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夕顔殿始末  作者: 自嘲亭
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その4

 千代は、とっさに云いました。

「まずは三郎介様のお悩みを、お聞かせくださいませ。三郎介様のお悩みに比べたら、私の悩みなど、どうせとるに足らぬものでございましょうから」

 この時なぜ、このように自分が云ったのか、千代にはのちのちまで考えても、分かりませんでした。

 とにかく直感的に、千代はそう云った方が良いと思ったのです。

 もし先に千代が自分の話をしていたら、その後の展開はずいぶん違ったものになっていたかも知れません。

「うむ、そうか」

 根が単純な三郎介は、ニッコリ笑って、話し始めました。


 兄一郎重次が行方不明になったとはいえ、三郎介が世継ぎになっていた訳ではありませんでした。

 一郎重次の生死がはっきりしない以上、当然ではありましたが、何といってもその生母であり若月弾正重光の正室萩の方が、三郎介が跡目を継ぐことに強硬に反対しているのでした。

 一郎重次と三郎介の間には、かつて次郎介(じろうのすけ)という、三郎介同様、若月弾正が余所に産ませた男子がいたのですが、これは早世しました。

 三郎介自身は、別に父の跡目を継ぎたいなどという、野望を持ったことはありませんでした。

 兄重次を支えて、若月の家を盛り立てて行くのが自分の役目だと、思い込んでおりました。

 しかし本人がいくらそう思っていても、周囲がそれではすまないのでした。

 三郎介自身はそんなことを云ったこともないのに、正室萩の方が三郎介の跡目相続に反対しています。

 逆に、三郎介に跡目を継がせようとする動きも、起きて来ていました。

 かつて兄が守っていた城に、今は三郎介が詰めているのですが、そこに三郎介を擁立しようとする重臣たちが日替わりで入れ代わり立ち代わり、訪ねて来るのでした。

 三郎介は、そういう話は苦手でした。

 三郎介が兄の行方を探すのだと云って城を留守にすることが多いのは、そういう厄介で煩わしい連中から逃れるためでもありました。

 という話を、三郎介は千代にしたのでした。

「だから、生きているにせよ、死んでいるにせよ、わしとしては早く兄上が見つかってほしいのだ」三郎介はうんざりしたように云いました。「そうすれば、こんな煩わしさからも、逃れられる」

 しかし三郎介は、兄が百姓や野盗に殺されるといった、不名誉な死に方をしていたらそれをもみ消すつもりであったとか、あるいはどこかで秘かに兄が生き延びていたら、家の名誉を守るために始末してしまうつもりだったとかいったことまでは、千代には云いませんでした。

 それは、三郎介だけの秘密であり、誰にも云っていないことでした。

 だから当然、千代にだって云うつもりはないし、その必要もないことなのでした。


 三郎介が話している間、千代はじっと黙って聞いておりました。

 三郎介が話し終わった後にも、千代はしばらく黙っておりました。

 千代には、三郎介が云うような単純な話には、とても思えませんでした。

 というより、千代は一郎重次がすでに死んでいるのを知っているのですから、自分自身のことも含めて、話がよりいっそう複雑で難しいものになったようにしか、思えませんでした。

 同時に、こんな話を単純に考え、さらに千代ごときにあっけらかんと話してしまう三郎介のことが、少々頼りなく、不安にも思えたのでした。

 三郎介に話を打ち明けるのは、とりあえずやめにしました。

「どうしたのだ」三郎介が訊きました。「なぜ黙っている」

「いえ…」千代は云いました。「三郎介様のお悩みに比べたら、私の悩みなど、本当に取るに足らぬ、つまらぬものに思えましたので、云おうかどうか迷っていたのです」

「何を申す」三郎介は笑って云いました。「わしが解決してやると、申したではないか。さあ、何でも話すがよい」

「三郎介様は私を…千代を本当に、お嫁さんにして下さいますのでしょうか」

 三郎介は一瞬ビックリしたように千代を見やりましたが、続いて、弾けるように呵々大笑し始めました。「何だそんなことか」笑いながら、三郎介は云いました。「心配するな。お前は誰が何と云おうと、わしの嫁だ」

「それは、お父上様はご承知なのでしょうか。それに、萩の方様は」

「いや、まだ誰にも何も云っていない。まだ云うには早い」三郎介は、これまたあっけらかんと云うのでした。「今云うては、せっかくこのように人目を忍んでそなたと逢うておる、その楽しみが失せてしまうのでな」

 三郎介は、千代のまったく笑っていないまなざしにぶつかって、ギョッとしました。

「心配するな」三郎介はニッと笑いました。「そのうち必ず父上には申し上げる。大丈夫だ。義母上(ははうえ)には関係のないことだ。何だ、そんなことを心配していたのか。本当に、取るに足らぬことを心配しておるのだな」

 三郎介はまた呵々大笑しかけて、ギョッとなって笑いを引っ込めました。

 これまで見たことのない、鬼のような千代のまなざしとぶつかったからです。

 千代の方も、三郎介の笑いが引きつったのを見て、慌てて微笑みました。

 いつぞや、初めて家に三郎介を案内した時に一瞬芽生えた殺意が、また瞬時、蘇っていたのでした。

「いや、悪かった」三郎介は云いました。「確かに、それはそなたにとっては一生の大事であったな。笑って済まなかった」


 同じ日の、夜も更けてのことでした。

「誰か来るぞ」

 闇の中で、権三が囁きました。

 云われる前に、千代はとうに目覚めていたのでしたが。

 普段から、家へ至る道には実際より多くの落ち葉を敷き詰めていましたので、そこを歩けば、必ず音が聞こえるのでした。

 そして今、家へと近付いてくる、微かな足音が、聞こえてくるのでした。

 かなりの忍び足です。

 普通に歩いてくるのなら、もっと盛大に落ち葉を踏む音が聞こえてくるはずです。

 三郎介ではありません。

 三郎介はこんな夜更けに訪ねてきたことはありませんし、第一、こんなに忍び足で来たりしません。

 三郎介でない者が忍び足で、しかもこんな夜更けにわざわざこの家に来るなんて、何かたくらみがあるに違いありません。

 が、いかんせん、気付くのが遅すぎました。

 もう、庭先の穴倉へ逃げ込む余裕は、ありません。

 権三が、歯をガチガチ震わせているのが、聞こえてきます。

 権三は用心のために、穴倉から一本、刀を持って来て、枕元に置いておくのでしたが、千代も短刀を一本、抱いて寝ていました。

 千代はそれを抜いて床から起き上がり、外の様子を伺いました。

 微かな足音はピタリと、家の前で止まりました。

 家の外と内に、息の詰まるような沈黙が漲りました。

 いや、正確には、権三の震える、カタカタいう音が、小さく聞こえているのでしたが。

 闇に慣れてきた千代の目には、権三が刀を抱えたまま抜きもせず、それにすがるように縮こまって、震えているのが見えました。

 千代は、意を決しました。

「誰ですか」千代はしっかりした声で表に呼ばわりました。「今、開けますから、お入りなさい。云っておきますが、私は武器を持っています。そして、物盗りのつもりなら、この家は貧しくて何もないとも、云っておきます。もし私を襲うつもりなら、きっと私はあなたの胸元に飛び込んで、相果てて見せましょう」

「おい」たまげた権三が、小声で叫びます。「家に入れるだと。気でも狂ったか」

「おとっつぁんこそ」千代は溜息混じりに云います。「そんな震えていちゃあ、せっかくのその刀も役に立ちゃしないわ。もっとしゃんとして頂戴」

 千代は立って戸口へ行き、かんぬきを外しました。

「おい」

 また震え声で権三が呼び掛けるのを、千代は冷たいまなざしで制します。

「私に何かあるまで、早まったことをしちゃダメだよ。この前の二の舞にはなりたくないからね」

 そう云うと、千代は閂を開けました。

 すうっと戸口を開くと、千代はギョッとして固まりました。

 戸口の間からにゅうっと、刀の切っ先が、千代の喉元に突き付けられたのです。

 そして戸口はそのまま、ぐいっと開かれました。

 表には月の光が満ちて、まぶしいほどでした。

 侍が一人、立っておりました。

 口元にひげを蓄えた、中年の侍でした。

「若様の想いびととは、おまえか」

 中年の侍は云いました。

 千代は答えず、じっとまっすぐに、侍の顔を見つめました。

「何故何も云わぬ。答えよ」

 侍が云うと、千代は云いました。

「まずそちらからお名乗り下さい。こんな夜更けに人の家を訪ねて来て、しかもこのように刀を人の喉元に突き付けて名乗れとは、無礼ではありませぬか」

 千代は手にした短刀が侍に見えるように少し動かしました。

 短刀の刃がきらりと月光に煌めきました。

 千代は、自分で不思議なくらい冷静でした。

 もちろん、薄氷の上を渡るときのように緊張していましたが、その緊張を、どこか楽しんでさえいたのです。

 侍もまた、刀を突き付けたままじっと、千代の顔を見据えていたのでしたが、やがてニヤリと笑い、そして云いました。

「気に入った。なかなか肝の据わった娘だ。よろしい。わしは刀を引っ込めるから、そなたもその短刀を引っ込めてもらいたい」

「あなたが名乗るのが先です」

 千代が云うと、侍は笑い出しました。

「おお、そうであった。わしは若月家の若様に仕える者で、生田左近(いくたさこん)と申す」

「若様とは、三郎介様のことですか」

「そうだ」

「三郎介様の云い付けで、ここに来たのですか」

「いいや、違う。若様にそなたのことを聞いて、それで様子を見にここに来た。若様をたぶらかす女狐であれば、早目に成敗しておかねばならぬと思ったのでな」

「成敗…」千代は衝撃を受けました。「それは、三郎介様がおっしゃったのですか」

「違う。それはわしの考えだ」云いながら、生田左近は刀を収めました。「若様はこれから若月の家をお継ぎ頂かねばならぬ大事な御身、今、どこの馬の骨ともわからぬ女にたぶらかされてはならぬのでな。…わしは刀を収めた。そなたもいい加減その短刀を収められよ」

 千代はしかし、かぶりを振ります。

「嫌です。その途端に、バッサリ斬られてはたまりませぬ」

 侍は呵々大笑しました。

「ますます気に入った。だがわしはもうそなたを斬る気はない。信じようが信じまいが、そなたの勝手だが」

 千代は生田左近と名乗った侍の顔をじっと見ていましたが、やがて短刀を引き、「では、中にどうぞ」と招じ入れようとしました。

 すると生田左近は手を振って「断る」と笑って云うのでした。

「中にもう一人いるではないか。さすがにわしでも、二人に襲われてはたまらぬ。ここで良いわ」

 千代も思わず、ニッと笑いました。

「生田様…とおっしゃいましたか」千代は云いました。「今あなたは三郎介様が若月のお家をお継ぎになられるとおっしゃいましたが、 しかし三郎介様が跡を継がれることには、ご正室の萩の方様が反対されているのでは」 

 すると、生田左近はギラリと目を光らせ、また刀の束に手を掛け、云いました。

「そなた、それをどこから聞いた」

「どこからって、三郎介様からです」

 すると、生田左近はやれやれ、というように大きく溜息をつきました。

「まったく、若様はいささか明朗であり過ぎる。いくら心を許した女子(おなご)だからといって、云って良いことと悪いことがある。若様はまだその分別がつかぬのだ。ああ、いや、これはわしの愚痴だ。聴き捨てられよ。いいか、このことは他言無用だ。まあでも、聞いてしまったのなら仕方がない。実は全くその通り、世継ぎである一郎重次様の生死がわからぬうちは、何と云われようと我が三郎介様の跡目相続は認めぬと、御方様は息巻いておられるのだ。とはいえ、それは全く至極な話でな。確かに一郎重次様がすでにこの世にないという確かな証拠がなければ、我々としても強く三郎介様を跡継ぎにと推すことが出来ぬ。ところが、その一郎重次様がどこへ行かれたのか、とんと消息がつかめぬという有様だ。死んでいるならまだしも、これで生きていたりしたら、もはや若様に跡目などあり得ぬ話になってしまう。そんな折だと云うのに、若様は百姓の娘などと乳繰りおうて遊び呆けておられる。あの方は欲がなさすぎるのだ。もっとも、ここで妙に欲を出すような真似をして、万が一一郎様が生きておられたら、若様も我々も、一蓮托生で罰せられよう。まったく、困ったものだ…。と、これまた愚痴になってしまったわい」

 千代は生田左近の長々した愚痴を、黙って聞いていました。

 その間に、千代の頭に、ある考えが浮かび、そして、広がっていました。

「生田様に、申し上げねばならぬことがございます」

 千代は云いました。

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