その14
若月一族の事績を記録した、「若月家実記」という書物があります。
そこには、こう記されています。
堀某なる者がある日突如乱心し、城に乱入し、狼藉を働いた。この時の騒ぎで城下の死者の数は数百名を超え、城内も死屍累々の有様であった。堀某は成敗された。
同じ年、弾正重光は病を得て急逝した。
それだけです。
領主若月弾正重光が堀源之丞に斬られたなどとは一言も書いてありません。
また、この書物には、千代のことは何一つ書いてありません。
千代に関しては、本城に伝説が残りました。
「夕顔の空井戸」の伝説です。
「若月家実記」にある、堀某の狼藉事件があった折、城主弾正重光の寵愛を受けていた夕顔という女が、その難を逃れるために秘密の逃げ道を使って脱出しようとしたが、その抜け口である空井戸から出ることが出来ず、取り残された。その後、空井戸の中から「出して、ここから出して」という女の声が聞こえるようになった…。
また、この井戸には、別の伝承があります。
堀某の事件から数か月後、空井戸の脇に人一人通れるほどの穴が開いていた。中に入るとそれは、閉じられていた抜け道に通じていた。しかし、その中には誰もいなかった…。
さて、堀源之丞の事件があってから、一か月以上が過ぎた、ある日のこと…。
ようやく、若月家の城下は、本城も支城も、落ち着きを取り戻し始めていました。
若月家の菩提寺では、つい先ごろ、弾正重光の葬儀が盛大に執り行われたばかりでしたが、今はその喧騒もなく、ひっそりと静まり返っているのでした。
その寺の書院に、一人の老人がかしこまっておりました。
衛藤修理でした。
床の間を背にした上座には、覚照尼がいます。
「いまだ、一郎様はお出ましになられますか」
うやうやしく、修理が云いました。
「いいえ」覚照尼は答えました。「あの一件以来、まったく」
あの一件とは、堀源之丞の件のことでした。
「お寂しいのでは、ございませぬか」
修理は相変わらずごもごもした口調で云うのでした。
「いいえ」覚照尼は鷹揚な笑みとともに答えます。「あの子は成仏したのです。衛藤殿、あなたのおかげです」
「なんの」修理はごもごも云います。「私めは、禅尼様のお云い付けを、私なりのやり方で実行しただけでございます。堀源之丞の件がなかったら、いまだことは為し得ておらぬことでしょう。しかし、それにしてもあのような形でお屋形様がお亡くなりになり、この爺には、果たしてあれで良かったのかと、思えてなりませぬのですが…」
「良かったのです」覚照尼は、断定的な口調で云いました。「お屋形様は、知らぬこととはいえ、人の道に外れたことをしていた。あの女も、そうと知って何ら恥じることはなかった。畜生道に堕ちたのみならず、それを恥じることのない者など、もはや人ではない。当然の報いが、あったのです」
修理は小さくかしこまったまま、「はあ…」と、溜息とも返事ともつかぬ声を発しました。
「一郎だけではない」覚照尼は溜息混じりに云いました。「一緒に、あの女の父や母と称する幽霊まで現れては、私に訴えるのです。恐ろしいを超えて、ほとほとうんざりいたしました。連中も一緒に出なくなって、私はホッとしておるのですよ」
「はあ…」
そう返事した修理が、ふと思い出したように云いました。
「その堀源之丞の娘が、ここにおるのでしたな。如何しておりましょう」
「息災にしております」覚照尼は云いました。「父親の件があって以来、ますますふさぎ込んでおりましたが、この頃はようやく元気になって来ました。出家する覚悟を、決めたようです」
と、書院の表に、気配がしました。
「誰か」
覚照尼が誰何しますと、「菊でございます」と返事がありました。
「その娘です」
覚照尼は修理に云い、「何用ですか」と表に呼ばわりました。
「三郎介様が、お見えです」
表からのその答えに、覚照尼と修理は顔を見合わせました。
「では」修理はよろよろと腰を上げました。「私めはこれにて。三郎助様と顔を合わせるのは、いささか気が引けますゆえ、裏からお暇いたしまする」
「わかりました。衛藤殿、改めて、いろいろ、骨折りいただきました」
覚照尼が云うと、修理は「ははっ」と云って畳の上に深々と伏しました。
そして、それまでの緩慢な動きが嘘のように俊敏に立ちあがると、書院を辞して行きました。
まもなく、三郎介が書院に通されました。
「義母上様、ご息災なご様子で、何よりです」
「そういうあなたは、ずいぶんお痩せになられましたね」覚照尼は云いました。「今回の件は、あなたにもいろいろ大変であったと思います。しかし、これであなたが若月家の当主となられました。まずは、おめでとうと申し上げましょう」
「ありがとうございます」
三郎介はそう云って伏しましたが、ちっとも嬉しそうではありません。
「実は…」三郎介は伏したまま言葉を継ぎました。「本日は義母上様にお願いがあって参りました」
「お願い? この私に?」
「はっ…」三郎介は伏したままでした。「実は・・父上が亡くなって間もない今、こんなことを申し上げるのは、はなはだ心苦しいというか、非常識なのは、わかっておるのですが…」
「何なのですか。勿体ぶらずに、おっしゃいなさいませ」
「は…」三郎介はなおも顔を上げようとはしません。「実は、ここにおります菊を、我が後添えに、頂戴できないかと、思いまして…」
「なりません」
ピシャリと覚照尼に云われて、三郎介はハッとして顔を上げました。
「あの子は」覚照尼は冷たく云いました。「出家するつもりです」
「出家…」
「話は、それだけですか」
三郎介は、そうでなくともやつれはてている顔が、ますます打ちひしがれていました。
さすがに覚照尼も、気の毒に感じましたが、しかしそれを声にも表情にも出しませんでした。
「もう一つ…」すっかり元気をなくした声で、三郎介は云いました。「松を、我が元に、お戻し頂けないでしょうか。あれは、私の、たった一人の子でありますから…」
本来なら、それを先に云うべきであろう、と覚照尼は思いましたが、それも口には出しませんでした。
三郎介にとって衝撃であろうことを、どうせ伝えねばならないのですから、今さらそんな些細なことを叱責しても、仕方ありません。
「そのことについては、菊に訊くがよろしかろう」
覚照尼は云い、菊を呼びました。
間もなく、菊が来ました。
覚照尼は、菊に、彼女が見たありのままを、三郎介に伝えるよう云いました。
菊はためらいました。
涙さえ浮かべ、首を横に振るのでした。
そのあまりの様子に、三郎介は逆に興味をそそられたようでした。
「何でも話すが良い」三郎介は云いました。「わしは、もはや何も驚かぬゆえ」
そう云われて菊は、ようやく話し始めました。
父、堀源之丞と千代の、あの晩の様子。
そして、松の尻にある、狛犬のような痣が、自分の尻にも、父源之丞の尻にもあること…。
ところが、この話に、三郎介はそこまで衝撃を受けた様子がないのでした。
三郎介は深い溜息をつき、「そうか…」と云っただけでした。
その様子に、むしろ菊と覚照尼が驚きました。
「千代と云う女は…」三郎介は云いました。「わしの手には、余る女でございました。思うにあれは、何かに取り憑かれていたように、思えてならぬのです。あれにとっても、わしらにとっても、何かとても悪い夢を見ていたような…」
三郎介は、この話をしている間に、一気に十も二十も、歳をとったように、覚照尼には見えました。
「わかりました」三郎介は深々と頭を下げました。「この話は、いずれもなかったことにしてください。では…これにて」
三郎介は立ち上がり、憔悴しきった様子で、重い足を引きずるように、書院から退出して行くのでした。
それを、覚照尼と菊は、門前まで見送りました。
三郎介は門前につながれた馬に、跨りました。
伴一人を連れての、お忍びだったようです。
三郎介は一礼して、去って行きました。
心なしか、馬の足取りも力なく見えます。
新しい領主の姿とは思えぬ、侘しい後ろ姿でありました。
覚照尼は、ふと傍らの菊を見やりました。
そして、思わずギョッとしました。
菊の目が、潤んでいました。
そのまなざしに、隠しても隠し切れぬ感情が、溢れていました。
が、覚照尼がギョッとしたのは、そのことではありません。
その菊の袖を、傍らで引いている者が見えたのです。
千代でした。
千代は、無表情でした。
いや、正確には、千代がその袖を引いているのでは、ありませんでした。
千代の背後にさらに、何か得体の知れない、坊主のような、男とも女とも知れぬ者が、千代の腕を取って、菊の袖を、引かせているのでした。
瞬時に、覚照尼は悟りました。
死神…。
すべてのことの裏で糸を引いていたのは、こやつであったか…。
そう思った瞬間、千代の姿も、その得体の知れぬ者の姿も、かき消すように、なくなっていました。
了