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夕顔殿始末  作者: 自嘲亭
3/14

その3

「何か問題があるのか?」

 三郎介に問われ、千代はおどおどと答えました。

「いえ、あの、汚いあばら家ですので。それにおとっつぁんに断りもなく、案内してよいものかと…」

「心配せずとも良い」三郎介はニッコリ微笑みました。「汚いあばら家なのはそなたの家ばかりではない。この辺の百姓家はみなそうだ。わしを案内したことについては、そなたを責めぬよう、そなたの父にはよく云っておく。うむ、そうだ。ついで、と云っては何だが、わしが重ねて、そなたを責めぬよう云うておくから、わしの望みを一つ、聞いてくれぬか」

 三郎介がニコニコしたまま云うのを、千代はポカンと聞いておりました。

「せっかく汚したその顔を、もう一度洗ってわしに見せてはくれぬか。そなたのきれいな顔を見たいのだ」

 三郎介にそう云われて、千代は一瞬ためらいましたが、すぐに「はい」と返事して、川のほとりにしゃがみ込み、流れを両手に掬い、じゃぶじゃぶと顔を洗ったのでした。

 そして立ち上がり、向き直った千代の顔を見て、思わず三郎介は「ほうっ」と溜息を洩らしました。

 それは、闇の中に白くぼうっと咲く夕顔の花を、三郎介に連想させました。

 この千代を強く自分のものにしたいという衝動が、三郎介の中にこみあげて来ました。

 思わず、抱きすくめて押し倒したくなりました。

 しかし、三郎介はようやくそれを、自分の中に押し留めました。

 さわやかにニッコリ微笑む三郎介の中には、そのようなけだものじみた衝動が、蠢動していたのでした。

 

 しかし千代の方も、そうと頭でわかっていた訳ではありませんが、皮膚感覚として、三郎介の微笑みの裏にある情欲を、感じ取っていたのでした。

 男、というより、オスの匂いでした。

 でも千代にはそれが、嫌なものでも、恐ろしいものでも、なかったのです。

 涼しく凛々しい三郎介の顔立ちが、声が、もの云いが、三郎介の、特にまなざしの中に感じられる凶暴な、けだものじみた欲情をも、千代には好ましいものに、変えていたのでした。

「では、案内いたします」

 千代は云い、天秤棒を、担ごうとしました。

「まて。それはわしがやろう。そなたはこの馬を引いて行ってくれ」

 三郎介はそう云って、千代を押しのけ天秤棒を担ぐのでした。

「そんな。若様にそんなことをさせては、おとっつぁんに怒られます」

「またおとっつぁんか」三郎介は笑いました。「いいのだ。わしがしたいからするのだ。千代のためなら、何だってするぞ」

 そう云って天秤棒を担いで歩き出す三郎介のさまは、なかなか堂に入っているのでした。

「お上手ですね」

 千代が褒めると、三郎介は涼やかな笑みのまま答えます。

「わしの母はそなたと同じ百姓の娘で、父上は母のもとに通われておった。わしは母と祖父母、すなわち母の父と母に、育てられた。つまりわしも百姓と同じ生活をしていたのだ。だから天秤棒も担ぎなれているのだ」

 さらに三郎介は話し続けます。

「わしには兄がいる。一郎重次(いちろうしげつぐ)といい、父上と正室(はぎ)の方様との間に出来た嫡男だ。この前のいくさでこの山の向こうの城を任されていたのだが、敵によって落とされてしまった。兄上が馬に乗って一人落ち延びるのは目撃されているのだが、それっきり誰もその姿を見た者がおらぬ。いったん落ちたその城は、我々が奪い返し、いくさは終わった。しかし兄上は、乗っていた馬だけがこの辺の山の中で見つかったきりだ。わしはその兄上の行方を捜しておる。しかし、城を守れなかった責任を感じて、もはや腹を切っておるやもしれぬ。それならば、せめてその証拠を見つけ出したい」

 千代は、三郎介のやや後を、馬の轡を引いて、歩いています。

 その顔が引きつり、強張っているのに、前を行く三郎介は気付いていません。

 あの時腹を刺していれば、まだしも切腹と云い張れたのではないか。

 千代はほぞを噛む思いでいました。

 しかしあの侍には喉の傷しかありませんし、その持っていた刀や甲冑は新しい穴倉の中にしまい込んであります。

 もしそれを見られたら…。

 おとっつぁんも自分も、厳しいお咎めを受けるに違いない。

 ならば、その前にこの三郎介も…。

 先程までの心持ちはどこへやら、千代のまなざしには何か禍々しいいろが、浮かんでいるのでした。


 家の板の間にむしろをかぶって寝ておりました権三は、千代が若侍とともに戻って来たのを見て、飛び上がって驚きました。

 千代は権三に、かくかくしかじかとことの次第を話して聞かせました。

「なぜ顔がきれいなんだ。汚せと云い付けてるではねえか」

 権三が云うと、すかさず三郎介が云いました。

「それはわしがそうしろと云ったからだ。いくら身を守るためとはいえ、若い娘にそのようなことをさせることが、理不尽だと思わぬか」

 三郎介の云い方は、千代もハッとしてその顔を見やったほど、厳しいものでした。

 三郎介はどうも、最初に会った時からこの権三という男が、気に食わないのでした。

 実直そうに見えて、権三の目には小賢しい抜け目なさが満ちていました。

 千代の話を聞くうちに、最初は驚きと畏怖に満ちていた権三の、三郎介へのまなざしには、たちまち値踏みするような、小狡いいろが満ちて来るのでした。

 それに、三郎介もたちまち気づきました。

 三郎介はいっぺんで、この権三という男が嫌いになりました。

 一方で千代の権三を見る目も、きつくなっていました。

 いつぞや見せた、あの鬼のような目で、権三を見ているのでした。

 権三がうかつなことを云わないように、千代は目を光らせていたのです。

「わしは…」権三は慎重に云います。「野良仕事をしてて腰を打って、ここ何日かこうして寝とりますがな。はあて、そのようなお侍は見たこともないですなあ。千代、おまえはなんか見たのか」

 千代は大きくかぶりを振りました。

「そうか」

 云いながら、三郎介は家の中をぐるりと見まわしていました。

 が、やがて。

「わかった。邪魔をした」

 そういうと、三郎介はひらりと馬にまたがりました。

「お帰りになるのですか」

 思わず、千代は云いました。

「うむ」

 そう云って馬を進める三郎介の後を、千代は思わず追っていました。

 三郎介が馬を止め、千代の方を見て微笑みました。

「また来ても良いか」

 千代はニッコリ笑ってうなずきかけ、慌てて権三の方を見ました。

 権三が疑わしげな眼で、じっと二人の方を見ています。

「ええ」

 千代は三郎介の方に向き直ると、ありったけの笑みを浮かべて、云いました。


 三郎介が去ると、千代はホッとしたのと寂しいのとで、グッタリと疲れてしまい、その場に尻餅をついてしまいました。

「何だ、あの侍は。一体、何があった」

 ヨタヨタと起き出して来た権三が、千代の方に来て云います。

「何もない。おとっつぁんと私の話を聞きたいというから、連れて来ただけ」

「連れて来たって、おまえ…」権三の声は震えています。「もしあのことがばれたら…」

「だから」キッとなって千代は権三を見ました。「絶対に黙っているんだ。何があってもだ。おとっつぁん、いいかい」

「そんな恐ろしい目で見るな」権三は泣きそうな声で云うのでした。「あの侍のことはとろけるような目で見るのに、わしのことはそんな鬼のような目で見るのか」

 千代は立ち上がると、権三の泣き言には目もくれず、スタスタとここまで三郎介がかついできた天秤棒の桶のところに行き、手で水を掬い、ゴクゴクと何回も飲みました。

 手の甲で濡れた口を拭いつつ、千代は云いました。

「私、もう顔も手も、汚さないよ。私だって女だ。綺麗にしたいんだ」

「な、何だと」権三は震え声のまま云います。「親の俺がおまえのためを思って云ってるのを…」

「三郎介様に云うよ。無理強いしようとするならば」

 千代は云うと、また水を手に掬い、ゴクゴク飲むのでした。


 以来、三郎介は頻繁に、千代のもとを訪れるようになったのでした。

 それを権三は、すっかり怯えきったようなまなざしで見守っているのでした。

 千代は、そんな権三をおもんばかって…と云うよりも、権三がうかつなことを口走るのを恐れて、三郎介が来ると、あの川べりへと誘い出すのでした。

 三郎介は千代を自分の馬に乗せ、後ろから抱きかかえるように、馬を操るのでした。

 たくましい腕と胸板に抱きすくめられて、千代の心は妖しくときめきます。

 すると、三郎介が不満そうに云うのでした。

「何故おまえの父はわしを見るとあのような怯えたまなざしになるのだ」

「それは…」千代はとっさに答えます。「あんな汚いあばら家に、三郎介様のような立派なお武家様をお迎えしたことがないので、どうしてよいのかわからないのです」

「なるほど、そうか」三郎介は云いました。「しかし、おまえの父のあの目付きは、気に入らぬ。今後はあのような目でわしを見るのはやめろと、おまえから云うてくれ」

「はい」

 二人が事実上の夫婦の契りを結ぶのに、さほど時間はかかりませんでした。

 川べりに行ったとて、他にすることはないのですから、当然の成り行きではありました。

 もちろん場所は川べりでしたが、さすがに人目に触れるかも知れぬので、二人はわずかばかり茂った蘆原(あしはら)の中に入りました。

 しかし人目に触れるかも知れぬと云うのは、かえって二人の気持ちと行為を激しく燃え上がらせました。

「わしは、おまえを嫁にしたいと思うておる」

 三郎介は激しい息遣いの下から云いました。

「でも私のような者が」

 千代も激しい息遣いの下から答えます。

「そんなことは気にするな。わしはおまえに綺麗な着物を着せ、髪をきれいに結わせたいのだ。そんなおまえの姿が見たいのだ。どうだ、わしの嫁になってはくれぬか」

 しかし、千代の答えはありません。

 千代はもう頭が真っ白になって、三郎介のたくましい胸板の中に、息も絶え絶えに突っ伏してしまっていたからです。


 千代がその話をすると、権三は怒るどころか、飛び上がって喜びました。

「願ってもねえ話だ」権三は千代の手を取って叫ぶのでした。「でかしたぞ、千代」

 しかしすぐに、真顔になって権三は云いました。

「あのことは、絶対に話しちゃならねえ。例えおまえが奥方様になってもだ。兄上を殺したのが、他でもねえおまえだとわかったら、ただじゃすまねえ。いいか、絶対に黙っているのだ」

 しかし千代は、うんとは云いませんでした。

「三郎介様は、そんなお人じゃない」千代は云うのでした。「訳を話せば、許して下さる」

「バカな」権三は叫びました。「いっちょまえになったかと思ったが、まだ子供だ。おまえはお武家というものがわかってねえ。お武家で一番大切なものは何かわかるか。それはなあ、体面というやつだ。面目というやつだ。おまえごとき女に侍がおめおめとやられちまったとなれば、それはお武家の面目にかかわるんだ。三郎介様が許しても、若月のお家が許さねえんだ。おまえが一郎重次様をやっつけちまった、なんてことがばれてみろ。せっかくのこの話がパアになるどころか、おまえが獄門首になっちまうわ」

 千代は、震え上がってしまいました。

「だから、黙っているのだ。絶対にだ」

 権三は、念押しするように千代の耳元に囁きました。

 千代は、震えながらうなずくばかりでした。


「どうしたのだ。顔色が冴えないな」

 三郎介が屈託のない笑顔で訊くのでした。

 それほど千代の顔色は悪かったのでした。

 権三に脅されてからというもの、千代はあの侍…一郎重次を己が手にかけたことを、これほどまでに後悔したことはありませんでした。

 何も殺すことはなかった。

 ただ単に、腹が減っていただけだったかもしれない。

 飯を食えば、そのまま大人しく立ち去ってくれたかもしれない。

 すべてはあの時、おとっつぁんが様子を見に行くなどといい、しかもへまをして薙刀を穴の蓋につっかえさせちまったのがいけないんだ。

 今こんなに私が悩まねばならないのは、全部おとっつぁんのせいだ。

 三郎介の腕に抱かれても、千代の頭の中、心の中は、こんな考え、こんな不安が渦を巻いて堂々巡りをし続けているのでした。

「何か悩みがあるのか。何でも話せ。わしがその悩みを解決してやろう」

 三郎介が、甘く千代の耳元に囁きました。

 千代は、三郎介の顔を見やりました。

「その代わり、わしの悩みも聞いてくれ」

 三郎介は云いました。   

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