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夕顔殿始末  作者: 自嘲亭
8/14

その8

「な、何をなさるっ」

 源之丞は千代を振りほどこうとしました。

 しかし、千代は頑丈な蔓草(つるくさ)のように、源之丞の身体に絡みついて離れないのでした。

「堀様はおっしゃいました」千代は叫びます。「私が孕むのは、誰の種でも良いと。そして、私が孕んでいなければ、私も、堀様も、命が危ういと。ならば堀様が、私を孕ませてくださいませ。私が、いえ、私と堀様が、生き延びるためでございます」

「な、何を云っているのだ。血迷ったか」

「私はとうに血迷っております」千代は源之丞にむしゃぶりつきながら云うのでした。「私に、恥をかかせないでくださいまし」

 源之丞はなおも千代を振りほどこうとするのですが、もはや無駄な抵抗でした。

 それから後は、源之丞にとって記憶があるようなないような、変な感じとして後々まで覚えていることになりました。

 真っ白な中に、妙に生々しく、その行為の記憶だけがくっきりと残るような感じでした。

 一方でそれは、ずっと押し隠していたものが、一気に暴発してしまった感じでもありました。


 千代はといえば、初めて満ち足りたものを感じていました。

 源之丞との行為に比べたら、三郎介とのことなど、児戯に類するものでした。

 それはともかく…。

 家へと戻る道すがら、すっかりしょげかえっている源之丞に、千代は云いました。

「堀様、腹をお召しになったりしては、なりませんよ。そんなことをしたら、私まで疑われます。せっかくのことが、無になります。いいですか、堀様、あなたはお家のために良いことをなすったのです。これは必要なことなのです。このことで責めを負うべきは、ちっともことをはっきりさせられない、生田様なのですから」

 さらに千代は云いました。

「堀様、心配なさらずとも、私にはわかります。堀様のお種は、しっかりと私の腹に根付きました。大丈夫、きっと玉のようなお子を、産んで見せますから」

 

 家に戻った二人は、ギョッとしました。

 生田左近が来ていたのです。

 それどころか、三郎介まで来ているのでした。

 源之丞は慌てて天秤棒を下ろしてひざまずきました。

 千代もそれに倣いました。

「何だ、戻って来てしまったのか」朗らかな笑顔を浮かべて、三郎介は云うのでした。「おやじ殿が、二人が水汲みに行ったというから、そこへ忍んで行って、千代を驚かせてやろうと思っていたのに」

 千代も堀源之丞も、春のように朗らかなその三郎介の言葉を聞いて、心の底が凍り付くような思いがしました。

「千代殿は今日はことのほか肌艶も良く、結構なことだ」

 薄笑いを浮かべて、生田左近が云うのでした。

 その言葉も、千代と源之丞の心胆を寒からしめるのでした。

 しかし、三郎介はそんな二人の様子に気付く風は露ほどもなく、さらに朗らかに云いました。

「千代、喜べ。すべてことは片付いた。晴れてそなたを、嫁に迎えることが出来るぞ」

「若様、お待ちください」左近が横から云います。「まだその前がございます。まずは千代殿を、我が生田の家の養女とせねばなりません。わしの娘となって初めて、千代殿は若様の奥方になられるのです」

「おお、そうであった」云いながら三郎介は闊達に高笑いしました。「気が急いてしまった」

「で、千代殿。いや、千代」左近がもったいぶった調子で云いました。「本日はそなたを我が生田の家に迎えるべく参った。本日よりそなたは我が娘となるゆえ、千代と呼ばせてもらうぞ」

「今日…今すぐなのですか」

 千代が呆然として尋ねると、左近は口髭を撫でつつ「その通りだ」と云いました。

 千代は思わず堀源之丞の方を見ようとして、慌ててやめました。

「かしこまりました」千代は深くこうべを垂れました。「不束者にございますが、よろしくお願いいたします」

 一方、堀源之丞は呆然とこの様子を見守っていました。

 その源之丞に左近はそっけなく云いました。

「源之丞、おまえのここでの務めは終わった。ただちに城に戻れ。ご苦労であった」

「はっ」

 源之丞はスッと立ち上がり、そのままスタスタと立ち去って行きました。

 千代と源之丞はお互い、一言も言葉を交わしませんでした。

 源之丞が立ち去ると、千代は訊きました。

「萩の方様は、どうなられたのですか」

 三郎介は困った顔になり、左近の方を見ました。

 左近は口髭を撫でつつ、話し始めました。

「萩の方様は、初めからのご意志通り、出家された」左近はそこでニヤリと笑いました。「と、表向きではなっておるが、実は一郎様の件をなおもしつこく云い立て続ける萩の方様に、殿ご自身がほとほと手を焼かれてな。それで、我らが一計を案じて、萩の方様は一郎様を亡くされた悲しみのあまり、気の病を患われたということにして、無理矢理ご出家頂いたのだ。まあ、一計を案じるまでもなく、やれ血まみれの一郎様が枕元に立たれただのと、常人のおっしゃり様ではないからな。これで晴れて、我が三郎介様が若月のお家の跡継ぎとなられることになったわけだ。…ん? どうした」

 千代があまりうれしそうな顔をしないので、左近は訊きました。

「それだけのことにしては、ずいぶん時間がかかられたのですね」千代は恨みがましく云いました。「千代は、心細うございました。このまま打ち捨てられるのではないかと、心配でございました」

「しっかりしておるようで、やはり女だわい」左近は笑いました。「おお、これは若様の前で失礼を。千代よ、そこはそれ、いろいろあるのよ。我々も無用の血を流したいわけではない。とはいえ、ことを穏便に運ぼうとすれば、それだけ手間もかかるのだ。力で決すれば、そりゃその方が手っ取り早いがの」

「まあ、いいではないか、千代」三郎介は屈託なく笑いながら云いました。「ことはすべて上手くゆき、わしはこうしてそなたを直々に迎えに参ったのだ。わしは恨み言をくどくど述べ立てる女子は好きではないぞ」

「そう、萩の方様のようにな」

 左近がまぜっかえすと、三郎介は大声で笑い、千代もつられて笑うのでした。

 源之丞のことなど、まるで忘れ去られたかのような、その場の有様でした。


 こうして…。

 晴れて千代は生田左近の養女となりました。

 三郎介はようやく元服を許され、名を重恒(しげつね)と改めました。

 そして、千代は三郎介と婚礼を上げました。

 三郎介は支城を任されることになりました。

 かつて兄一郎重次が任されていた、あの城です。

 千代は三郎介とともに、その城に入りました。

 そういった華やかな出来事の陰で、堀源之丞とともに忘れ去られたかのような男がいました。

 千代の実の父である、権三でした。

 忘れ去られた…といっても、別に捨て置かれたわけではありません。

 権三は三郎介の城の城下に家を与えられ、そこで暮らすようになりました。

 森のあばら家は打ち壊され、残っていた穴倉も埋め立てられました。

 権三には何不自由ない暮らしが与えらえた代わりに、千代と親子であることは一切他言無用であると、生田左近から厳命されました。

 以来、権三は独りぼっちになりました。

 三郎介と千代との婚礼にも、権三は招かれませんでした。

 後日紅白の餅が届けられましたが、それは城下の町民すべてに配られたもので、別に権三だけが特別だったわけではありません。

 権三のもとに千代が訪ねてくることなど、無論ありませんでした。

 人をやって権三の消息を訪ねさせる、ということもありませんでした。

 権三は、自分が忘れ去られたこのように思えたのでした。

 しかし権三は、我慢しました。

 娘の幸せのためなら、自分のこんな寂しさなど、大したことではない。

 権三は無理矢理自分にそう云い聞かせました。

 幸い、森のあばら家では毎晩みえたあの恐ろしい死者の姿も、新しい家に移ってからは、見えなくなりました。

 しかし、現金なもので、こうも生活が侘しく単調なものになると、そんな恐ろしいものでさえ、何だか懐かしいものに思えてくるのでした。


 城に入って、これまでとまったく違った生活を送ることになった千代にとっては、権三どころではありませんでした。

 権三のことなど、全く忘れていたと云って良いでしょう。

 新しい生活は、それこそ何から何まで、新しいことずくめでした。

 そしてそれは、思った以上に窮屈で、息苦しいものでした。

 これまで森のあばら家でのびのび生活していたのですから、当然と云えば当然でした。

 その息苦しさを千代は三郎介に訴えました。

 しかし、三郎介は笑ってこういうのでした。

「何、今のうちだけだ。そのうち慣れる」

 なおも千代が云い募ろうとすると、三郎介は顔をしかめるのでした。

「云ったろう。わしは恨み言をくどくど述べ立てる女子は嫌いだと」

 三郎介との隙間風は、それだけではありませんでした。

 夜の床の勝手が、何とも違うのでした。

 きちんと整えられた床で、何か決められた行事のように執り行われるそれは、千代に何の激しい快楽も与えませんでした。

 それも、毎晩続くと行事ですらなく、退屈な日常の行為と同じになって行きました。

 三郎介は、己の欲望を吐き出してしまうと、千代の横に寝転がって、眠ってしまうのでした。

 千代にも同じように欲望があるなどと、三郎介は思い及びもしないようでした。

 こういっては何ですが、千代は終いには、便所で便を垂れる方がまだましにさえ、思えて来たのです。

 でも、そんな千代の心を紛らす事態が、千代自身の身体に起きて来ました。

 すなわち、千代が懐妊したのです。


 その頃…。

 千代の身の回りの世話をする者として、一人の娘が新しく加わりました。

 菊という名のその娘は、あの堀源之丞の一人娘でありました。

 千代はこの娘をわざわざ指名して、自分の世話係にしたのです。

 それは、堀源之丞に対し、無言の圧力を加えるためでありました。

 千代は、堀源之丞にああは云ったものの、内心では、ハラハラしていました。

 いつ源之丞が裏切ってあのことを暴露するか…。

 千代は、源之丞のことなど信用していませんでした。

 なのに何であんな風に身を任せてしまったのか…。

 千代自身にも、分かりませんでした。

 しかし、千代が源之丞自身に云った通り、腹など切られては、それはそれで都合が悪いのでした。

 その堀源之丞は、千代が城に入って以来、あまり見かけることはありませんでした。

 源之丞は生田左近の家来ですから、左近が現れる時に、付き従っていました。

 三郎介の奥方である千代と話すことなど、当然ながらありません。

 相変わらず無表情に、無口に、源之丞は控えていました。

 しかしそのまなざしにかつての鋭さはなく、どこか鈍くなっているように、千代には思えました。

 そして千代と決して目を合わさないようにしているのも、単に主君の奥方への遠慮以上のものがあるように、千代には思えました。

 どうあれ、堀源之丞とあまり顔を合わさないことが、千代に彼への警戒心を、強めさせたのです。


 そんな息苦しい緊張と退屈が同時に、城での千代の生活を包み込んでいたのですが、意外なところに、息抜きの場がありました。

 それは、大殿である、若月弾正重光でありました。

 千代が初めて重光に目通り許されたとき、千代の目にその人は、何か巨大な岩であるかのように思われたのでした。

 むっつりと黙り込んで千代を見やるそのまなざしは、これまで見た誰よりも鋭いものでした。

 刺し貫くというより、すべてを見透かされているように、千代には思えたのです。

 人間ではない、鬼神か何かのようでありました。

「近う寄れ」

 低い声で、若月弾正は千代に命じました。

 千代は進み出ました。

 そして若月弾正の真正面に、座りました。

 じいっと、鬼神の如きまなざしが、千代を見やります。

 千代も目を逸らさず…と云うより、逸らすことなど出来ず、見返しました。

 すると、おもむろにニッと、鬼神は笑いました。

「そなた、肩を揉むのは得意か」

 千代は意外な問いにビックリしましたが、答えました。

「はい。おとっつ…いえ、父の肩を、幼い頃よりよく揉んでおりました」

「ならば良い」若月弾正は笑顔のまま云いました。「これからは、たびたびそなたに肩を揉んでもらうことになるであろう。よろしく頼む」

「はい」

 思わず千代は、畳に突っ伏して大声でそう答えました。

「元気がいいのう。それでこそ若月の嫁じゃ」

 弾正が云うと、座が笑いに包まれました。

  

 

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