再会
拝啓
冬の寒さも和らぎ、心地の良い風が首元を心地よく撫で、爽やかで過ごしやすい季節になりました。
お兄ちゃんは、元気ですか?今、私はとても幸せです。無事に結婚を終え、幸福に満ちた家庭を築き、慣れなかった生活に徐々に馴染みはじめました。私を大切にしてくれる人と供に過ごすこの時間が、私にはまるで光る宝石箱のように美しく思えて、何よりもかけがえのない幸福を私達で甘受するのはまだまだ難しい話しかもしれません。
今はお兄ちゃんの力を借りなくても、一人前の生活を過ごせています。それは私一人では難しかったかもしれませんが、私を支えてくれる人の存在のおかげで、何とかここまでやってこられました。なので、心配しないでください。とても心配性なお兄ちゃんはそんなことを言っても私のことを気にかけてくれると思いますが、それでも私は大丈夫です。
お兄ちゃんは、知らないと思いますが、私の初恋は、叶いませんでした。そんな苦い思い出も今の私を構成するものの一つで、今では私の幸せの一部です。それでも、いいんです。だって今、私は幸せだから。
だから、心配しないで、お兄ちゃん。
今はもう届かないけれど、決して私の声が届くことはないかもしれないけれど、それでも私は貴方の元にいつか届くのだと信じて、声を上げます。この声で貴方に届けます。一体、どこに届けるのかは知らないけれど、伝え方なんて分からないけれど。でも、きっとお兄ちゃんなら私の声を聞いてくれるはず。だっていつもそうだったから。これは宛のない手紙なのかもしれません。これが貴方に届くことはないでしょう。ですが、私は書きます。これが私の唯一の家族である最愛のお兄ちゃんへと向けた、最後の手紙で、そして最後の声だから。だからどうか、届いてください。どうかどうか、貴方の中に伝わってください。これで、最後だから。
私はこれから、私の人生を歩みます。そして、お兄ちゃんも、自分の世界を歩みます。どうか、私の心配はしないでください。
敬具
平成〇〇年 〇月 〇日
たった一人の家族
寒さもますます深まって、コートを着込んでも寒さを防ぐことが難しくなって、誰しもがマフラーやら手袋やらの防寒具に身を包んで背中を丸めながら歩く。この日東京では珍しく、雪が降った。交通の便に影響をもたらすほどではなかったが、しかしだからと言って久しく降る雪目当てに足を止めて傍観するような者はいなかった。それだけ夜の東京は、せわしい。人の心が荒んでしまったのか、それとも東京の空気が人をそうさせるのかは分からないが、とてもさみしい光景だった。酷く冷たい粉雪では、硬く凍ってしまった人の心を溶かすことはできないらしい。彼らの寒さは外界的な要素ではなく、内面的な要因で及ぼされる切なさも、その原因のひとつであると言ってもいいと思う。どうにも辺り一面の景色が真白く見えてしまうのは、恐らく雪のせいだけでもないだろう。時の奔流は速く、故に彼らの目に留まることのできるものは脆く拙い。精巧なものは時間の流れの緩やかな者が手に取ることで初めて価値を見出すことができるのだろう。だから、よく見ればただの白い粉のような雪の、その本来の姿がどの個体を比べても全く等しいものはない華やかなガラスの結晶だったとしても、それを彼らは認識することができない。この町が、この国が、人々をそうさせるのだろうか、それとも人間とはこんなにも愚かな生き物だからだろうか。
誰にも確認されることのないものがある。誰しもが認識する事の出来ないものが、この世界にはいくつもある。或いは、それは認識してはならないものなのかもしれない。それは人の想いであったり、何かの真意であったり。あるいは、この目で捉える事の出来ないモノであったり。もしくは、何者との混じり合うことができない理の環を逸した特別な何かを指すのかもしれない。たとえそこにぼんやりとした意識があったとしても、誰とも混じり合うことができなければそれはないものと全く同じであろう。言ってしまえば、誰かの意識の中にあるときにこそそれは意義を見出すことができ、認識されることによって初めて存在することができるのだろうと思う。たとえばこの粉雪のように、一見すれば小さな埃のような綿菓子くさい白い物体も、それは神秘的なものであると認識して意識すれば美しい結晶の鱗片であると確認できることと、全く同じだ。
そう、思ったんだ。だって僕がそうだったから。
いつの日からか僕の意識は深い暗闇の中にあった。或いは、僕の意識がはっきりとあるうちはいつも暗闇だった。深淵にも近い凍えるような闇の中だった。思考はなく感慨や感情はそこになかった。ただぼんやりと漣のような微睡の中で何をするでもなくただ揺れ流されているだけだった。それを疑問にも思ったこともないし苦痛に感じたこともない。まったくもって違和感を覚えることはなかった。そもそも、疑問や苦痛といった概念がそこにはなかったようなきがした。かといって幸福や至高に満ち足りるような満足で有意義なものでもなかったけれど。もっとも、疑問や苦痛を覚えられないのと同様に幸福などといった有様も全くの無縁だったからそこの区別はつかなかった。或いは。
「前見て歩けよ」
刹那。僕は前とは誰で見てとは何で歩けよとは何を指す言葉だったのかわからなくなった。わからないというよりも、それを明確に思い出すのに少々の時間を強いた。次いで、僕は自身の身体に少しばかりの衝撃が走ったことを認識してそうしてようやく人という存在にぶつかったのだと理解した。そこからようやく、僕は立ち尽くしているのだという状況を飲み込めた。
終にはやっと落ち着いて、それからあたりの眩しさに目を眩む。ふっと目線を上げる。
嗚呼。
見上げた夜空は輝いていて、眩しかった。
そこで僕はその瞬間、自分が生きていることに気が付いた。自らに生が吹き込まれていることを直感した。何とも不可思議な話だ。一見すると蒙昧で愚かな作り話めいたホラのように聞こえなくもないが、僕はこの言葉以外今この現状を言い表す方法を知らなかった。
僕は、生き返ったのだ。
他愛もないごく小さな雪から再び生まれた。誰からも認識されない薄暗い世界からようやく雪とともにこの世界に舞い落ちた。何の脈略もなく発作もなく前触れもなく、人の行きかう群れの中に、ふとぽつりと立っていたのだ。何の意識もないところからゆっくりと誰が自分をすくいあげるように僕は忽然とそこにあった。
とても不思議な感覚だった。決して不快なんてことはなかった。自分のことを明確に理解するまでに少々ばかりの時間を使ったが僕が誰であるかということを思い出すのに全くの苦労はなく、その瞬間はまるで新たなる生を受けたかのように心の内側は新鮮で清々しいといっても過言ではなかった。
その時本当に僕は、生まれたのだ。白く灰に濁った世界に僕はいずれかの母体から意識もなく産み落とされた。本来なら、存在するはずのない存在が、生きているはずのない生き物が、ありえないものがここにはあった。誰からも認識されるはずのなかったぼんやりとした形のない意識が、四肢を得て造形をなした。
生き返った、という言葉はつまるところ遡れば死があったということだ。死という概念に隷従した、生のない生き物である。しかし僕は、再びこの地に足をつけた。否、正確には足をつけていたと言った方がいいのかもしれない。誰が望んだのかは知らないが、あるいは誰かが望んだのかもしれないが。
次いで僕は、僕以外のことを思い出した。
もっと言うならば、この手から零れ落ちてしまったかけがえのないヒトが脳裏に浮かんだ。或いは、それは僕の使命のようなものだったのかもしれない。ずっと闇の奥底の誰にも触れられない暗い部分の中でひっそりとあり続けたただ一つの願いを僕は胸に刻み込んだ。それは日の当たることのなかった、叶うはずのない願いで、届くはずのない想いであった。もしくは、僕は気が付いたと言ったほうがよかったのかもしれない。ふと立ち止まればすぐに思い出すことができたということに。
そうして、僕はきっと僕が為さなければならないことを思い知る。他でもない、僕自身が何よりも望んだ事を刻み込む。
ようやっと本当に思い出すことができた。僕というものの本質を。
僕には大切な人がいたんだ。それは我が身に変えても守りたくて、どんなものも勝ることはない唯一無二のたった一人が。僕にはいた。
僕には、家族がいた。
僕はその子を、幸せにしてあげたかったんだと思う。だから、だからこそ、僕はこうして雪と供にここに降り立ったのだろう。はっきりとは言えないけれどきっとそんな気がした。
曇天を仰いだ僕の額に降り堕ちた粉雪はどことなく冷たく、だけれどもそれはほんのりと暖かかったような気がした。
やがて僕は人の流れに沿って歩いた。ついにはその緩やかな流れもやんで、もの静かな住宅街の中を半ば無意識にも近い状態で歩き、そうして僕はようやく懐かしい場所に辿りついた。特に何を考えたわけでもなかったがごく自然と僕の身体は引き寄せられた。たとえば蟻がエサなんかを探しに行ったとき必ず自分の巣に戻れるみたいに、或いは慣れ親しんだ我が家に帰るのに明確な意識なんかがなくてもいいように、僕にとってそれは本能的な何かだったのだと思う。何故なら、僕何処にいたのか今の今までわからなかったのだから。つまりは懐かしい、僕の住まいだった。僕にだってもちろん家庭はあったし、愛すべき人もいた。何より家族がいた。たった一人だったけれどいたんだ。僕には、帰るべき場所があった。それを僕は敢然と見つめるのだ。
いつぶりだろうか。そんなことは分からない。何故なら僕は今この僕自身の時間を誰が所有しているか知らなかったから。少なくとも僕が持つ事の出来る時間ではなかったはずだ。僕は僕が手の内からこぼしてしまった小さな一瞬から、時間が止まってしまった。だから、この瞬間を生きる僕自身は多分、誰かのものなのだと思う。それが誰かは分からないけれど。だから、僕は幾年ぶりにこの家を訪れたのかわからなかった。
チャイムを鳴らすその手は、ここぞとばかりに震えた。それは寒さだけのせいではなかったことは明白だった。自分自身がありもしない偶像で、空虚に意志を持った僕の残像ではないと誰が証明してくれるだろうか。何よりも僕は僕自身を信ずることができないのに、あまつさえそれを久方ぶりに会いまみえる人がまさか僕という在るはずのない存在を信じることができるだろうか。どうしようもなく誰かの否定を僕は恐れた。それは、一度世界から否定されたあの瞬間から僕の中に居座る悪い虫なのだろう。僕の右手を引き留めるのは、そんな悪意のない必然。無作為に選ばれた終焉に酷似した限りない否定。僕はもう、誰かの意識から消えたくはなかった。もう一度失われることだけはどうしても避けたかった。だから今は、出逢いを恐れた。
でも。例え僕が何を思っても。何を願おうとも。どう抗おうとも。世界は僕の意志を聞いてはくれない。もしくは、それが運命というものなのかもしれない。
扉が開いた。それは見覚えのある顔だった。僕は決してその顔を忘れることはないだろう。否、脳裏に焼き付いて離れないとはこのことかもしれない。すでに、忘却することは許されないのかもしれない。僕は咄嗟に顔を伏せた。それは無意識から起こる防衛反応のようなものだった。僕はこの時やはり恐れたのだ。在る筈のない者はいつも、受け入れられることはない。それは自らの理解できる範疇を超えたこの世ならざる者で、存在する方法を見失った失墜者であるからだ。
「え・・・?」
彼女は半信半疑といった様子で僕に声を掛けた。僕は何か言わなければと思いながら口を開くが、声がのどを震わせることはなかった。
少しの沈黙が続いた。とても居心地が悪かった。言葉はなくとも鋭利な視線が僕を貫いてやまなかった。僕はそれをそっと受け止めることができなかった。
「・・・」
彼女の言葉にならない声は震えているように思えた。恐怖からか、それとも淡い期待を抱いてかは分からなかったが、その声は明確な焦点を持ち合わせてはいなかったことは確かだ。或いは、僕の答えの先を見つめていたのかもしれない。
「僕は」
言葉にはならなかった。それを言葉にすることはできなかった。言葉なんかでは形容することができなかった。
「・・・」
少ししてから彼女は恐る恐る僕に近づいてきた。多分とても勇気のいることだったと思う。それはほかならぬ僕が今ここで実感している。一歩一歩確実に。明確に。もはや逃げ場のないそこで、僕と彼女の距離は確かに縮まっていた。
やがて彼女は僕の前に辿りつく。辿りついてしまう。一抹の不安と一握りの期待がごっちゃまぜになって形容しがたい気分だ。鼓動が異様に早まった。変な汗が全身から噴き出る。それでも未だ言葉は出なかった。それどころか自らの全身を満足に使役する事すらままならない状況だった。
怖かった。ただ、怖かった。
僕という不明確な存在を否定されるのではないかと思うと、僕はただひらすら恐怖するしかなかった。それがよりにもよって彼女からであったならば、さらに深くそう思うだろう。在りもしないものを、彼女が否定するんじゃないかって、僕は思った。
「僕はね」
僕は必死に自らを証明する手段を考えた。それは途方もなく蒙昧な行為で、しかしそれでいてそれは僕らにとって必要不可欠なものだった。僕は伝えたかった。確かめたかった。恐らく彼女もそうだっただろう。僕はここにいて君を瞳に映すことができて、君は健在で僕をようやくとらえることができたのだから。お互いを確かめ合いたかったんだ。でも、とても拙くて不器用な僕たちには祝福を分かつ言葉も、永劫の別離を経た会合に見合った挨拶も、持ち合わせてはいなかった。言葉は、なかった。
「うん」
彼女は小さく声を出した。それは言葉というには少々思いが形になりすぎているものであった。もしくは、言葉として形成される必要のなかった気持ちだ。
「嗚呼」
それはとてもゆっくりだった。僕と彼女を取り巻く時間の奔流は果てしなく微量に流れていた。静かに流れゆく瞬きの中で僕らの想いは爆散した。色々な感情が浮かんでは沈み浮かんでは沈みを繰り返してやがてひとつに収束すると、それは至って簡単なとても稚拙な感情だった。
僕はもう止まることはなく、彼女の背に両手を回した。同じように彼女も僕の懐にそっと入り込んで抱擁した。止まっていた砂時計がサラサラと動き出したかのように、時間は急速に進む。
多分、僕らに言葉なんてものはいらなかったのだろう。それはあまりにも無粋で、或いは間違っていて、それでいて意味のない手段だった。ただそっと僕たちを確認できるような、やさしくて暖かい君を受け入れるだけでよかったんだ。
とても暖かかった。幸福的な温もりを感じた。その空間は現世とは別離した愛で満ち満ちた神秘的なもので、まるで曇りのないビー玉の中のように美しかった。
僕と彼女はそれから長い間お互いを確かめ合っていた。互いの存在を刻み込んでいた。僕と彼女にとってそれは大切な時間で、失ってしまった時間を埋めるための儀式めいた行為だった。
だが、終始、そこに言葉はなかった。
生暖かい目で見て下さい。