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夕顔殿始末  作者: 自嘲亭
9/14

その9

「うむ、見込んだ通りじゃ」若月弾正は満足げに呻くのでした。「力の加減が、ちょうど良い」

 弾正の肩を揉んでいるのは、千代でした。

 千代は弾正に呼び出され、本城に来ています。

「萩の方様は、如何だったのですか」

 千代は遠慮なく弾正に訊きました。

 この弾正に対しては、下手な遠慮などはしない方が良い。

 千代は、初めて弾正と対面した時に、そう察しました。

 もちろん、夫の父であり、何より主君でありますから、何事も無遠慮でいいという訳ではありません。

 何を遠慮せず、何を遠慮すべきか、常に賢く考え、立ち回らねばなりません。

 しかしあまりにかしこまり、慎重な物言いをし、顔色をうかがわれることを、この弾正が好んでいないのは、千代にはすぐにわかったのです。

 要は、「相手の懐に飛び込んでしまう」のが良いと、千代は瞬時に悟ったのです。

「あれか」弾正は吐き捨てるように云いました。「あれはそもそも、わしの肩なんぞ、揉もうともしなかったわ。それどころか、膝枕だってしてくれなんだわ」

「まあ」千代は云いました。「それはお可哀そうに。でも…」

 千代が口ごもると、弾正はギロリと目をむき、振り返りました。

「でも、何じゃ。遠慮なく云え」

「それで良くお二人の間に一郎様がお出来になられたと…」

 弾正はギロリと千代の顔を睨んだままでしたが、やがて、破顔して呵々大笑しはじめました。

「千代よ、おまえは面白いことを云うのう」大笑いしながら弾正は云うのでした。「まったくじゃ。わしもそれが不思議でならぬのよ。いやいや、おまえをあの三郎介めの嫁にしとくのは惜しいわい。もっと早くわしがお前を見つけておくのであった。おっと、これは口が過ぎたわい。戯言(ざれごと)じゃ。気にするな」

「お屋形様がお望みなら、千代が膝枕をして差し上げます」

 千代は云いました。

「うむ、そうか」弾正は嬉しそうな顔をしました。「では、遠慮なく、そうしてもらおうか」


「左近」三郎介重恒が云いました。「最近千代が、父上のところに入りびたりだ」

「お屋形様のお気に入られているのです。良いことではないですか」

 三郎介と生田左近は、轡を並べて野道を行っています。

 二人は今日も郊外に狩りに出かけていました。

「本当にそう思うか」

 三郎介は浮かぬ顔で云いました。

「と、申されますと」

 左近は問い返しましたが、三郎介は答えません。

 左近は、三郎介が何を云いたいのか、わかりました。

「まさか」左近は笑いました。「何をご心配されているのかと思えば」

「わしは」三郎介は続けます。「夜の床で千代を充分満足させていないのだ」

 左近は唖然として、三郎介を見やりました。

「あの川っぺりの蘆原ならば、人目につかぬかと冷や冷やしながらでもあり、逆に無我夢中になれたのだ」三郎介はなおも続けます。「しかし安全な城の中では、どうもその…わしはともかく、千代の方が乗り気ではないようなのだ。わしはどうしてよいかわからぬゆえ、ことを済ますと、あとはひたすら寝たふりをしている。するとな、横で千代の溜息が聞こえるのだ」

 左近はどう返答してよいものか、困惑したまま、三郎介を見やっておりました。

 単純明朗に見えて、妙に細かいことに気が回る癖が、この三郎介にはありました。

 いっそ何事にも単純明朗であるか、逆に何事にも細心であってくれた方が、左近としては楽でした。

 楽…と云うより、その方が主君として信頼できるし、家臣として勤め甲斐がある、と云うべきでしょうか。

 この間も左近は三郎介から、一郎重次の消息を探していた時のことを聞かされたばかりでした。

 すなわち、もし一郎が野盗などに討たれていた場合はそのことを揉み消すつもりであったこと。

 あるいは万が一生きて隠れていれば、秘かに殺すつもりであったこと。

 若月の家の不名誉になるといけないと思い、そのようなつもりで一郎の消息を探していたのだ、と三郎介は左近に云いました。

 それを聞いて左近は正直、感心するより呆れました。

 そんな心づもりがありながら、なぜ千代などとねんごろになったりするのか。

 今さらそんなことを云われても、左近には、それは三郎介の云い訳にしか聞こえませんでした。

 単に窮屈な城の生活や、うるさい家臣から逃れたかっただけであろう、と…。

 いくらその時本当にそういう立派な心づもりがあったとしても、行動がそれを裏切っています。

 しかし、どうあれ結果として、三郎介は若月の跡取りの地位と千代という嫁を得たのです。

 一瞬呆れた左近でしたが、次の瞬間にはホッとしていました。

 三郎介は妙に細かいところに気は回るが、肝心なところには思い至りません。

 そのおかげ…かどうかはともかく、ことの真実は、露見しないで済んでいます。

「さすが若様、お見それいたしました。この左近、そこまで気が回りませんでしたわい」

 この間の左近は、そう三郎介におべっかを使いました。

 しかし、今日の左近はどう答えたものか、困惑したままです。

 というのも、三郎介の心配が、あながち杞憂ではないように、左近にも思われたからです。

 ついこの間まで、単なる貧乏百姓の、真っ黒く日焼けして薄汚れた娘に過ぎなかった千代は、たちまちにしてお屋形様のお気に入りとして、城の深奥にいる…。

 これは、確かに単純に喜んでばかりはいられない事態ではありました。

 そう、千代は、いつの間にか権力を握っていたのです。

 三郎介がそこまで考えているかはともかく、左近には事態がそう読めました。

 それが、自分に有利に転べばよいが、もしそうでなければ…。

 左近は、全身にどっと冷や汗が滲むのを感じました。

 三郎介の悩みはそっちのけで、左近は自分のことで、頭を目まぐるしく、働かせていたのでした。


 やがて…。

 千代の腹は目立って大きくなってゆきました。

 しかし臨月になっても、千代は弾正のもとに伺候していました。

 そして、弾正の命令で、千代の出産は、本城で行われることになりました。

 三郎介は反対しませんでした。

 反対する理由がありませんし、三郎介には父に逆らうなどということは考えられませんでした。

 千代は幾人かのお付きの女中を従え、本城に入りました。

 その女中の中には、菊もいました。

 菊は父親の堀源之丞に似て、無口な少女でありました。

 源之丞があばら家の庭先に黙って控えていたように、菊もまた、座敷の隅の黙って控えていました。

 そんなわけで、千代のお付きの女中たちの中で、菊は目立つ存在ではありませんでした。

 だから三郎介も、支城に千代がいる時には、菊の存在になど気付きませんでした。

 千代が本城に行き、そこへ三郎介が見舞いに行ったときにはじめて、彼は同じ部屋の中の隅にかしこまっている菊の姿に気付いたのです。

 菊の姿を一目見て、三郎介はハッとなりました。

 ハッとはしましたが、三郎介はそれを口にはしませんでした。

 

 こうして、千代は子を産みました。

 が、それは女の子でした。

 めでたいことではありましたが、一方で、落胆もありました。

 昔のことですから、やはり、世継ぎとなる男の子が生まれることの方が、よりめでたいことに思われたのです。

「なに、次は男を産めばよいことよ」

 千代は弾正からも三郎介からも、同じことを云われました。

 その千代は、子を産んだとたんに、不安に襲われていました。

 これまで命を長らえて来たのは、ひとえに千代が孕んでいる…という理由によるものでした。

 他者がどう思っているかはともかく、千代自身は、そう思っていました。

 だから、無理矢理に堀源之丞と関係を持ち、その種を孕んだのです。

 この子が源之丞の子であることは、千代には疑いのないことでした。

 そのことには何の後悔も、千代は抱いていませんでした。

 腹の中に次第に子が育ってゆく実感は、千代に自信を与えました。

 あの鬼神の如く見えた若月弾正と互角に渡り合えたのも、その自信のなせる業でした。

 それが、腹から子をひり出したとたん、自信はなくなり、果てしない不安が頭をもたげたのです。

 子が男か女かなどということは、千代にはどうでもよいことでした。

 それは結果でした。

 生まれた子に対しても、愛情のようなものは沸いてきませんでした。

 この世話は女中たち任せに、乳は乳母任せにして、千代は本城で臥せったままでいました。

 三郎介のもとに戻りたいという気持ちも、薄れていました。

 あの退屈な夜の床で、次の子を孕む気がしませんでした。

 また堀源之丞と関係を持てば、あるいは孕むかもしれません。

 しかしそれは、源之丞が拒むことでしょう。

 それ以前に、千代は源之丞にもはや何の感情も、抱いていませんでした。

 一時は、あの無表情で無口で、筋骨たくましい源之丞を、好ましく思ったはずなのですが…。


「色がずいぶん白くなったな」

 弾正が千代の手を取って云いました。

 弾正が来ると云うので千代は床を上げさせ、部屋に迎えました。

 弾正は女中たちを下がらせました。

 陽は西に傾き、部屋は茜色に染まっていました。

「それに、ずいぶん痩せた。産後の肥立ちが悪いようじゃ。ちゃんと食っておるか」

 弾正はいたわりを込めて、優しい声音で云うのでした。

 千代の目に、涙が滲み、床にぽた、ぽたとこぼれ落ちました。 

「どうした。おまえらしくもない」

 弾正が云うと、千代は床に伏してさめざめと泣きはじめました。

「私は、恐ろしいのです」

「なんと」弾正は驚いて云いました。「今さら、このわしがか」

 千代は伏したまま首を横に振ります。

「違うのです。私は、世継ぎとなる男を産めませんでした。私は、三郎介様はもとより、父上様のご期待に沿えませんでした」

「この前も云ったではないか。今度は男を産めばよいことじゃ」

 千代はなおも首を横に振って云いました。

「自信がありませぬ」

「まあ、それは確かに産んでみねばわからぬものゆえ、そうであろうが…」

「そうではないのです」千代は、キッと顔を上げ、弾正を見上げました。「私は…男、女にかかわらず、三郎介様のお子を孕む自信が、ないのです」

 弾正は、千代をじっと見やりました。

 千代もまた、弾正をキッと見上げ続けています。

「何でも思ったことを云えと、父上様は仰いました」千代は云いました。「これから千代の云うことがお気に召されなくば、どうぞこの場でお手討になさってくださいまし。…千代は、今度は父上様のお子を、孕みとうございます」

 弾正は、じっと千代の顔を見続けています。

「畜生の道に堕ちるのう」弾正はニヤリと笑って云いました。「千代よ、一緒にその道へ堕ちるか」

 千代もニッと笑い、コクリとうなずきました。


 千代が生んだ姫は、松と名付けられていました。

 その松のおしめを替えるように、菊が命じられていました。

 菊が松姫のおしめを取り換えるのは、今日が初めてでした。

 松姫は、大人しい赤ん坊でした。

 と、菊の手が止まりました。

 菊の目が一点に集中しています。

 それは、松姫の小さな尻でありました。

 尻の割れ目のすぐ右脇に、痣があったのです。

 神社にある狛犬に似た形の痣でした。

 この痣に、菊は見覚えがありました。

 何故ならそれは、自分の尻の同じところにも、あったからです。

 それどころかそれは、父の堀源之丞の尻の同じところにもあるのでした。

 でもこの時菊は、フッと笑っただけでした。

 偶然、としか思わなかったのです。

 むしろ、自分と同じ痣を持つこの赤ん坊に、親近感を覚えました。

 これから一生、この松姫様にお仕えしてゆこう。

 菊はそんな風に思ったのでした。


 すでに夕闇の中に沈みつつある部屋の中に、爛れた空気が満ちていました。

「千代」弾正は荒い息を吐きながら云いました。「激しいのう」

「ええ」弾正の波打つ腹の上に乗った千代が答えます。「父上様も」

 お互いの身体から滲み出るものすべてが混ざり合って、床を湿らせていました。

「千代よ…」

「はい…」

「今後は、夕顔と名乗るが良い」弾正は云いました。「そなたのその白い肌…。そう呼ぶのがふさわしい。どうじゃ、顔に似ず、わしは風流であろう」

 答える代わりに千代は弾正の口を強く、吸ったのでした。  

   

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