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夕顔殿始末  作者: 自嘲亭
12/14

その12

「菊、どうした。浮かない顔をしておるではないか」

 そう声をかけたのは、三郎介でした。

 菊はハッとして、慌てて頭を下げ、その場を立ち去ろうとしました。

「そんなに急がずとも、よいではないか」三郎介は、思わず菊の肩をつかみました。「そなたと一度ゆるりと話をしてみたかったのだ」 

 その三郎介の手を、菊は激しく振り払いました。

 菊はハッとして、また慌てて頭を下げました。

「ご、ご無礼をっ」

 叫ぶように云うと、菊はそそくさと走り去ってしまいました。

 

 菊はすやすやと眠る松の傍らに来ていました。

 張り詰めた表情で松を見やっていた菊は、両手で顔を覆い、さめざめと泣きはじめました。

 しばらく泣いていた菊は、やがて、ふと両手を下ろしました。

 真っ赤に泣きはらした目が、じっと松を見つめています。

 菊の両手がそっと、松を抱きかかえました。


 その同じ日の、時間がもう少し経ってからのことです。

 支城の中は、大騒ぎになっていました。

 松姫が、いなくなってしまったのです。

 御方様の女中の一人、菊の姿も見えなくなっていました。

 今日もまた本城に行っていた千代に、至急の報せが届きました。

 ただし、あくまでも内密に、です。

 特に若月弾正には絶対に知られてはならぬ…とは三郎介の厳命でありました。

「ならば、私はむしろ、ここにいた方が良かろう」報せを受けた千代は、こともなげに云いました。「その方が、お屋形様に怪しまれずに済むと云うもの」

 結局千代は、支城に戻りませんでした。


 同じ日の、夜遅くのことでした。

 山中にある、古寺です。

 ここは、若月氏の菩提寺でありました。

 その奥の書院の表で、一人の尼僧が中に声を掛けました。

「禅尼様」

「何か」

 中から返事がありました。

「門前に、赤子を抱いた女子が…」

「何と」

 中から、紫の法衣を身にまとった尼僧が現れました。

 今は剃髪し、法衣をまとっていますが、それは萩の方でありました。

 法名を覚照(かくしょう)といいました。

「今頃の時間に参ったと。また、父なし児を産んでしまった女子の駆け込みか」 

「いえ、それが、門のところに寄りかかるようにして、女子は気を失っておりまして」尼僧は怪訝そうに云うのでした。「女子も赤子も、上等のものを召しておりますので、百姓町民の身分の者ではないのではないかと…」

「何と…」覚照尼もまた、怪訝な表情になりました。「ともかく、行きましょう」

 

 その女子と赤子は、とりあえず本堂の畳の上に、寝かされていました。

 赤子は元気な様子でしたが、女子はすっかりやつれた様子でした。

 尼僧の云う通り、その召し物が上等なものであるとは、覚照尼には一目でわかりました。

 覚照尼が来ると、間もなく女子は目覚めました。

 女子は怯えたようなまなざしで周囲を見回しました。

 居並ぶ尼僧たちに気付くと、女子は云いました。

「ここは…どこですか」

 尼僧の一人が、寺の名を告げました。

 不思議そうな顔をする女子に、覚照尼が尋ねました。

「そなたは、この寺を目指してきたのではないのか」

 女子は、首を振りました。

「見た通り、ここは尼僧ばかりじゃ」覚照尼は云いました。「心配はいらぬ。遠慮なく申せ」

 女子は、自分の名を菊と名乗り、話し始めました。


「私は、誰にも見られず、邪魔されず、支城から脱出することが出来ました。でも、その時のことは、よく覚えていないのです。ただ、私が松姫様を抱きかかえた瞬間、目の前に、不思議な女性が、立っていました。その女性は私を手招きしました。私は、何か熱に浮かされたような心地になり、その女性の後について行きました。そして、この寺の門前に着いたのです。門前まで来ると、女性の姿はフッと消え、私は気が遠くなりました。気付いたら、ここに寝かされていたのです」


「松姫…」覚照尼は云いました。「この赤子は、三郎介殿の子か」

 尼僧たちは引きつらせた顔を互いに見やったり、「何ということ」「まあ」などと叫ぶ者もおりました。

「静かになさい」

 覚照尼が一喝すると、尼僧たちは大人しくなりました。

「しかしそなたは何故、その赤子を連れて、逃げようと思ったのじゃ」

 その覚照尼の問いに、菊はじっとうつむいたまま答えません。

「これ、お答えなさい」尼僧の一人が云いました。「この覚照尼様をどなたと心得ておる。畏れ多くも、一郎重次様の、ご生母であらせられますぞ」

 菊はハッとなって、布団の上に正座して、深々と伏したのでした。

 それでも菊は何も云おうとしません。

「ふむ、何か深い訳があるのだな」覚照尼は云いました。「では、この私だけなら、話してもらえるか」

 その優しい口ぶりに、菊は一瞬逡巡しましたが、やがて、「はい」と小さく答えました。

「皆、下がりなさい」覚照尼が命じました。「私とこの娘、二人だけにするのです」

 尼僧たちは、本堂から退出しました。


 松と菊が、若月家の菩提寺にいるという情報が伝わったのは、三日後のことでした。

 寺から本城に、覚照尼からの書状が届いたのです。

 しかしその書状の中で、覚照尼は二人の引き渡しを拒否しました。

 訳あって寺に救いを求めて来た者だから、当寺で保護する、というのです。

 寺に、侍たちが集結しはじめました。

 三郎介が跡継ぎと決まって以来、不遇をかこち、くすぶっていた、一郎重次派の者たちです。

 表向きの理由は、松と菊が三郎介派によって強奪されたりしないよう、自主的に警備に当たっている、というものでした。

 しかし実際は、覚照尼が自分の味方の侍たちに声をかけ、参集させたのでした。


 その頃、千代は、本城に居続けていました。

 松がいなくなった衝撃で、床から離れられなくなった、というのが表向きの理由でした。

 実際には、弾正と愛欲の日々を送っていました。

 自分の腹に弾正の子が宿っている…と千代は弾正に告げました。

 すると弾正は喜び、ますます激しく、千代に挑むのでした。

 そういう所に、覚照尼からの書状がが届いたのです。

 若月弾正は激怒しました。

 しかし…。

「どうしたのです」千代は云いました。「何をためらっておいでなのです」

「夕顔」先にも述べた通り、弾正は千代のことを夕顔と呼んでいました。「わしはあれを、無理矢理出家させ、この城から追い払い、あの寺へ押し込んだのだ。あれの云うことを、無下には出来ぬ」

「でも、お屋形様に逆らっているではありませぬか」

「それは違う」弾正は云いました。「まだあれが一方的にそう申しておるだけだ。わしが引き渡すよう命じて、それでも拒否するなら、そこで初めて逆らったことになる。しかし…」

「しかし…どうしたのです」

「元妻とはいえ、もはや仏門に入り、我が家の菩提寺を守っておる者だ。理由もはっきりしないのに、無理矢理なことは出来ぬ。この弾正、多くの敵を倒してきたが、これまで寺社仏閣を焼いたことはおろか、弓を引いたことも一度もない。それが我が誇りである。それは今さら曲げられぬ」

「では理由がわかれば良いのですか」

「ちゃんとした理屈の通った理由なら、逆にわしが咎め立てする理由がなくなるわ」弾正はギロリと千代を見やりました。「おまえの方こそ、何か心当たりがあるのではないか」

「さあ」千代は内心の不安は押し隠して、とぼけました。「お屋形様はさんざん私としたいだけのことをなすっておいて、いざとなると私のせいにしようとなさるのですか」

「何だと」

 弾正が声を荒げると、千代は突然、さめざめと泣きはじめました。

「私がどんなに松のことを心配しているか、お屋形様はちっともわかって下さいません」床に伏して、千代は偽りの涙を流し続けます。「私はあの子の母親なのですよ。心配でない訳がない。その心を隠して、私はお屋形様のために尽くしていたのです。なのに、お屋形様ときたら…」

「ああ、悪かった、悪かった」弾正は困惑して云いました。「ではまず、あれにわしからも書状を送り、何故引き渡さぬのか、その理由を問いただす。それがわしの納得のいかぬものであれば、その時はまた手段を考える。それで良かろう」

 あまり良くはありませんが、千代は不承不承うなずきました。

 と、さらに、寺に一郎重次派の者たちが集結している…という報せが届きました。

「何だと」弾正は蒼ざめて叫びました。「一体何故だ」

 報告したのは、衛藤修理(えとうしゅり)という、白髪の老人の侍でありました。

 本城の家老ですが、本城では何でも弾正が独断でことを決めるので、あまり出番はなく、常に大人しく控えている印象の人物でした。

 また、衛藤修理は一郎重次派でも三郎介派でもない、中立の立場の者でした。

 それ故に、形だけの家老にふさわしく、誰からの反対もなく、その座にいることが出来ているのでした。

「は。なんでも、三郎介様の者たちが、松様を強引に奪い返しに来るやもしれぬので、見張りをするのだとか…」

 衛藤修理はごもごもと云うのでした。

 歳のせいで歯が抜けて、上手く喋れないのです。

「勝手なことを」弾正は激高してわめきました。「すぐに寺から立ち去るよう命じよ」

「は。しかし…」修理はごもごも云います。「無理矢理なことをすれば、争いが起きかねませぬが…」

「ぐぬう…」

 憮然として黙り込んだ弾正に、千代が云いました。

「それこそ、お屋形様に逆らっているのです。何をためらうことがありましょう」

「あの…」

 修理がごもごも口を挟みます。

「何だ」

「何です」

 弾正と千代が不機嫌そうに、同時に云いました。

「寺には松様がおりまする。いわば、人質を取られているようなもの。ここは、慎重にことを進めるべきと、存じますが…」

「ううむ、そうであったわ…」

 弾正はますます不機嫌に、黙り込みました。

 すると、修理が云いました。

「この爺に、案がございます」

「おまえに? 珍しいな。何だ、申してみよ」

「我が手の者に、寺の警護をさせましょう。我が手の者は、殿もご存知のように、中立でございます。そう云って、一郎様派の者たちは、引き取らせましょう」

「それで、どうするのです」

 千代が不審気に訊きました。

「どうもいたしませぬ」修理は涼しい顔をして、もごもごと云いました。「ただ、寺をお守りいたします。それだけです。三郎助様派も、寄せ付けませぬ」

「バカな」千代は声を荒げました。「松を取り戻さないのですか」

「いや、待て」弾正が千代を遮りました。「それで良い。わしとあれの間で話が片付くまで、そのようにせよ。ことをこれ以上荒立ててはならぬ。修理、早速そのように手配せよ」

「はっ」

 もごもごと修理は返事すると、のそのそとその場を引き下がって行きました。

「そんな」千代は不満げに口を尖らせました。「生ぬるいことでは…」

「とりあえずの、時間稼ぎだ」弾正は面倒くさそうに云いました。「ああ、肩が凝った。夕顔、肩を揉め」

「ふん」千代はふてくされて答えます。「いやでございます」

「そう云うな」弾正は千代をグイッと抱き寄せました。「わしを揉んでくれれば、わしもおまえを揉んでやろう。それで許せ。機嫌を直せ。な」

 抱き寄せられた千代は弾正を見上げ、ニヤリと笑い、コクリとうなずきました。


 松と菊の遁走は、誰にでもそうでしたが、特に生田左近には、まったくの計算外の事態でした。

 若月家の菩提寺に松と菊がかくまわれている…という情報は、本城にそれが伝わったのとほぼ同じころ、左近の許にも届きました。

 自分の手の者を引き連れて寺に行き、松を取り返す…。

 それが、まず最初に左近の頭に思いついた考えでした。

 と云うか、それしか考えられませんでした。

 三郎介に相談することは、はなから考えませんでした。

 答えはわかっています。

「父上に相談しないと…」

 そう云うに決まっているのです。

 弾正がどう考えるかは、左近にはわかりませんでした。

 と云うのも、今はあの千代が、弾正のところに侍っているからです。

 弾正が…と云うより、千代がどう考えるか、左近には読めなかった、というべきでしょうか。

 千代が弾正に入れ知恵して妙な手を打たれる前に、ことを成さねばならない。

 左近はそう決めました。

 そうとなると、しなければならないことがありました。

 こういうことに、なくてはならぬ男を呼ばねばなりません。

 左近は堀源之丞の家に向かいました。

 

 

 

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