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夕顔殿始末  作者: 自嘲亭
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その2

「なあに、釣った魚を絞めるようなもんじゃ。気にするでない」

 権三は千代に云いました。

 思わず、千代は権三を睨み据えました。

 このとき生れてはじめて千代は、父親に対し怒りとも憎しみともつかぬ感情を抱きました。

 権三は娘の鬼のようなまなざしを受けて、黙り込んでしまいました。

 権三としては、娘を慰めるつもりで云ったのでしょうが、目をカッと見開いたまま血まみれで倒れている屍を前にしては、いささか不用意な発言ではありました。

 といっても、それはその場限りのことではありましたが…。

 血まみれの侍の口元には、これも血に染まった飯粒が、こびりついていました。

「やっぱり、おまんまを盗み食いしおっていたのだ」

 権三がつぶやきました。

「この侍、どうしよう」

 権三のつぶやきは無視して、千代は云いました。

「う、うん…」権三はあたりをキョロキョロ見回します。「穴を掘って、埋めるしかねえが…」

 云いながら周囲を見回しているうちに、権三の頭は冴えて来ました。

「そうだな…。愚図愚図穴を掘ってるヒマはねえ。その間に仲間の侍が来たりしたら大変だ。だからって、半端な浅い穴を掘って埋めれば山犬に掘り返されかねねえ。…あそこに埋めるしかねえ」

「えっ」千代は驚きと不快を同時に顔に現わして云いました。「あそこって、あの穴倉へ!?」

「そうだ」権三は平然として云います。「穴倉の底を掘って、埋めれば見つかりっこねえ」

「いやだよ。またもし侍が襲ってきたら、殺したこの侍が埋めてあるところへ逃げるってのかい?」

「もう一つ別の穴を掘りゃいいじゃねえか」権三はうんざりしたように云います。「あの穴掘ったように、夜中にまた穴を掘るのよ。そしてあの穴は、侍埋めたらさらに埋めて平らにしちまえばいい」

 千代はじいっと権三の顔を見ていましたが、やがて、「わかった」と云いました。

「ならば」権三はペッペッと手に唾しながら云います。「これから忙しくなる。愚図愚図しているヒマはねえ。さあ、千代、おまえこの仏の脚を持て。わしは頭のほうを持つ。なんまんだぶ、なんまんだぶ。さあ、それ、どっこいしょ」


 こうして、千代が薙刀で突き殺した若い侍の屍は、穴倉の底に埋められました。

 侍が乗っていた馬は、追い払いました。

 馬は森の外へ駆け出し、どこへともなくいなくなりました。

 穴倉の中に仕舞っていたものは一時的に運び出されました。

 新しい穴倉が、別の場所…と云っても、家がすぐ見えるところではありますが…に掘り始められました。

 掘り出した残土は、元の穴倉を埋めるのに使われました。

 この作業は、すべて夜に行われました。

 そして、突貫工事で進められたのです。

 といっても、工事するのは権三と千代の二人しかいないのでしたが。

 それも、権三はこないだはしごから転落して腰を痛めたので、大した働きは出来ないのでした。

 結局、この工事の大部分は、千代がやる羽目になったのです。

 しかし千代は、もはや文句は云わず、黙々と権三の云い付け通りに仕事をしました。

 その甲斐あってか、すべての工事は十日もかからずに終えることが出来ました。

 その十日間、不穏な出来事もなく、静かだったのも幸いでした。

 千代は、夜はそんな仕事をし、昼は昼で野良仕事をするのでした。

 ほかに、千代の仕事としては川に水を汲みに行かねばなりませんでした。

 千代は、この水汲みを昼の野良仕事を終えた後の、夕闇が夜へ変わる頃にしていました。

 この時だけが、千代にとって唯一の気晴らしの時間でした。

 というのも、千代は、水を汲むついでに、川に入って水浴びをするからでした。

 いつも男物の汚れた野良着を着ている千代でしたが、それを脱いで裸になると、年頃の娘に戻りました。

 腕も顔も脚も真っ黒に日焼けしている千代でしたが、野良着を脱いだその下は、雪のように白い肌をしていました。

 身体つきもいささかたくましくなっておりましたが、裸になると不思議とむしろ女らしさが引き立つのでした。

 しかし、千代自身はそんな自分の見てくれには、気付いていません。

 千代はもっぱら、川の流れの冷たく心地よい感触を、無邪気に楽しんでいたのでした。

 千代は無防備です。

 誰にも見られていないと思っているからです。

 だからこそ、こんな宵闇迫る時を選んで、沐浴しているのです。


 しかし、この様子を見ている者がありました。

 それは、騎馬の若い侍でありました。

 といっても、彼は甲冑姿ではありませんでした。

 太刀をいた、涼しげな直垂(ひたたれ)姿でありました。

 この地域のいくさは、数日前に終わっていました。

 いったんは敵の手に落ちた城が、味方の援軍により、再び奪還され、いくさは終わりました。

 若い侍は、行方知れずになった兄を探していたのです。

 兄は、その城を任されていました。

 しかし、城は敵の手に落ち、兄は馬に乗って落ち延びました。

 それきり、兄の姿を見た者は誰もいません。

 しばらくして馬だけが、この近くの山の中で見つかりました。

 それで、若い侍は兄の消息を訪ねて、この近在を回っているのです。

 しかし、何の手がかりもつかめないでいました。

 正直、若い侍は兄が生きているとは、思ってはいません。

 とうに腹を切っているだろうと、思っているのです。

 城を奪われて逃げ延び、よもやおめおめと生きてはおるまい…。

 ならば、誰かが腹を切るのを見届けたか、あるいは一人腹を切っているのを見つけて、ねんごろに葬ってくれているのではないか…。

 それにしては、馬だけが山中をうろついていたというのは、どういうことか。

 敵の追っ手に、討たれたのか。

 ならば、その知らせは弟である彼の許にも届いていて良いはずでした。

 城主を討てば手柄ですから、それを敵が喧伝しないはずはありません。

 もしや、兄者は賞金首狙いの百姓や、野盗なんぞに襲われて命を落としたのではあるまいか…。

 それは、若い侍が最も考えたくない、一番不名誉な、最悪の結果でした。

 もしそうであるなら、なんとかそれが世に広まる前に、もみ消してしまわねばなるまい。

 若い侍が一人で行動しているのは、実はその可能性を一番心配してのことでした。

 一方で、兄が生きている可能性も、否定出来ません。

 肉親の情としては、それはうれしいことですが、しかし家の名誉となると、話は別です。

 城を奪われて逃亡した城主が、どこかでおめおめと生きている…。

 これまた、不名誉な話でした。

 百姓や野盗に討たれるより、そのほうがより不名誉かもしれません。

 もし兄がどこかで生き延びているのなら、それはそれで、ひそかに始末をつけねばなるまい…。

 弟である若い侍は、そんな風にも思っていたのでした。

 ともあれ、そんなことをいろいろに考えながら、騎乗の若い侍は田圃道を来たのでした。

 夕闇が、ますます濃くなろうとする時分でした。

 と、はるか前方に天秤桶を担いだ農夫が一人、道の脇の川へと降りてゆくのが見えました。

 別にどうということのない風景です。

 はじめ侍は、まったくこの光景を気にも留めませんでした。

 ところが農夫は、川岸に来ると水を汲むではなく、するすると着物を脱ぎ始めたのでした。

 侍は、驚いて馬を止めました。

 着物を脱いだ農夫の、その下から現れた身体は、夕闇の中で、白くぼうっと浮かび上がるようでした。

 その身体が、男ではなく、女だったので、侍は驚いたのでした。

 馬に乗ったまま、侍はその様子を、木偶の坊のように、ポカンと見やっていました。


 千代は、自分が見られているなんて、まったく思ってもいませんでした。

 もう川の流れに身を浸すことばかりに考えが行っていて、周りがよく見えていませんでした。

 それに、この時分、ここで人に出会ったことなんて、ありませんでした。

 だから千代は、思い切り油断していました。

 存分に冷たい流れに身を浸して、身体を洗い、髪を洗い、泳いだりもして、やがて岸に上がりました。  また男物の襤褸の野良着を着て、それから、桶に水を汲みました。

 最後に、せっかくきれいに洗った顔や手足に、泥をこすりつけて汚しました。

 そうしていないと、権三に叱られるからです。

「なぜ顔を汚す」

 不意に聞こえた声に、千代は魂が口から飛び出したと感じたほど、たまげました。

 いつの間にか岸から上がった土手の上に、騎乗の直垂姿の、若武者がいました。

 油断していました。

 なぜ蹄の音に気付かなかったかと、千代はほぞを噛みました。

 若武者は、ひらりと馬から降りると、また尋ねました。

「答えよ。なぜ今せっかく洗った顔や手足を、そのようにまた汚す」

 千代は、逃げようがありませんでした。

 身を隠すにも、遅すぎます。

 第一、せっかく汲んだ水を打ち捨てて帰るわけにはまいりません。

 それに相手は、太刀を佩いています。

 それで斬り付けられたら、ひとたまりもありません。

 千代は、固まって若武者を凝視していましたが、やがて答えました。

「おとっつぁんが…そうしろと云うからです」

「そなたの父はなぜそう命ずる」

 若武者は重ねて尋ねましたが、千代は答えず、じっと相手の顔を見ています。

「どうした。なぜ答えぬ」

「あなたは…」千代は云いました。「今、私が川に入っていた姿を、見たのですか」

 そう問われて、若武者はバツの悪そうな顔になりました。

「そうだ」若武者はバツの悪そうな顔のまま、答えました。「黙って見ていたことは悪かった。ひどく驚いたものでな。男だとばかり思っていたので」

 すると今度は、千代が顔を赤らめていました。

 若武者は、身なりも涼しげでしたが、その顔立ちも涼しげで、千代にはそれがひどく好ましく思われたのでした。

「男のなりをして、顔を汚せとおとっつぁんが命じるのです。そうすれば、侍に襲われても、男だと思われるから、女ゆえの理不尽な目には、遭わないって…」

 千代は、権三に固く口止めされていることを、若武者にいとも軽々と喋ってしまいました。

「なるほど」若武者はニッコリと笑いました。「ならば、その心配はもういらぬ。いくさはもう終わったのだ。わしらが勝ち、敵はこの辺一帯から追い払われた。もはや安心して良いのだ」

 その、若武者のほほえみは、ますます千代の心をとらえました。

 こんな気分は、生まれて初めてのことでした。

「名は、なんと申す」

「千代でございます。…あの、あなた様は…」

「わしはこの一帯の領主、若月弾正重光わかつきだんじょうしげみつが次男、三郎介さぶろうすけと申す」

 千代は、侍の名前やら、誰と誰がいくさをしているのか、などといったことにはとんと疎いのでしたが、それでも領主である若月弾正の名前ぐらいは聞き知っておりました。

 千代は、慌ててひざまずきました。

「千代。そなたはこの辺に住んでいるのか」

 三郎介の問いに、千代はうなずきました。

「どこに住んで居る」

 千代は、家のある森のほうを指しました。

「あそこに」三郎介は意外そうに云いました。「家があったのか」

 千代はまたうなずきました。

「その桶を担いで、あそこまで戻るのか。男手は、いないのか」

「おとっつぁんは、腰を痛めているのです。それに、私はこうやって水を汲むのが、好きなのです」

「沐浴が、出来るからか。実に、楽しそうであった」

 三郎介がそう云うと、千代はまた顔を赤らめました。

 

 三郎介もまた、千代のしぐさに心奪われていたのでした。

 汚したとはいえ、夕闇の中にあってさえも、千代の顔の美しさは三郎介にはわかりました。

 この娘を、嫁にしたい。

 三郎介の心のうちに、そんな思いが急に湧いてきたのでした。

 誰もいません。

 無理矢理、自分のものにしてしまうことも、出来なくはありません。

 しかし、三郎介はそんなけだもののようなやり方は、したくありませんでした。

 それではこの娘の身体は得られても、心は得られません。

「そなたの家に、案内してくれぬか。そなたにも、そなたの親御にも、ちと聞きたいことがあるのだ」

 三郎介が云うと、千代はハッとした顔になりました。

 そのまなざしに、一瞬の狼狽が走ったのを、三郎介は見て取りました。

 

  

  

 

 


  

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