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夕顔殿始末  作者: 自嘲亭
7/14

その7

 とはいえ、千代がすぐさま三郎介の奥方になれたわけではありませんでした。

「いろいろ段取りというものがある」生田左近は口髭を撫でながら云うのでした。「まあ焦らずに待つのだ」 

 三郎介は、姿を現しませんでした。

 若様は今後いろいろ忙しくなるので、もはやここには来れまい、と生田左近は云いました。

 その代わり…ではないのですが、家にはあの堀源之丞が、以来ずっと詰めることになりました。

 左近に命じられて、千代と権三の身辺警備にあたることになったのです。

 しかし、堀源之丞は相変わらず無口、無表情なのでした。

 家に上がることもせず、庭先に控えたままでした。

 夜でさえ、そのままでした。

 ただ、飯だけは、千代がこさえた握り飯を口にするようになりました。

 でも、その間も無口で、ニコリともしないのでした。

 千代には、次第にわかって来ました。

 源之丞は、私たちを守るためにここにいるのではない、と。

 私たちを見張っているのだ。

 そして…もし何かことが上手くいかなくなったら、私たちを始末するつもりなのだ。

 そう思うと、堀源之丞の存在は、重く鬱陶しいものに、千代には感じられてならなくなりました。


 千代の憂鬱は、それだけではありません。

 権三が、夜になると叫び出すのです。

「ひいいっ、ち、千代、あれを見ろ」

 権三が庭先を指さし、ガタガタ震えながら叫ぶのですが、千代には何も見えません。

「何を云っているの、おとっつぁん」

「見えねえのか。あれだ、あの、バッサリやられて、埋められてるヤツだよう。血まみれで、恨めしげな顔して、白目むいて、突っ立ってるじゃねえか」

 堀源之丞も怪訝な顔をして、こちらを見ています。

「おとっつぁん、何もいないよ。ねえ、堀様」

 千代が云うと、源之丞もうなずきました。

 しかし、権三は「ひいいっ」と叫んで頭を抱え込み、床に突っ伏したままです。

「堀様」千代が云いました。「申し訳ないけど、その辺を刀で二三回、振り払って下さいな」

 源之丞は怪訝な表情のままでしたが、それでも千代の言に従って刀を抜き、闇に向かって「やあ」と二三回、刀を振り回しました。

「おとっつぁん、ほらごらん。まだ見えるかい」

 千代は突っ伏したままの権三の身体を揺すりました。

 権三が恐る恐る、顔を上げます。

「あっ…消えた…」

 権三が云うと、千代はホウッと、一つ大きく溜息をつくのでした。

 ところが、これはこの一回では済みませんでした。

 権三は毎晩、同じように叫び出すのです。

 その度に千代は、堀源之丞に頼んで、闇に刀を振るってもらいました。

 すると、権三の目にその恐ろしいものは見えなくなるのでした。

「おやじ殿は、いささか気の病に侵されているのではありませぬか」

 ある日、昼飯の握り飯を差し出した千代に、堀源之丞が云いました。

 無口な彼も、さすがにそう云わざるを得ないほど、権三の様子は常軌を逸していました。

 そう云われても、、千代には困惑の溜息をつくことしか、仕様がないのでしたが。

 

 しかしこれは、権三だけに起こった現象では、ないようなのでした。

 数日後、生田左近が訪ねて来ました。

 挨拶もそこそこに、左近は云いました。

「どうにも、萩の方様に手こずっておるのだ」左近は困り果てたように云いました。「萩の方様の枕元に、毎晩血まみれの一郎様が立たれるそうなのだ。何か云いたげなのだが、喉笛を斬られていて声が出ぬらしい。それで萩の方様が、一郎様の亡くなり様に異議ありと、騒ぎ立てられておるのだ。それがはっきりせぬうちは、三郎介様の跡目相続はおろか、元服も認めぬと云うのだ。この調子では、そなたとの婚礼など、夢のまた夢だわい」

 一郎重次の亡骸は若月家累代の墓がある菩提寺に葬られ、萩の方様は出家して一郎の菩提を弔う意向を示していたのでした。

 千代は、権三の件を、左近に話しました。

「なんと」左近は髭をひねりながら、苦虫を噛み潰したような顔になりました。「ここにも厄介者が一人おるのか。…おやじ殿に、下手なことを口走られては困るのう。のう、千代」

 左近は云いながら、意味ありげに千代の顔を見やるのでした。


「私は、いつになったら三郎介様にお会いすることが出来るのでしょうか」

 堀源之丞に握り飯を差し出しながら、千代は云いました。

 いつもは無表情な源之丞の顔に、珍しく困惑のいろが浮かびました。

「拙者には、如何ともお答えしかねます」

「堀様は、本当は、私たちを見張っているのでしょう」

 源之丞が、握り飯を喉に詰まらせかけました。

「はかりごとが上手くいかなくなったら、私たちを斬るおつもりなのでしょう」

 源之丞はギロリと鋭い目で千代を見やりました。

 しかし千代はもう何日も身近にいたせいで、このまなざしにはすっかり慣れてしまっていました。

「答えられないのですか」

 千代が重ねて問うと、源之丞が云いました。

「答えぬということが、答えだと思って頂きたい」

 すると源之丞は、さらに云うのでした。

「拙者もお尋ねしてよろしいか」

 千代は驚いて、怪訝な表情で、うなずきました。

「千代殿は、本当に孕んでおられるのか」

 千代は驚愕が表情に出そうになるのをどうにかこらえました。

「ふふふ」千代は内心の動揺を押し隠し、口元を抑えて笑います。「何をバカなことを」

「孕んでおられるにしては」源之丞は冷静に続けるのでした。「例えば、最初千代殿は左近様に、自分であの穴を掘り返すとおっしゃっていたとか。男の拙者でも相当骨が折れる力仕事を、孕んでいるはずの千代殿が申し出られたというのは、責任感といったことを差し引いても、やはり解せぬ話。腹の子のことを思えば、そこは男手に任せるのが普通かと」

「ふふっ」千代は含み笑いを続けます。「あの時は夢中で、そこまで考えが及ばなかったのです」

「まだある」

 源之丞は千代を遮るように云いました。

 千代は微苦笑のまま源之丞を見やりますが、目は笑っていませんでした。

 源之丞が続けます。

「ここで拙者、千代殿の毎日の暮らしぶりを、とくと観察させていただいた。千代殿は実によく働かれる。しかし、そのあまりに普通に働かれる姿が、やはり孕んでいる女子のものではない。腹の子をいたわっている様子が、微塵も感じられない」

「そんなことはありません」千代は反論します。「毎日行っていた水汲みは、今は三日にいっぺんです。それも、天秤棒は堀様に担いで頂いているではないですか」

 その通り、川への水汲みは三日にいっぺんになっていて、それも、堀源之丞が同行しているのでした。

 もちろん、あの楽しみだった沐浴は、していません。

 と、不意に源之丞がこうべを垂れました。

「拙者は、千代殿を責めているのではありません」源之丞が云いました。「そのように申さねば、千代殿は生き永らえられなかった。だが、今は千代殿が本当に孕んでいなければ、これまた千代殿の命が危うい。いや、左近様も、拙者も、命が危うい。我々の命運は、千代殿が孕まれた若様のお子にかかっているのです。…いや、もっと云えば、その腹の子が本当に若様のお種かどうかさえ、関係がないのです」

 源之丞はハッとなって顔を上げ、慌ててまた深く、こうべを垂れました。

「これは、ご無礼申し上げましたッ」

「いいえ、いいんです」千代は云いました。「それにしても堀様は、そんな武骨な感じの方なのに、女のことに詳しいんですのね」

「はあ」源之丞はうつむいたまま答えます。「かつて女房が孕みました時のことを覚えておりまして」

「まあ、堀様は奥方がいらっしゃいますの」

「はあ。しかしその時の産後の肥立ちが悪く、あえなく亡くなりましてございます」

「まあ。ではお子さんは」

「子供は無事で」

「男の子? 女の子?」

「女の子でございます。今年十二になります」

「まあ。で、堀様は後添えの方をお貰いになったのでしょうね」

「拙者、御覧の通りの不調法者ゆえ、その後はずっとやもめでございます。娘の世話は、拙者の父母が達者でおるゆえ、もっぱらそこに頼りっぱなしという状態…」

「まあ…」

 千代は笑いました。

 源之丞が怪訝な顔をすると、千代は云いました。

「はからずも堀様のお話が聞けて、うれしゅうございます。堀様って、怖い顔してそこに控えてらっしゃるばかりなんですもの」

 源之丞は、照れたように、また顔を伏せてしまいました。

「それで、堀様が問われたことへのお答えですけど」

 千代が云うと、またハッと堀源之丞は顔を上げました。

「いえ、もう」源之丞はしどろもどろに云います。「け、結構でございます。つい調子に乗り、分もわきまえず、失礼なことを…」

「いいんです」千代は微笑みながら云いました。「でも私は、堀様のように、答えぬのが答え、などという気取ったことは申しません」

 源之丞の顔をじっと見据えて、千代はさらにゆっくり云いました。

「…堀様のおっしゃる通りですのよ。…私を、斬りますか」

 源之丞は、こうべを横に振りました。

「ではこのことは、私と堀様の間だけの、秘密です」


 三郎介はおろか、生田左近さえ、音沙汰がありません。

 さすがに千代にも、焦りのいろが見え始めました。

 しかしそれは、千代だけではありません。

 堀源之丞にも、焦りのいろが見えるのでした。

 ずっとここに詰めている源之丞には、城の動きがどうなっているのか、まったくわかっていません。

 城からは使者すらやって来ません。

 さらに二人の気分を追い詰めるのは、権三でした。

 昼はもうぐったりと床に就いたっきりになっている権三は、夜になると目覚め、そして叫ぶのです。

「で、で、出たァッ」

 源之丞が権三が指さす方に刀を振ると、

「アッ、消えたっ…」

 そう云って権三は、またクタッと、床に就いてグウグウ高(いびき)をかきはじめるのです。

 源之丞は、昼間といわず夜といわず、刀を振って過ごすことが多くなりました。

 もろ肌を脱ぎ、一心不乱に剣を振るのです。

 額にも、そして引き締まったたくましい肩や腕の筋肉にも、汗が滲み、伝い落ちるのでした。

 源之丞が焦りを鎮めようとしていることは、一目瞭然でした。

 その姿は、千代の心にさらなる焦りを募らせると同時に、別の感情も沸き起こさせるのでした。

 千代は、源之丞の引き締まった身体に、そしてその身体が剣を振る動きに、魅入られていたのです。

 気が付くと千代は剣を振る源之丞を、ぼうっと見つめているのでした。

 何か、たまらないような気持ちに、千代はなっていました。

 それが自分でも何なのか、千代はよくわかっていませんでした。

 とにかくやたらとイライラして、自分も、他人も、思い切りいじめて、傷つけてやりたいような心持ちに、なっていたのです。

 

「堀様、くそうございます」

 ある日、握り飯を差し出した千代は、云いました。

 怪訝な顔をする堀源之丞に、千代は重ねて云いました。

「堀様、お身体をもうずっと洗ってらっしゃいませんでしょう。汗臭うございます。千代は、汗臭い男の人は、嫌でございます」

「それを申すなら」源之丞も云い返しました。「千代殿も臭い。拙者も汗臭い女子は嫌いです」

 源之丞はいつもの千代の軽口だと思って、そう云い返したのでした。

 このくらいの軽口を叩き合うほどには、二人の仲は縮まっていました。

 しかし、この日の千代はいつものようにそこでケラケラ笑い出すこともなく、じっと源之丞の顔を見つめているのでした。

「今日は水汲みに行きます。そこで、川で身体を洗って下さい」

 千代は冷たい表情で云うのでした。

 このような千代の表情に慣れていない源之丞は、戸惑いました。

 何か反論したくもありましたが、結局源之丞は、唯々諾々と千代の云うことに従いました。

 いつものように源之丞が天秤棒を担いで、川まで来ました。

「さあ、身体を洗うのです」

 千代の云い方には、何か犯しがたい威厳があるかのように、源之丞には思えました。

 源之丞は一言も口答えせず、云われるままに裸になって、川に入りました。

 冷たい川の流れは、心地よいものでした。

 と、源之丞は背後に気配を感じ、慌てて振り返りました。

 そこに熱く火照った柔らかいものが、からみついて来たのです。

 千代でした。

 千代は、源之丞同様に、裸でした。

  

本日はここまでです。

続きは明日午前1時より掲載します。

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