
恐る恐るといったような様子だった。見ている僕とすればそれは恐ろしく滑稽に見えたのだが、本人からすれば未知にも等しい異物に触れることと同義であったかもしれないと思うと、思わず僕まで緊張してしまうのだった。
「いいよ」
やがて、僕も咲の手を引いた。久しく触る感触だった。僕はそんなことを一瞬思っては、すぐに忘れる。
「え?」
「わかった?」
「ええ」
弥一と同じように咲も面食らったような表情で僕を見た。確かに、驚くかもしれないが、どちらかというと僕の存在自体驚き以外の何物でもないので僕自身初めて気づいたときそこまで驚くことはなかった。しかし、それが常軌を逸しているのは自明の理。違和感や不自然では語りつくすことのできないような、事象だった。
咲は弥一に視線を向けてから、もう一度僕に向いた。それは口にするにはあまりに滑稽で、無粋ではあったのだけれど確認せざるを得ないのは確かだっただろう。
「心臓、動いてない?」
「ご名答」
僕の生命活動の鼓動はすでに、止んでいたのだ。
「僕はもう人ではない。人間という枠組みから足を踏み外してしまったんだよ」
「お前自身、何ともないのか?」
「違和感はないよ。何もね」
「それなら大丈夫なんじゃ?」
「何もないんだ。何も」
「どういうことかしら」
「あらゆる生命活動に意味が見いだせないんだ。今の僕にとって食事や睡眠は必要ない。しても何も満たされないんだ。もっと言えば、呼吸でさえきっと無意味なんだろう」
「大丈夫なのか?」
「わからない。ただもう人間的な部分は残ってないと思う」
「そんなことは」
「否定はしきれないよ」
僕の今の現状は思っているよりも非現実的な話なのだ。ただでさえ僕がここにいる時点であり得ない話なのに、それをよりややこしくする原因があるのだから。
弥一は少しばかり気にするような目線で僕を見た。
「気にしなくていいよ。それ以外昔となんら変わりないからね」
「そうなのか」
「うん」
僕は一拍置いてさらに続けた。
「ただ」
「ただ?」
「ひとつ気がかりがあってね」
「というと?」
「これは確証を持てる話じゃないから絶対とは言えないんだけど」
言うべきかどうかは迷ったのだが、これは恐らくいずれは誰かに打ち明けなければならないことであるとであった。僕は慎重に、事実だけを述べた。
「恐らく、僕は長くはいられないと思う」
「そんな」
「多分、限界があると思うんだ」
「どうしてわかるの?」
「なんとなく。そんな気がするんだ」
「そんなのって」
「悲しまないで。僕たちはこうして再会できたのだから、笑ってよ」
「でも」
「大丈夫。きっとすぐじゃない。いつかってことさ」
咲はなんとも切なげな表情を作っては気を落としたように声を漏らした。
「それに、弥一もいる。問題はないよ」
「おう」
弥一は咲をそっと抱いて僕に返事をした。
「それはもう妹さんには話したのか?」
「いや、まだなんだ」
「どうして話さなかったんだ?」
「話せなかった。そう言ったほうが正しいかもしれない」
「ああ」
「僕が弱かったんだろう。彼女にとってそれはあまりにも酷だから」
「そうか」
或いは、僕が弱かったのかもしれないが。
「いつか打ち明けるのか?」
「わからない」
「なるほどな」
「けど、いずれその日は来ると思う」
「覚悟はしておいた方がいいのかもしれねえな」
「そうだね」
「せめて、言葉だけは残しておければいいだろ」
「そうかもしれないね」
何も残らないよりはたった少しの形でも刻むことができれば、それは幸せなことなのかもしれない。でもそれは未練とかそういうものの根源であると僕は思った。何かを刻み付けるということはまた、失うことを確認させるきっかけでしかないのではないだろうか。
「何か暗い話をしてしまったね。ごめん」
「きにすんなよ。聞けて良かった」
「ええ」
「二人とも。ありがとう」
確かに、楽しい思い出話にしては少々鬱がすぎるものだったと今更ながらに後悔した。時と場合というものをもう少し考えるべきだろう。なんとなく気まずい雰囲気になってしまったのは言わずもがなだった。
「しみったれた話は終わりだ。終わり。飯にしよう」
「うん、そうだね」
「なんだか腹もへったしな」
「夕餉はみんなまだでしょ?」
「そうだな。俺も咲もまだ食ってない」
「そっかそっか」
「何か食いに行くか?」
「そうだなあ」
僕と弥一はこっそり咲の顔色を覗き込んだ。きっといつものようにあれだこれだって好き勝手なことを言うと踏んだからだった。というよりも、そういう風に彼女の意見を聞くのが僕らのやり口だった。
「咲?」
けれど今回に限ってはそうでもなかった。いまいちぱっとした答えが返ってこなかったしただなんとなく僕のことをぼんやりと眺めて考え事をしているだけで、どこか上の空といったような感じだった。
「大丈夫?」
「え?」
「咲、ご飯何食べたい?」
「えぇ、ああ」
僕が彼女の顔を覗き込んで心配すると咲は少しだけあたふたとしてからそうね、と言ってようやく僕らの話を聞いてくれた。
「私が作るわ」
「え?」
「まじ?」
「ええ」
咲はふっと思い立ったようにそう言った。或いは、すでにその答えは用意されていたのかもしれないが。それでもその答えが僕らの予想の斜め上を往く形であったのは紛れもない事実だったと言わざるを得ない。僕も弥一もそんな回答は想像にもしていなかったのである。
「作れるわ。まかせなさい」
「いやそりゃ知ってるけどよ」
「貴方じゃなくて」
「おおう」
「僕は構わないよ」
「そう」
「むしろ、うれしいくらい」
「そう?」
「うん」
まあ確かに、時間的にもまだ余裕もあったしてっきり外で済ませるのかと思っていた僕からすれば驚くところはあるけれど、それでも旧友の手料理を、否、元恋人の手料理を拝めるのであれば僕は嬉々としてそれを受け入れるだろう。
「任せて」
「うん。頑張って」
咲は胸を張って自信ありげにそういった。何かデジャヴめいたものを感じるが気のせいだろう。そもそも彼女は昔から苦手ではなかったはずだ。僕はそう記憶している。ならば、心配はいらないのだろう。
「楽しみだ」
咲は上機嫌でキッチンへと向かった。それは友人に、或いは恋人に手いっぱいの気持ちを施す絶好の機会だからなのだろう。僕はそれをおとなしく甘受するのだ。
僕は弥一をこっそりと覗いた。彼は少しだけ、困ったような表情をしていた。
それから夕餉を済ませて僕は帰路につくことにした。
ちなみに言うと、咲が振る舞ってくれた手料理はいかにも家庭料理といったような様で特にこれといった華々しさというものには欠けていたが、しかしそれはひとたび口に運べば甘美な世界へと誘ってくれるほど絶品で完成されたそれだった。やはり自信満々に言うくらいなのだからそれは非常に美味だった。これはおはやお金をとれるレベルなんじゃないかと疑うくらいには僕に刺さるものであったと言えるだろう。これをいつでも好きな時に食べることのできる弥一は素直に羨ましい。胃袋をつかまれるとはこのことを言うのかもしれないと脳裏を過った。恐らく弥一はもう咲なしでは生きていけない体になってしまっているだろうと思うとなんと滑稽な話だと笑みが止まらないが僕も考え直せば僕も危うかったと少々冷や汗が滲む。
そのあとそれからまた会話に花を咲かせてはくだらない戯言を重ねる児戯めいた行為に耽って、そうして僕は頃合いを見計らって帰ることにした。
「帰り道がいまいちわからないんだけど」
「ああ、じゃあ俺ついてく」
「そうしてもらえると助かるかも」
「私も行く?」
「いいよ。時間が時間だし、弥一に頼むよ」
「そうだな。俺の扱いな」
「ええ?欲しがりだよね?」
「そうだった!」
「認めちゃうのね」
「弥一」
君の立ち位置は相変わらず変わらなくて僕はいつも安心する。
「とりあえず俺が送るから、用意しとけ」
「うん」
彼は僕に向かってそういった。僕は持ってきた少しばかりの手荷物を抱えて立ち上がった。
「今日はありがとう咲」
「ええ、こちらこそ」
「再会できて僕はうれしいよ」
「そうね。また逢えるなんて、夢みたい」
「そうだね。夢みたいだ」
「ええ」
幸福的な夢を見ているみたいだ。それはふわふわしていて幸せな夢。僕は旧友に囲まれて、最愛の人に囲まれて、普遍的な日常の波に呑まれればいい。ただその深くまで。そっと、深くまで。
「そう、夢のようだ」
それは確かに安らぎにも近いものなのだろう。漣のように静かで聳え立つ樹木のように不変だ。けど。夢というのはしかし、何時かは醒めてしまうものなのだ。それは絶対に終わりを見せるものなのだ。故にそれを、夢と呼ぶのだから。
「行こうか、弥一」
「おう」
「じゃあ、咲」
「ええ」
「忘れ物するなよ」
「たはは。近いんだから大丈夫だよ」
「まあ、それもそうだな」
「うん」
僕は咲に手を振ってから弥一と共に部屋を出た。咲はただうれしそうに僕を見るだけだ。ただ一時の別離。たったそれだけのことだから。
外はもう真っ暗だった。いや、すでに自宅を出たときにも暗かったのだが、辺りはより一層静けさを増して何倍も薄暗く感じた。中にはもう部屋の電気の消えている家もいくつかあるものだから、きっとそれもあって暗く感じるのだろう。僕たちは二人でまるで暗闇の迷路を彷徨うように静かに歩いた。
「弥一も、今日はありがとう」
「いいってことよ。俺も、お前にあえてうれしいから」
「ありがとう。僕もさ」
「はっはは」
弥一はこっそり笑って見せた。それは軽い友情の確かめ合いみたいなひょっとすればくさい仕草だったのかもしれないけれど、僕はそれが無性にうれしくてたまらなかった。彼は何となく伸びをしてでもさ、とさらに続ける。
「お前は何も変わらなかったな」
「まあ、そうだろうね」
「ああ。なんかいろいろ」
「いろいろ?」
「ああ、いろいろだ」
「へぇ」
確かに僕自身何の変化も訪れていないということは勿論自覚していた。それは彼ら彼女らとは別離された時間の奔流を過ごした僕へのあてつけのような現実を抜きにしてもいろいろ変わってないと言われると僕はいまいち何を指しているのか見当がつかない。
「君は変わったね。いや、みんな変わったよ。僕を置いて行ったみたいだ」
「そりゃな」
「君もさ」
「ああ」
僕はそっと彼から視線を逸らした。誰も見ないで、何も見ないで、或いは僕自身を見つめなおして、まるで呟くように言って見せた。
「僕みたいに」
弥一は目に見えて逡巡した。その言葉は恐らく、今最も彼に刺さるものだったと僕は思う。しばらくの間沈黙が続いた。その間聞こえるのはただリズムの違う二人の足音と潜めるように彷徨う息遣いだけだった。暗闇と静寂が闊歩するこの道を往くぼくらはまるで孤独と共にある幼子のようだった。僕ら二人とも多分、本音だった。
「全部、ばれてたのか」
ほどなくして彼は思い口を開いた。さまざまな葛藤が胸中を渦巻いていたのだろう。その言葉は酷く黒く見えてならなかった。或いは、闇を感じざるを得なかったのだ。それはあたりを覆う暗さとは間違いなく別物であっただろう。
「君も、言ったじゃないか。僕は変わってないって」
「ああ」
「いつだって、君のことをわかっていたはずさ」
「そうか」
弥一は良くも悪くも単純な男だった。否、純粋と言ったほうがいいのかもしれない。それは無邪気とか幼稚とかそういうものに分類されてしまうようなものではあったけれど、しかしそれは我々が成長するにあたって失ってしまった人としての原石に様な部分だった。いや、本来ならばそれを失うことによって僕たちは子供から大人へと変わっていくのかもしれないが。彼は確かに変わった。しかし、変われない部分もある。或いは、それは変わってはならない部分であったのかもしれない。どのみち、人の根源的な部分は変化することができない。薄く濁ってしまっても根本は変わらないのだ。だからこそ、僕は彼を理解することができた。それこそ純粋に真っ直ぐ、正面から彼の内面を把握することができたのだ。
故に、それは今も昔も変わらない。
「お前は俺の理解者だったか」
「そうかもしれない」
「望んだこことも、望まないことも、見透かされてたな」
「ああ」
だからこそ僕らは、友人だったんじゃないか。
「どうしてわかった?」
「どうだろう。きっと君の話を咲から聞いたときなんとなく。それで、君と話をして確信に変わったよ」
「そうかそうか」
咲から聞いた弥一の目に見えた変化。それは紛れもない、証拠であったと思う。
「ははは、怖いやつだ」
「うん」
「納得するなよ」
「いやあ」
「迷惑だったか?」
「いや」
彼の立ち振る舞いなんて僕が口をだすようなことではない。彼女との付き合い方など僕がどうこういっていいようなことではないのだ。
「ただ」
「ただ?」
しかし、たとえそうであったとしても、どうしても、言わねばならないこともあると思うのだ。なぜならば、叶わぬものもあれば、手に出来ないものだって、いくらでもあるのだから。
「君は、僕に、なれないよ」
それが、彼にとってどうしようもなく絶望的な言葉であったとしてもだ。
「俺は変われないか?」
「いや。誰も誰かになり替わることなんてできないんだよ」
「でも。そうでもしないと」
「ああ」
「咲は俺を見ない」
それはもう、独白でしかないのかもしれない。僕の意思とは無関係に、彼は吐露する。
「俺はこうでもしないと咲の横には立てないんだ」
弥一は今何を見ているのだろうか。何が見えているのだろうか。それは僕の姿を成した、憎悪でしかなかったのかもしれない。それは友人という、しかしたった一人望んでも手に入らないものを手にした最悪だったのだろう。
「咲の瞳にはまだ、お前が残ってる」
僕のまねをするのも、彼女が望む姿になるのも、それはただ咲という一人の女を振り向かせるためだけの口実でしかなかったのだ。だけど。彼は失ってしまったかけらを埋めるには不十分すぎて、その資格を持ち合わせてはいなかった。いつだって弥一は、僕の残像を追うだけでしかなかったのだろう。
「頼む。頼むから」
彼は懇願する。それは最後の手段でしかなく、それ以外に道はないのだと悟ったからだった。
「咲と、別れてくれよ」
或いは、僕という絶対的な存在に対して、失念を抱いたからなのだろう。
「僕と彼女はもう終わっているよ」
「それはお前だけだ」
「ああ。そうかもしれない。でも、もう終わったんだ」
「それでも、はじめられねえんだ」
「それは」
僕は言葉を失った。僕ができることなど、何も残ってはいないのだと、痛感したような気がしたからだ。そもそも、これはもう僕に出る幕などなかったはずなのだから。僕にはもうわからなかった。
「あれは」
「もうこの辺でいいだろ」
「え、あ、ああ」
辺りを見回せばもうすっかり僕の近所まで来ていた。うっかり考え事をしていたものだから全く気付かなかった。
「じゃあな」
「弥一」
彼は僕の言葉を聞かないまま背を向けた。それは強引に、まるで言い聞かせるように、せわしいものだった。心なしかいつもより歩くスピードが早かったような気がした。
「僕は」
何が正解だったかはわからない。或いはこれから模索していくことなのかもしれない。それでも、僕らの関係が間違っていることだけはなんとなくわかった。だから、やり直さなければならない。それが死してなおも生まれ落ちた僕が、彼のためにしなければならないことなのだろう。
ほどなくして僕は我が家へと帰ってくる。リビングは未だ電気が煌々と光っていた。優がまだ起きているのだろう。てっきりすでに微睡の中にいるものだと思っていたものだから、少しばかり驚いた。もし僕を待っていてくれていたのならば、申し訳ないことをした。自責の念が頭を過る。だが、ああ。
やはり、僕の居場所は、ここなのだ。
門扉をくぐる。ドアのカギを開け、その扉を開けばまるでいつものように優が出迎えてくれるのだ。
案の定、僕が家に入るとどたどたとかけてくる音がして優がやってくる。せわしく出迎えるさまはまるで愛犬のような愛くるしさがあったのだがそれは黙っておくことにする。また優の機嫌を損ねてしまっては元も子もない。だから僕は素直にただいまと言って、靴を脱ぐのだ。
「お、おにいちゃあん」
しかし、僕の期待とは裏腹に何か困ったような様子で僕を見つめる優の姿がそこにはあった。その声は助けを斯う仔羊のようにか細い。そんな様子を目撃した僕はついに、その違和感を感じ取った。
「おかえり」
いるはずのない第三者。優ではなく、さらにその背後から聞こえる妙に甲高い声。あるべきではないものがそこにはあって、優の後ろからすっと出てきたのは紛れもなく蛇足的なものだった。
「うちのこと、覚えてる?」
僕を試すみたいにほくそ笑んで、彼女は僕にそう言うのだった。多分、一難去ってまた一難とは、このことを言うのだろう。
チラチラチラチラ
こんな感じで見てね