懐古
形あるものはいずれ潰えてしまう。それは誰もが知る法則だろう。物もさることながら、人間だってそれは同じだ。一概に否定されてはならない決まりごとのような鉄則だけれど、もしかしたら例外ってものはあるのかもしれない。言葉では説明できないような事象が時には起こるのだろう。僕はそういう決まりきった理のレールを踏み外してしまったようだった。一体それがどこに向かうのかは分からなかったが。
長い、とても長い会合を終えてから、僕は懐かしき我が家の門をくぐった。なぜだろうかとても緊張したようで、なんだかドキドキしてしまったけれどふっと敷地の中に入ってみれば体が思い出したかのようにその漂う空気を求めて僕を急かした。至極一般的な一軒家だった。特にこれといった特徴のないどこにでもありそうな当たり障りのないごくごく普通な、家だった。少しばかりの変化はあったけれど、僕が記憶している間取りと家具は立派に顕在していた。懐かしさが胸いっぱいに広がって、すこしだけ涙が出そうになる。ああそうか、僕は今ここにいるんだって。そう思わざるを得なかった。
「何も変わっていないんだね」
僕は家の中に入ってゆっくりと辺りを見回しながらそう言った。
「うん。私一人だったから」
「そうだったね」
彼女の言葉を聞いて僕は胸がチクッと痛んだ。彼女を一人にしてしまったのは紛れもなく僕なわけで、自意識過剰かもしれないけれど彼女が孤独に生きたのは僕に過失があるわけで。僕はそれを改めて確認することによって、自分が失ってしまったものの大きさに三度気付いた。
「ごめんな」
「うん」
未だに僕らの言葉はたどたどしかった。それはまるでお互いの心中を優しく探り合っているようなもどかしさとこそばゆさが折り合って、少しだけ空気が優しかった。
「僕の部屋は」
「うん」
僕の問いに彼女は小さくうなずいて答えるだけだったが、やがて僕の瞳をその大きな真珠みたいな綺麗な双眸でそっと覗きこんでまるで手招きをするように僕の指を握った。そして彼女は僕の指をちいさく引っ張って、懐かしい場所にいざなった。そこは2階のはじの一室。階段の軋む音さえも今は懐かしく感じられたが、僕はそれ以上にそこが気になった。在るべきではない、その一室を。
「ここ」
「ありがとう」
彼女はその扉の前に立ち止まると、すっと僕の後ろに立つ。
「開けるよ」
「うん」
ドアノブは静かに冷たかった。それは気温のせいか、或いは主を亡くしてしまったがためのものなのかはわからなかった。そっと手にかけたその扉は、心なしか重い。それは体が無意識に拒否するのか、それとも頭が受け入れたくないのかはいまいち分からなかったが一つ言えるのは、そこはあるべき場所ではなかったということだ。
僕はあらゆる邪念を振り払うように一息に扉を開けた。
「全部」
「そのままだよ」
「みたいだね」
その部屋はわずかの違いすらなく僕の古い記憶の中の残像と一致した。
「どうしてすてなかったの?」
「だって、どうしても捨てられなかったから」
「でも僕は、もう戻ってくることはないはずだったんだよ」
「それでも。できないよ」
「そっか」
彼女はすっと目を伏せた。諦めきれなかった失念が渦巻く彼女の奥底は暗く見えた。切なさだったりはがゆさだったりが織り交ぜになって僕の居場所に虚を生み出したのだ。
だが、もし僕が同じ立場だったらと考えると、否定することはできなかった。きっといつか帰ってくるのではないかという淡い期待を抱きたくなるのは、至極必然的な話なのかもしれない。諦めが悪いとか未練がましいと言われたらそれまでなのだけれど。それでも、待たざるを得ないのは愛しき人だからだと僕は思う。
「ごめん」
僕は無意識に言葉を吐いた。僕は今僕自身が犯してしまった罪の片鱗を見せつけられたような気がした。これは誰かに咎められるようなものでもないのだろうが、しかしながら僕は被害者でもあったが同時に加害者でもあったのだと気付かされた。死とはまた、孤独ではあれど無であった。しかし残されたものは、何も残らないのだ。或いは、形の成さない憎悪や虚無感と果てのない喪失感だけが木霊する。僕は罪深い人間なのかもしれない。否、僕だけでなく、死者とはまた、業を背負う咎人のようなものなのだろう。
「いいの」
それは哀愁にも似た切なげな吐息だった。あらゆるものを失った者の嘆きにも見えた。しかしそこに寂しさはなかった。
「悲しかったしさみしかった。とても、独りだった」
「うん」
「でも」
「うん」
「今こうして言葉を交わせる」
「そうだね」
「それ以外に、いらないの」
「ああ、僕もだ」
少し時間を遡れば望んでも望まれても僕の手には収まらぬものだ。恐らく、これ以上の望みはないだろう。当たり前のようにすごすこの時間を、誰かが今手放しているかもしれぬこの普遍的な日常を、僕たちは求め探し続けたのだ。
「でも安心して。僕はもういなくなったりしないから」
「本当?」
「本当さ。君の傍にいるよ」
「なら、よかった」
心の底から安堵したような言葉を吐露した彼女の顔を見て僕は少し胸が痛くなった。確かに僕は彼女の傍から消えるようなことはしないだろう。たが、一切の不安要素がないと言ったらそれは嘘になる。何よりも、僕自身の存在を証明することができないことが僕を不安にさせてしょうがなかった。もっと言えば、僕は生きているのかどうかやどこまで認識されているのか、何ができるのか、そんな諸々の不安要素を抱えここにいた。つきつめてしまえば、僕は一体何者で、何時までこの体を保っていられるのかさえわからなかった。或いは、役割があるのではないかと思えてしまう。何かするべきことを成し遂げるために僕は生をなしたのではないかと。しかし僕の未練とはいったい何なのか。それを明確に知ることは許されなかった。
恐らく、彼女と何か深い関係があるとは思う。何故なら他ならぬ、唯一の家族だからだ。もしくは、そう断言したかったのかもしれない。
勿論、生まれたときから二人きりだったというわけでもない。とある母体から産み落とされたのは確かだった。それはとても小さな家族だったけれど、何不便のない裕福な家庭というわけでもなかったけれど、だがしかし不自由はなかった。ごくごく一般的である種理想的な家族愛に満ちた多幸的な一家だった。僕はその家の長男として生まれその苗字を継ぐ男として育てられることになる。やがて、僕に妹ができると彼女は両親の想いを経て「優」と名付けられた。それは僕が三歳の頃の話だったから明確に記憶しているかと聞かれたらそれはあまり自信がなかったが、それでも本能とかそういった長男として携えている感覚が唯一の妹を守らねばと直感しただろうとは思う。その影響もあってか、或いは家族に甘やかされて育ったせいか、物心がついたころにはもう末っ子としての立ち回りを完全に把握しているようだった。というより、しっかりとしただとか主張性があるだとか行動力があるだとかそういった自立精神とはかけ離れた感覚を持ち合わせた手のかかる子に育ってしまった。恐らくそれを加速させたのは他でもない家族が要因ではあったのだけれど。
つまりはそういうような、家族の仲が良くて笑顔が絶えないそんなありふれた一家に僕は生まれそして成長した。そしてそれは当たり前のことで誰しもが手にしているものなのだと甘受していた。むしろそれを失うだとか手放すだとかそんなこと想像すらしなかった。或いは、想像することができなかった。未熟が故に愚かが故に如何に自らの境遇が幸福的で満ち足りたものであったということを理解することができなかった。そういう普通の子供が、ここでは育った。
しかし、転機は訪れた。それは僕が高校二年生の頃合いだった。暑い夏の、日曜日。未だ明るい夕方のことだ。
学生の頃僕は美術部だった。昼から初めて夕方には帰る気の抜けたような部活動であった。だから帰りは吹奏楽に熱を込める優に比べ断然早かった。そんな日常の一こまを飾る変化のない風景を歩いていた。いつもの何変わりない帰路を往く僕が初めて疑問を抱いたのは我が家の敷地に入りドアに手をかけたその刹那であった。鍵の閉まっていないドアだった。しかしまだ疑問といったところでまあたまにある鍵の閉め忘れ程度にしか思ってはいなかったが、それはドアを開けてただいまと言う前に別の何か新しい確信へと変わる。玄関が荒れていて、おそらく土足で上がりこんだせいであろう土やら何やらの汚れが廊下に続いている光景を目の当たりにして僕は限りない恐怖ととめどない寒気に襲われた。あからさまな物音がしていたら確実に危険であると思えるのに、物静かになるとそれはそれで怖かった。しかしふと物静かであったという現状を再確認して僕は嫌な予感が脳裏を過った。或いは、考えたくもない結末を刹那的に作り上げてしまった。まったく声は聞こえない。いつものようにお帰りといって出迎えてくれる母もいなければこの状況をあわてて説明する父の姿も見受けられなかった。同時にそれが何を指すのか分からないような僕でもない。僕はこの先の展開に希望を抱くことができなかった。足は震えたし息は無意味に乱れた。それがさらに僕の恐怖を加速させる。焦点の定まらない足取りでゆっくりと今は閉じられたリビングへ続く扉へと向かう。その一歩一歩の歩みによって現実へと近づいているのだと思うと、ぞっとした。しかしやがては目の前に迫ってくると僕はついにノブに手をかけた。ひどく生ぬるい。
そして。僕は括目する。
扉を開いてまず思ったことは部屋に籠った異臭だった。生臭くて錆びたような鼻につく異臭に顔をゆがめたが、次いで酷く荒らされた部屋を見て何かを確信した。信じがたき偶像にすぎない予測めいた予感が確証へと生まれ変わる瞬間だった。最後に僕はようやくこの話の要を目撃する。
床に倒れこむ両親の姿。一寸とも動かない人間。少しばかり変色した人。血塗られた肉塊。鮮血とは程遠い掠れた赤黒い血痕。万物の終焉。人によって下された終結。創造された終わり。全て、理解する。
言葉にはならなかった。或いは、声にすることすらままならなかった。激しく唸る動悸、幻覚にも似た震え、外界に迫る吐瀉、使役できない筋肉、流れぬ涙。ありとあらゆる反応が僕に絶望を指し示していた。へたりとその場に座り込んでしまう。
そうして何もしないまま、何事もできぬまま、時間が流れた。思考することを破棄した者の無意味なひと時だった。
小一時間ほどたった頃合いだったろうか。僕はようやく自我を取り戻してのっそりと立ち上がり立てつけてある固定電話に手を伸ばした。兎に角どうすればいいのかわからなかった。何が最善な選択肢で何をすればいいのか全くもって理解できなかった。だからとりあえず僕はダイヤルを回して無機質な声で、もしもし警察ですか、と言ったのだ。
それからのことはよく覚えていない。酷く曖昧だ。すぐに警察が駆け付けたような気がした。それから保護されて事情を聴かれた。ただその時何を答えたのかはもう覚えていないのだけれど。しかし朦朧とした意識の中で僕は呑気に家路を来た優に両親の最期を見せなかった。それだけはいけないと確信したのだろう。なにも考えられなかったはずなのにそれだけがはっきりと鮮明にわかった。だから、事情を知ってわんわんと泣きじゃくるか細い優を僕はただ必死に抱きしめた。言葉をかけてやることも慰めてあげることもできない脆弱な僕が、ただしてやれる唯一のことだった。
やがて僕たちは僕たちの生活をする。高校生と中学生。この血濡れた家と共にある。というのも、僕等には祖父母がいなかった。近しい親戚という存在がからっきしだったから引き取り手がいなかった。未成年という完成されない人間の責任を負う保護者を僕らは失ってしまったのだ。細部の細部まで話は知らないのだが、たらい回しにされたということだけは僕らの面倒を見てくれた警察官が教えてくれた。接点の少ない金のかかる面倒事を引き取るほど世の中は甘くないらしい。結局僕らは回すに回されとある遠い親戚に引き取られることになるのだがあれからあったのは一度きりだった。妥協案としては、親戚同士でお金を持ち寄って必要最低限のお金を振り込むというものだった。僕たちを慰める言葉がいつの日からか嫌煙されたような呟きに変わった時僕は果てのない孤独を感じた。或いは二度絶望を知った。そうして、僕は僕の優を護らねばならないのだと悟った。この命に代えてもたった一人生き残った唯一の家族を幸せにすると、今は亡き両親に誓う。そう、この世界で、僕達はたった二人きりだ。寄る辺はなく縁を失った。故に僕が彼女の寄る辺となり縁にならなければならなかった。僕は彼女のために生きるのだ。
かくして、現在に至る。
「今日はもう寝よう?」
「もうそんな時間か」
ふと時計を見る。懐かしいその短針と長針を目に刻み付けて僕は言った。そもそも今何時だったのか非常に曖昧だったが、見ればもう深夜一時を回っていた。およそいい子は寝る時間である。
「僕は僕の部屋で寝ればいいかな?」
「いゃ」
「ん?」
思ってもいなかった反応に僕は少し驚く。反して彼女は少しばかり恥らいながら僕の様子を見た。
「何だい?」
「えと」
要領を得ないときはじっと待つのが僕のやりかただった。
「うーん」
はい
「その」
はい
「今日だけは、一緒に寝ていい?」
「はい」
もはや寝るしかなかった。甘えん坊ということは昔から変わらないらしい。いつまでたっても子供だった。ほほえましい限りだ。
そうして二人でベッドに入った。大人二人が寝るには少しばかりサイズが間違っていたけれどもはや気にはならなかった。それだけそこは幸福的な場所だった。
例えば恋人や夫婦がなんとなしに同じベッドに入るのとは意味が違った。僕らは睡眠という究極的な癒しを共にするのだ。信頼し得るからこそ熟睡できるのだろう。
「明日は土曜日なの」
「そうなのかい?」
「そう。それでね」
「うん?」
一拍置いた。彼女はまるで僕の機嫌を伺うみたくそっと聞いてくる。
「純君とご飯に行くんだけど、一緒にどう?」
「純と?」
「そう」
古い親友だった。僕が高校生の頃世話になった親友でそのあともずっと友人でいてくれた気のいい男だった。
「迷惑でなければ行きたいな」
「やった」
純には世話を掛けた。それこそありとあらゆること、もっと言えば優のことに関しても迷惑をかけた。恐らく、僕は彼に一生頭が上がらないだろうと思う。それくらいには感謝していた。
優のうれしがる姿をみて僕はほほえましく思った。そんな些細なことが僕には新鮮すぎてあまりにも眩しすぎた。目が滲むのはその眩いばかりの笑顔のせいだ。僕はごまかすようにそっと目を伏せた。
「楽しみだ」
僕は明日が待ち遠しくてたまらなかった。或いは、明日が来るという希望の先に身をゆだねたかった。それは待っても望んでも手に入らないものだったから。だから、待ち遠しかったんだ。
あらゆることが僕にとって幸福だった。目に映るもの手に取れるもの肌で感じ取れるもの心で受け取れるもの全てが僕に衝撃を与えた。やがて幸福すぎてパンクしてしまいそうになるほど、この数時間の出来事は奇跡的であった。
ほどなくして隣から可愛げな寝息が聞こえる。久方ぶりにみる光景だったが幸せそうで何よりだった。ふと哀愁と懐古に押しつぶされそうになる。だがしかし僕もついには眠るだろう。
泡沫の夢へと誘われるのだ。深い暗闇の中に。その先に光があると信じて。
両の掌から零れ落ちてしまいそうな幸福を抱きながら、その裏腹に、いつか失ってしまうのではないかという恐怖を浮かべて、嗚呼、僕はまた、眠るのだ。
生ぬるくてソフトチックな視線で見て下さい